2018年5月30日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。

──ヨハネによる福音書3章1-12節

† † †

ニコデモは夜に、こっそりとイエス・キリストのところへやってきます。ファリサイ派で、ユダヤ人たちの議員であるという彼の肩書は、当時においてイエスに会うということを妨げるものでしかなかったのかもしれません。それでもニコデモがイエスのところにやってきたのは、それでも晴らしたい疑問があったからではないかと思います。
キリストはニコデモが問う前にその答えを明らかにしています。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

当時のユダヤ教の人々にとって、神様から与えられた教えをどれだけ正確に理解し、守れているかということに全力を注いでいた人々がいました。ファリサイ派の人々もその一つです。イエス・キリストも当時はユダヤ教徒の一人として、革新的な理解としるし(奇跡)を起こすことから、人々から注目を浴びていた人でした。特にファリサイ派などの人々からは敵視されていたのです。それでもニコデモは、自分の立場を危うくしてまで、イエス・キリストのもとへとやってきたのです。
ニコデモにとって、律法を理解することこそが神様を理解し信じるために必要なことだと思っていたのかもしれません。けれどもキリストはそのようなニコデモへの言葉を通して、理解することが信じることの全てではないことを語っているのではないでしょうか。

聖書を開いてみると、ところどころで矛盾したように感じる箇所が見つかるかもしれません。イエスやニコデモが生きていた時代、聖書は旧約だけでしたが、それでも順々に読んでいくとそのように思うところも少なくないかもしれません。
けれども視点を変えてみれば、私たちもまたそうではないでしょうか。
私たちが誰かに言葉を伝えようとするとき、その人の今に最もふさわしい言葉を選びたいと願うことでしょうし、その人の状況や気持ちを知っているのならばなおのこと、整合性よりもその人への配慮が優先されるのではないでしょうか。
私たちがそのような存在であるならば、神様もまた、そのような私たちに合わせて語ってくださっているのではないかと思います。だからこそ、神様が言葉の整合性よりも、私たちを愛し、私たちに最も必要な言葉を選んで語ってくださっている、そのことをそのまま受け取っていくことが、御言葉としての、聖書の読み方なのかもしれません。

キリストは聖書がそのような神様の愛から出た言葉であることを人々に伝えようとしていたのではないでしょうか。私たちの理解が及ばないほど深い、愛と救いがあることを、私たちが神様の全てを理解できなくとも、信じていくことによって、神様の国は見えてくるものなのだと語ってくださっているのではないかと思います。

神様によってこの世に命を受け、キリストを通して御言葉が説き明かされ、そして先日の聖霊降臨によって聞いたように、私たち一人ひとりが、聖霊を受けて、力と導きを与えられて生きています。
私たちが理解できる神様の業はほんのわずかかもしれない。それでも聖書という揺るがない神様の愛が詰まったものが私たちに与えられています。いつでも私たちを新しくする道へと招いてくださっています。
そのような神様の言葉に、「どうして、そんなことがありえましょうか」ではなく「アーメン(そのとおりです)」と答えていく日々を過ごしていきたいと思います。

2018年5月29日火曜日

聖霊降臨後第2主日礼拝の御案内

次週6月3日(日)10時半より、聖霊降臨後第2主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教により
「ひたむきに誰かを想う」

と題して、松本教会では聖餐礼拝が守られます。
長野教会は信徒礼拝となります。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。


──マルコによる福音書2章1-12節

2018年5月27日日曜日

三位一体主日礼拝、松本教会牧師就任式、墓前礼拝。20180527

本日はとても多くの恵みが与えられた主の日となりました。
10時半からは本郷教会から安井宣生牧師が来て下さり、野口和音牧師の就任式が執り行われました。

松本教会牧師就任式

また、安井牧師には礼拝の中で御言葉の取り次ぎもしていただきました。


長野教会には安井牧師の説教原稿を送り、信徒礼拝が守られました。感謝いたします。
無事就任式を終え、就任式をしてくださった安井牧師、無事着任となった野口牧師夫妻にひとつずつ、信徒の方から手作りのステンドグラスが贈呈されました。

サプライズ!

とってもすてきです。シャローム!

