2018年4月29日日曜日

復活後第4主日礼拝 20180429

本日は復活後第4主日の礼拝でした。
空には雲一つないすがすがしい朝に、長野教会では信徒礼拝、松本教会では主日礼拝として守られました。
松本教会では、10時半の礼拝に子どもたちが集まったため、礼拝中にこどものためのお話もしました。


ぶどうの木のたとえを聞くこどもたち

主日説教風景

私たちが互いに愛し合うところに、主によってつながれていく関係が生まれるのだという福音を分かち合いました。
礼拝報告時には、毎年来てくださっている日本国際ギデオン協会の方から証をいただく時間を持ちました。


今日の説教内容も交えつつ語ってくださいました

今日ギデオン協会から来られた方は、ご自身だけでなくご家族の方も松本教会員の方とつながりの深い方で、これも主によってつなげられた一つの奇跡のように感じました。
それぞれに、他者とのつながりを愛をもって大切にしていこう、そう思えるような主の日となりました。


† † †

この記事をご覧のあなたにも、
今日から始まる一週間のうちに、
神様の恵みと導きとが豊かにありますように。

2018年4月28日土曜日

諏訪訪問

最近、教会の庭にポピーがぽこぽこと咲いています。


昼は春を通り越して初夏に近い暑さになることもありますが、夜になると風が冷たい日が続いています。
コートがいらない日が少しずつ増えてきて、葉桜もなかなかきれいですけれども、あっという間に散ってしまった桜も恋しいですね。

四月の初めに桜の松本城も見に行ってました

さて、先日諏訪にお住いの信徒の方のお宅で、家庭集会をしてきました。

共に讃美歌を歌い

それぞれ聖餐の恵みに与りました

あたたかく歓迎してくださり、御言葉と聖餐を分かち合うことが出来ました。
車で一時間の距離。教会以外の場でも共に讃美の時を持てた事はとてもよかったです。
礼拝後は、お集まりの方々が作ってくださったご飯をいただきました。

ウドのてんぷらってとってもいい香り。

大きい鯛の塩焼きなど、みんなで分けていただきました。

青りんごのゼリーもさっぱりとした後味でおなかいっぱいに

立派な鯛の塩焼きは引退教職の方のお手製でした。
他にも野菜たっぷりのポテトサラダや揚げ餃子、甘納豆のお赤飯などを美味しくいただきました。
教会とはまた違った教会員の方の姿も見ることのできた、貴重な時間となりました。

† † †

明日4月29日(日)10時半より復活後第4主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会は野口和音牧師の説教
「生きることはつながること」

と題して礼拝が守られます。
長野教会は信徒礼拝となります。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしています。

2018年4月25日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~


食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

──ヨハネによる福音書21章15-19節

† † †

「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。
ペトロの返答は彼らしくない表現に聞こえます。彼はキリストに対していつだって素直で、まっすぐな弟子であったように見えます。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません(マルコ14:29)」「あなたのためなら命を捨てます。(ヨハネ13:38)」と言い切る言葉からも、キリストに対する愛が伝わってくるように思います。
けれどもそんなペトロが、キリストが十字架にかけられていくとき、三度もキリストを知らないと言いました。
その裏切りは、誰よりも深い悲しみをもって彼自身を縛り続けていたのかもしれません。
だからこそ彼は、素直に愛していますだなんて言えなかったのだと思います。

キリストは問いかけます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
原典ではこのキリストとペトロがそれぞれ使う「愛する」という単語が違うことがよく取り上げられます。
ペトロの「愛する」は友愛を示す単語フィレオーが使われており、キリストは二度目の問いかけまでは神の愛を示すアガペーが使われています。けれども三度目の問いかけだけは、キリストはペトロと同じフィレオーを使って、「私を愛しているか」と問いかけているのです。
この言葉の変化の中にこそ、裏切りという痛みの中にいたペトロに寄り添い、再びその愛によって立ち上がらせてくださるキリストが見えてくるのではないでしょうか。