礼拝後13時半より、中山霊園の教会墓地にて墓前礼拝が野口和音牧師の司式・説教で執り行われました。

中山霊園内教会墓地

それぞれ信仰の先達の方々を思い起こしながら、ヨハネ11章21-27節の御言葉から復活の命を与えられる、その慰めを分かち合いました。



† † †

この記事をご覧のあなたにも、
今日から始まる一週間のうちに、
神様の守りと導きとが豊かにありますように。

2018年5月25日金曜日

いのち学。 20180521

21日の19時から、松本教会ではいのち学が行われました。
ガンの研究者である谷口俊一郎さんをナビゲーターとして、軽食を分かち合った後、レクチャーと分かち合いが持たれました。


生命科学の目で捉えた「生物としての人の命」の解説、また生命科学のみでは応えられない「人のいのち」についてレクチャーしていただき、御参加の皆様と語り合う時となりました。

「”なぜ”生きるのか」から
「”どうやって”生きているのか」へ


2018年5月23日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

──使徒言行録2章1-21節

† † †

教会の三大祝日のひとつ、ペンテコステを説明するとき、私たちはどのように表現するでしょうか。今日の聖書に記されているように、弟子たちの上に聖霊が降ったという出来事よりも、「教会の誕生日」というほうが簡単であるように思います。
けれどもそこには、聖霊とは何かよくわからない、という現実があるのではないでしょうか。

もともと旧約聖書で霊という言葉は、「様々な空気の移動」を指す言葉です。それが転じて新約聖書では「風や息吹」という意味を持つ単語から派生した単語で表されています。
このようなわけで、聖書が霊、と言うとき、それは人格的な存在というより、「動かす力そのもの」を表していると言えるのではないかと思います。だからこそ、弟子たちは聖霊に満たされた時、その「動かす力」に満たされて、「霊が語らせるままに」、‟語らずにはいられなかった”のです。

神学生としての学びをしているときにも、牧師になってからも、「どうして牧師になったんですか」とよく聞かれます。そのたびに「神様にはかなわないなと思ったから」と答えていますが、未だに一番しっくりくる表現が見つけられていません。
別に奇跡的な何かがあったわけではありません。信仰の挫折から神様が信じられなくなって、聖書が古臭くて分厚い紙束に見える日々を過ごしたこともありました。
けれどもそこに、いろんな人から与えられた言葉と、不思議な出会い、巡り合わせによってルーテル教会に戻ってくることが出来たとき、私自身の意志をこえて全てを支配されている神様の業を感じざるを得なかったのです。

私たちの人生の中で起こる全てのことには、ひとつ残らず意味があるのだと思います。簡単に奇跡なんて起こらないかもしれない。神様なんていないんだと言ってしまう日だってあるかもしれない。
けれどもそんな時にですら、私たち一人ひとりのことを、神様は絶対に見捨てたりなんかしていない。この世を歩むいのちのただ中で、そしてその先にある永遠の命に向かって、神様は私たち一人ひとりを、確かに導いてくれている。
牧師として御言葉を通して語る務めを担うたびに、私はそのことを語らずにはいられないんです。

キリストの福音は今日まで、語り続けられてきました。そこには語らずにはいられない福音があるからではないでしょうか。私たち一人ひとりが生きていくときに、私たちを他者との関係へと押し出していき、そしてつなげていくその力──聖霊を与えてくださった神様がおられることを、今日の御言葉から聞くのではないでしょうか。

今日という日だからこそ、私たちを導いてくれる聖霊について、考える日にしませんか。
私たちの人生の中で、喜びに満ちたとき、悲しみに暮れたとき。不思議な縁に恵まれた瞬間。感動に出会って打ち震えたあの日。その一つひとつを思い起こしてみませんか。
そのすべてに、きっと神様が働いてくださっています。聖霊を送り、私たちを明日へと押し出してくださっています。今日から始まる新しい一週間が、聖霊の力と共にあることを覚えて、また今週も、歩みだしていきましょう。

2018年5月22日火曜日

三位一体主日と松本教会牧師就任式のご案内

次週5月27日(日)10時半より三位一体主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では安井宣生牧師の説教
「新たに命を受ける」

と題して主日礼拝が守られます。
松本教会では主日礼拝と共に野口和音牧師の就任式が行われます。
長野教会は信徒礼拝となります。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。

──ヨハネによる福音書3章1-12節

2018年5月20日日曜日

聖霊降臨祭:松本教会 20180520

本日20日、松本教会でも聖霊降臨祭の礼拝が守られました。
巡回説教者の鈴木浩牧師をお呼びして、聖餐礼拝が行われました。

子どもたちも鈴木浩牧師からペンテコステの説教をいただきました。

CSの子どもたちは、「聖書物語折り紙」をしながら聖霊のことを学んでいました。

箱舟が聖霊のハトになる折り紙?!

お昼には鈴木牧師を囲んでのお昼ご飯!
大勢の方と共に美味しいハヤシライスをいただきました。


具だくさんのハヤシライス!