キリストがアガペーの愛を問いかけても、ペトロは終始、フィレオーで答えています。けれども三度目に、キリストからフィレオーで問いかけられた言葉によって、ペトロは気づかされていったのではないでしょうか。
キリストはわたしの愛の限界と苦しみを確かに知っておられるのだ。アガペーではなく、友を愛するフィレオーの愛しか持ちえない、その限界の中にこそ、キリストが降りてきてくださって、ともにその痛みを分かち合ってくださっているのだと。

あなたが私を裏切ったことを知ってるよ。
それでも私は、あなたを愛しているんだ。
あなたのその苦しみを分かち合うために、私は十字架から復活して、あなたのところにやってきたんだよって。
そのような慰めに満ちた御言葉を持って、キリストは三度、言葉を変えながら問いかけてくださっているのです。

そしてそのことに気付かされたとき、ペトロは縛られていたものから全く自由になって、キリストの問いかけに応えることが出来たのではないでしょうか。
「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
もはやそこにいるのは、”私が”キリストを愛する、”私は”裏切らない、と言っていたペトロではないのだと思います。
愛は自分から生み出すものじゃない、キリストの愛が私に満ちているから、私も誰かを愛することができるようになるのだと、そのように変えられたペトロがいることを、今日の聖書は語っているのではないでしょうか。

私たちもまた、誰かを愛そうとするとき、その難しさに挫折してしまうことがあるかもしれません。私達の愛は有限だからです。
自分で誰かを愛そうとすればするほど、それはすぐに枯れ果ててしまって、自分だって愛されたいという欲求が強くなるばかりなのだと思います。
けれどもキリストはそのような私たち一人ひとりに寄り添ってくださっています。私達の枯れ果てた心を、キリストの愛で満たしてくださっているのです。キリストの愛があるから、私達はすべての人に、愛をもって関わっていくことが出来るのではないでしょうか。

キリストはそのようなペトロに、私たちに、続けて言われます。
「私の羊を飼いなさい」そして「わたしに従いなさい」と。
私達の前をいつだって歩いてくださるキリストがおられます。今週も、尽きることのないキリストの愛を、この御言葉とともに、一人でも多くの人と分かち合っていきましょう。愛が枯れ果ててしまって一歩も動けない人のために、キリストはその働きを、私達一人ひとりに、任せてくださっているのですから。

2018年4月24日火曜日

復活後第4主日礼拝のご案内 20180429

次週4月29日(日)10時半より復活後第4主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会は野口和音牧師の説教
「生きることはつながること」

と題して礼拝が守られます。
長野教会は信徒礼拝となります。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしています。

† † †

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

──ヨハネによる福音書15章1-10節

2018年4月22日日曜日

復活後第3主日礼拝:松本教会 20180422

松本教会での復活後第3主日礼拝は、鈴木浩牧師の説教によって守られました。


「福音の初め」と題して説教をいただきました


マルコ福音書の連続講解説教として第1回目、マルコ福音書1章1節-15節から福音を語っていただきました。
その後、皆で鈴木先生を囲んでの昼食会が持たれました。


うどんに山盛りのトッピング!おいしいおかずも目白押しです

昼食後は説教に関連した聖書研究の講座も持っていただきました。

マルコ福音書聖書研究の序論

皆が熱心に聞き入り、とても深い学びの時となりました。

† † †

この記事をご覧のあなたにも、
今日から始まる一週間のうちに、
神様の恵みと導きとが豊かにありますように。


復活後第3主日礼拝:長野教会 20180422

長野教会での復活後第3主日は、野口和音牧師の説教と聖餐礼拝によって守られました。
暖かい陽気に起こされたように、教会庭のチューリップが咲き誇っていました。



教会員の方がそれぞれに持ち寄ってくださった料理が並ぶと、
まるで祝会のようでした。

美味しい料理が所狭しと並びます

アップルパイや手作りの桜餅なども

笹団子は意外としっかりとした歯ごたえ

お店で買うような和菓子も手作りだったり、初めて食べる笹団子などに舌鼓を打ちながら、お腹いっぱいになるまでいただきました。
それから皆様の思い出深い讃美歌をヴァイオリンで伴奏し、共に讃美の時を持ちました。

右の歌詞のほうがなじみ深いとの意見がほとんどでした

礼拝のなかでも、集会室でも、讃美の声が高らかに響く時はなんと恵み深いことだろうと思う、そんなひとときとなりました。

† † †

この記事をご覧のあなたにも、
今日から始まる一週間のうちに、
神様の恵みと導きとが豊かにありますように。

2018年4月18日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

──ヨハネによる福音書21章1節-14節

† † †

弟子ペトロは「わたしは漁に行く」と言います。彼はイエス・キリストの弟子となる前は漁師として生計を立てていました。いわば漁のプロでした。そのペトロが、明け方までかかって、他の弟子たちと共に漁をして一匹も魚がとれなかったというのは不可解な話のように聞こえます。
けれどもそこに復活のキリストが現れて「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」という言葉に弟子たちが従うと、網を引き揚げることのできないくらい多くの魚がとれたというのです。

先週、キリストと出会った私たちを「全世界に福音を宣べ伝えなさい(マルコ16:15)」と送り出してくださることを御言葉から聞きました。
けれども今日の箇所で、福音を語るために送り出されたはずの弟子たちは、なぜか漁をしているのです。
この謎を読み解く鍵は、ペトロがキリストの一番弟子となった時に言われた言葉にあると思います。キリストはこうペトロに言ったのです。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう(マルコ1:17)」。

このことから、ペトロの「わたしは漁に行く」という言葉から、ペトロが弟子たちに呼びかけたもう一つの言葉が聞こえてきます。
ペトロは言うのです。「さあ、これから私たちは、福音を宣べ伝えにいこう」。

確かに弟子たちは福音宣教に意気揚々と送り出されていったのだと思います。
けれどもその結果は、漁の結果と同じように、誰も信じてはくれなかったのかもしれません。そのような絶望の中にいる弟子たちをキリストの言葉が導き、多くの実りを得るというのが、今日の聖書が語っていることなのです。

弟子たちはそれがキリストの言葉だったから従ったのではありませんでした。
もう何もなすすべもないと自分の無力さを自覚したとき与えられた言葉に聞き従っただけでした。
私たちもそうではないでしょうか。
私たちは自分が出来ることをわざわざ他者に頼ったりはしません。そうしていつしか、何もかも自分の力だけで成し遂げられると思ってしまってはいないでしょうか。
そのように強く考えていればいるほど、どうしても自分には無理だと思うようなことに出会ってしまったとき、弟子たちと同じように疲れ果て、無力さの中に沈んでしまうのではないでしょうか。

けれどもその無力さの中にこそ、キリストの言葉は響き渡るのではないかと思います。
苦しみ、迷い、疲れ、目を伏せて立ち止まってしまった私たちを再び立ち上がらせる一言を、キリストは必ず与えてくださることを今日の御言葉から聞くことが出来るのではないでしょうか。

ペトロが「わたしは漁に行く」というと、他の弟子たちは「わたしたちも一緒にいこう」と言いました。彼らは誰も漁のプロではありませんでした。それでも弟子たちは皆で船に乗り込み、皆で網を打ったのです。そしてキリストの業によってとれた多くの魚を、キリストと共に分かち合っていきました。
私たちも漁師ではありません。教会に人を集める技術なんて誰も持ち合わせていません。けれども力強くペトロの言葉は私たちにも響いています。わたしは漁に行くのだと。だからこそ私たちと共に人々を招いてくださるキリストが確かにおられることを信じて、私たちもその声に応えるのです。「わたしたちも一緒にいこう」と。

この一週間も、この教会という名の船を皆で漕ぎ出していきましょう。苦しみ迷う誰かに寄り添い、疲れ果てた誰かを癒すために、愛を分かち合っていきましょう。一歩も動けない誰かにキリストの言葉を届けるため、私たちはここから歩みだしていくのです。そのために私たち自身もまた、いつでも聖書の言葉に聞き従うものでありたいと、そう思います。

2018年4月17日火曜日

復活後第3主日のご案内 20180422

次週4月22日(日)10時半より復活後第3主日礼拝が行われます。

長野礼拝は野口和音牧師の説教
「愛していると言えなくても」
と題して聖餐礼拝が、

松本教会は鈴木浩牧師のマルコ福音書連続講解説教
「福音の初め」

と題して礼拝が守られます。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしています。

† † †

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。


──ヨハネによる福音書21章15-19節

2018年4月15日日曜日

復活後第2主日礼拝。 20180415

本日は復活後第2主日の礼拝でした。
松本教会では9時半から教会学校が開かれました。

こども礼拝でも福音書の日課からお話をします

10時半より、長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として復活後第2主日が守られました。
礼拝後は、松本教会では昼食会が持たれました。

皆で食卓を囲みます

朝から焚いてくださった炊き込みご飯や、タケノコが香るお吸い物など、美味しい春の香りのするメニューでした。
昼食後の女性会ではコリントの信徒への手紙2の2章15節から、女性会会報の聖研資料を用いながら、み言葉のときあかしと分かち合いの時がもたれました。

女性会

キリストにつながり、キリストの愛が香り立つ者として歩む多くの人を思い起こしながら、それぞれに思いを新たにする時となりました。

† † †

この記事をご覧のあなたにも、
今日から始まる一週間のうちに、
神様の恵みと導きとが豊かにありますように。


2018年4月13日金曜日

復活後第1主日礼拝:松本教会 20180408

4月8日(日曜日)の松本教会では通信礼拝として、復活後第1主日の礼拝を守りました。

松本教会に映し出される長野教会の聖壇

松本教会の聖壇の壁には、長野教会での聖壇の様子をSkypeを通じて映し出しています。
松本教会からはオルガンの奏楽を長野教会へと送り、それで長野教会にいる牧師が司式説教を行う、というやりかたで、毎月の第2週目の礼拝は守られています。

共に礼拝を守る松本教会の方々

相互通信のためそれぞれ音が途切れたりしたものの、説教ははっきりと聞こえたということで、赴任して初めての通信礼拝も無事終えることが出来ました。
より豊かに礼拝を守るために、もっと改善を進めたいと思います。


礼拝後は「キリスト者の自由」を読む会が開かれました。ルターの「キリスト者の自由」を読んだ後、皆で分かち合いの時間が持たれました。

† † †

15日(日)の礼拝は、野口和音牧師による説教を

「漁師でなくても釣りをせよ」

と題して、松本教会では聖餐礼拝が守られます。
長野教会は信徒礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしています。

2018年4月11日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~


〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

──マルコによる福音書16章9-18節

† † †

私たちはどのようにして、神様を信じるようになるのでしょうか。
きっと誰一人として同じ答えはないのだと思います。なぜなら私たちは一人ひとりが全く違う生活の中で生きていて、そのなかで神様に出会う体験も一人ひとりが違うからです。
聖書を読んだだけで、牧師の説教を聞くだけで、神様を信じることが出来ればそれが一番いいのですが、なかなか難しいかもしれません。
けれども自分自身の生活の中で、実際に神様が働いてくださったのだという出来事が起こった時。その確信が得られた時、私たちはそこでやっと、神様はいるのだ、私に顕れて、私に関わってくださったのだと語ることが出来るのではないかと思うのです。

今週の聖書個所ではそのような人間の姿を描き出しています。
マグダラのマリアから知らせを受けた人々、エマオでの途上に向かう人々、そして弟子たちはすべて、他の誰かからキリストの復活を聞いても信じることが出来ません。けれどもその人自身が実際にキリストに出会う時に、キリストを信じ、語る者とされていくのです。

キリストに出会うこと、神様の働きに出会うことは、もっと身近に、けれども私たちに大きな喜びを与えてくれるものです。
たとえば思いもかけない場所で昔に知り合った人と再会したり、あるいは誰にも言えないつらさを抱えている中で、自分を慰めたり癒したりする言葉が目に留まったり、誰かから与えられたりした経験はありませんか。
そのような瞬間が、私たちを喜びに満たしたり、立ち止まってしまった足を前に進めてくれたりしているのではないでしょうか。

教会もまた、そのような場所ではないかと思うのです。
喜びも痛みも共にわかちあえる友がいるということ。日々のなかで乱れた心が整えられていく時間が与えられるということ。思いもよらない人と人とのつながりが与えられて、新しい人と巡り合えるということ。週の初めの朝早くに、キリストがマグダラのマリアに現れてくださったように、この週の初めの日に、神様が私たちの間においてもまた、働いてくださっていることを、知るのではないでしょうか。

私たちが日々の中で確かに神様が働いておられる、そのことに気付くために、私たちは毎週、あるいは日々の中で、聖書の御言葉に触れるのだと思います。
聖書に記された人々が、復活のキリストが本当にいたのだという知らせを初めに受けていたように、私たちもまた、まず御言葉に触れることで、神様の働きを日々の中に見つけることができるようになるのではないでしょうか。
そうしてやっぱり神様の言葉は本当だったのだと、喜びにあふれて、また御言葉へと返っていくのではないでしょうか。そしてその繰り返しの中で、神様への信じる心が与えられるのだと思います。

復活されたイエス・キリストは言いました。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
福音とは「GoodNews」、あなたと、すべての人にとっての”良い知らせ”のことです。神様の働きによって喜びに満たされるそのことを言います。
日々の中で、神様の働きを見つけることは簡単ではないかもしれません。けれどもだからこそ、この週の初めごとにキリストは私たちに語り掛けてくださっているのだと思います。
あなたの信仰の旅路の中に、いつでも私が共にいるのだと。辛く苦しいとき、キリストが見えないときにも、その苦しみを共に担い、喜びを分かち合う友を引き合わせてくださる、そのような神様が、いつでも共にいて働いてくださっているのだと。
だからあなたも、誰かにこの喜びを分かち合うために、ここから歩みだして行きなさい、と言ってくださっているのです。

2018年4月10日火曜日

復活後第2主日礼拝のご案内 201804015

次週4月15日(日)10時半より行われる、復活後第2主日の礼拝のお知らせです。

長野教会・松本教会にて、野口和音牧師による説教
「漁師でなくても釣りをせよ」

と題して、松本教会では聖餐礼拝が守られます。
長野教会は信徒礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしています。

† † †

その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

──ヨハネによる福音書21章1節-14節

2018年4月8日日曜日

復活後第1主日礼拝。 20180408

本日は復活後第1主日礼拝でした。

日本福音ルーテル長野教会

長野教会で野口和音牧師の説教にて礼拝を守り、
松本教会は通信礼拝として守られました。
長野教会では野口和音牧師の初めての主日礼拝となりました。

満開!

長野教会前の桜が満開で、見惚れるほどでした。

長野教会礼拝堂

歓迎会のお料理

礼拝後は野口和音牧師の歓迎会が開かれました。
コロッケやカキフライ、煮物やハンバーグ、キッシュやポテトサラダ……
どれも美味しく箸が止まりませんでした。

桜をトッピング

手作りデザートも美味しくいただきました

皆で笑いの絶えない交わりの時を持ちました。
今週も喜びに満ちて一週間を歩みだそう、そんな元気をいただける時となりました。

† † †

この記事をご覧のあなたにも、
この一週間のうちに、神様の恵みと導きとが豊かにありますように。

2018年4月4日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~


安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

──マルコによる福音書16章1-8節

† † †

キリストの復活を記念する復活祭、イースターが今年もやってきました。教会では「イースターおめでとうございます」という声が挨拶になります。けれども今日、選ばれている今日の福音書の箇所を読むと、簡単には「おめでとう」という言葉が出るような情景は記されていません。十字架にかけられ、葬られていったイエス・キリストの墓に向かった婦人たちは、復活の知らせを聞くと、喜ぶどころか恐れに満ちて、逃げ去っているからです。

現在の聖書にはこの箇所の後に「結び」として続きがありますが、初めて世に出されたマルコ福音書はこの箇所で終わっていたとされています。なんとも唐突な終わり方です。
なぜマルコはこのような終わり方で福音書を締めくくったのでしょう。

はじめに「神の子イエス・キリストの福音の初め(マルコ1:1)」として語られ始めたマルコ福音書は、その全編にわたって、弟子たちの不信仰、イエス・キリストへの無理解が繰り返し描かれています。
私たちもそうではないでしょうか。聖書が教えるように、いつも誰かに愛をもって接することのできない自分がいる。望んでもいないのに、誰かを傷つけてしまった。祈ることも、聖書を開くことも時間がなくてできない。でもしょうがないんだ、と申し訳ない気持ちを抱えながら、神様に背を向けて生きている私たちがいるのではないでしょうか。
それは2000年以上の昔から、ずっと変わらない私たちの本当の姿であることを、聖書は語っているのではないでしょうか。
だからこそ、マルコが描いている婦人たちの恐れとおののきは、主が復活されたという言葉に対して最もふさわしい反応になるのです。

けれども今日の箇所で復活のキリストを告知する若者は言っています。
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』(16:7)」。
ガリラヤとは、弟子たちにとって、信仰の原点となる地です。最初の弟子であるペトロを召し出したのもそこでの出来事でした。

今や、十字架の前にすべての弟子たちが、すべての人々がそれぞれの形でキリストを裏切っていきました。そして様々な理由をつけて、神様から離れてしまっている私たちもまた、ここにいます。
そのような私たちに、キリストは告げるのです。

あなたと初めて出会ったあの場所から、もう一度、一緒に歩き出そう、と。

神様に正しい生き方なんて知らなかったあの日の出会いに戻ろう。また一緒に、初めから神様と一緒にやり直そう。キリストは御言葉に従っていくことの出来ない私たちを赦し、何度だって私たちを弟子として招くのだと言ってくださっているのです。
そしてそれこそが、マルコが最後に残した「神の子イエス・キリストの福音」への道標なのではないでしょうか。

これからの一週間、どうしてもあの人は赦せない、そう思う日があるかもしれない。自分のことだけで精一杯になって、誰かとぶつかってしまう日もあるかもしれない。
けれどもそんなあなたを愛してくださって、そのすべての苦しみを受け止めてくださる神様が、ここにいます。そんなあなたのために十字架に架かってくださったキリストが、復活されて、いつでもあなたと一緒に歩いてくださいます。

何度だって、私と一緒にやり直そう、と言ってくださる神様がいることをおぼえて、愛と喜びに満ちた一週間としていきましょう。

2018年4月3日火曜日

復活後第1主日礼拝のご案内 20180408

次週4月8日(日)10時半より行われる、復活後第1主日の礼拝のお知らせです。

長野教会・松本教会にて、野口和音牧師による説教
「信じない人々をも」

と題して、礼拝が守られます。
松本教会は通信礼拝となります。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしています。

† † †

 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。
マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
 それから、イエスは言われた。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

──マルコによる福音書16章9節ー18節(新共同訳)

2018年4月2日月曜日

枝の主日礼拝。20180325



先週の日曜日、野口勝彦牧師、長野教会・松本教会牧師として最後の礼拝が長野教会で行われました。


教会関係者の方から届いたお花を献花し、御覧の方々と枝の主日礼拝を守りました。



礼拝後は、教会員の手作りメニューで、4年間の教会活動を神さまのみ支えの中で行うことできましたことをそれぞれ感謝しました。



また、感謝会の最後には、4月から長野教会・松本教会牧師として赴任する野口和音牧師の紹介も行われました。


4年間の長野教会・松本教会の皆様のお支えとお祈りに心から感謝いたします。


2018年4月1日日曜日

復活祭(イースター)礼拝 20180401

本日、復活祭(イースター)礼拝でした。
CSの子が素敵な絵をプレゼントしてくれました。

長野教会では勝部哲牧師の説教により聖餐礼拝が、
松本教会では野口和音牧師の説教により聖餐礼拝が守られました。
野口和音牧師が赴任し、最初の主日礼拝となりました。

花の十字架も完成

イースターということもあり、松本教会の聖餐式では用意した葡萄酒を急遽追加するほど多くの方と共に、聖餐の恵みを分かち合うことが出来ました。

配餐風景

松本教会では礼拝後に野口牧師夫妻の歓迎会が開かれました。
皆様からの持ち寄りの料理がどれも美味!
ヴァイオリンの音に合わせて、リクエストのあった讃美歌を皆で賛美しました。
祝会後、教会学校の子どもたちのイースターエッグ探しもありました!
皆が主の復活の喜びに満たされた主日となりました。


† † †

この記事をご覧のあなたにも、
この一週間のうちに、神様の恵みと導きとが豊かにありますように。