食後はマルコ福音書の学びまで持っていただきました。
たくさんのお働きに感謝です。
じっくり学びを深めることのできる一日となりました。


† † †

明日21日(月)19時より、松本教会では、「いのち学」が行われます。

ナビゲーター:谷口俊一郎  信州大学名誉教授・医学部特任教授
がんの基礎研究に長年携わってきた研究者が、
生命科学の目で捉えた「生物としての人の命」を解説し、
また生命科学のみでは応えられない「人のいのち」について、
参加者の皆さんとご一緒に考えます。
参加費:500円 (軽食付き)申し込み不要です。
どうぞお越しください。 

聖霊降臨祭:長野教会 20180520

昨晩の長野は気温が一桁まで下がりました。
松本の山の上ではもうセミが鳴き始めていたのですが、長野の寒暖差が非常に大きいことに改めて驚いています。
そんな夜を超えて良い天気に恵まれた本日、聖霊降臨祭の礼拝が守られました。


聖霊とはなにか、弟子たちが語らずにはいられなくなる聖霊の働きと福音について、証を交えながらの説教を分かち合いました。


お昼は旬が近づいてきた茄子の麻婆や、聖霊降臨の典礼色が赤ということに合わせて赤飯や桜餅などが持ち寄られました。
どれも美味しくて、テーブルを回して皆さんが取っていくうちに、あっという間にお皿が空になりました。


あまい!

牧師の実家から送られたメロンも完熟していたので皆と分かち合うことが出来ました。
食事後は教会の誕生日ということで、ヴァイオリンの演奏に合わせてハッピーバースデーと賛美歌を共に歌う時を持ちました。
高らかに讃美の声が響く教会に、聖霊に満たされた明日からも頑張っていこうと思える主の日となりました。

† † †

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今日から始まる一週間のうちに、
神様の守りと導きとが豊かにありますように。

2018年5月19日土曜日

昼カフェ・手仕事会 20180518

18日(金)は松本教会で昼カフェ・手仕事会が行われました。
基本的に毎月一度行われ、いろんな方をお呼びして交わりを持つイベントです。
今月のテーマは「インド舞踊と表現遊び」でした。
インドにつながってか、ランチは豆カレーとキーマカレーでした。

キーマカレーは辛口、豆カレーは甘口でどちらも美味!

サラダとフルーツも盛りだくさんでした

ランチのあとはお呼びした横田ゆうわさんによるインド舞踊を見せていただきました。

横田ゆうわさんは両親が牧師で、舞台女優として活動中にインドを訪れたのがきっかけで、インド舞踊と出会われたのだそうです。
ご自身もキリスト者でありながら、ヒンドゥー教の舞踊に出会い、その身体性によって表現される祈りにはキリスト教にもつながる部分もあると感じ、研鑽を積まれました。
現在はインド舞踊教室を営むかたわら、コミュニケーション能力と表現力を高める演技・演劇による「ドラマケーション」の講師としても各地で活動されているとのこと。
今月は手仕事ではなく、体を動かすイベントとなりました。

大勢の人が集まりました

また、鑑賞するだけでなく、コミュニケーション遊びと言う、人とコミュニケーションを取りながら体を動かす遊びをしました。
遊びの中で、自己紹介をはじめとしたコミュニケーションが自然な形で取れるような仕組みになっており、初対面の方とも和気あいあいと関わることが出来る、そんな遊びになっていました。

皆さんのすてきな笑顔!

† † †

昼カフェ・手作業会は、基本的に毎月開かれます。
どうぞどなたでも気軽にお越しください。

2018年5月16日水曜日

教会のお掃除をしました。

本日は教会内外のお掃除の日となりました。
午前中から教会員の方が来てくださり、礼拝堂を綺麗にしてくださっていました。感謝。
午後からは教会の駐車場スペースや裏側の草取りを皆で行いました。

生い茂る草をガンガン刈っていかれます

あんずの木に蔦がしっかり張り付いていたので外しました

冬の雪で傾いて戻らなくなっていたゴールドクレストの樹や、何本も細く伸びていた柿の木を選定し、すっきりさせました。
ゴールドクレストはこんもり伸びていた枝をザクザク切ってちょっとしたツリーくらいのサイズになりました。

剪定しました

普段は目に付かない教会の裏手も生え放題だったので、

ビフォー


アフター

片っ端から抜きました。
真ん中の花はちょっとだけ残しておきました。
何の花かはお楽しみにしておきます。
教会員さんの軽トラックが山積みになるほどの草取りとなりました。



30℃を超える日差しにも関わらず協力していただいた皆様に感謝いたします。
日が傾くと、心地よい風が窓から入ってきて、運動不足で疲れ切った身体を癒してくれました。
皆様熱中症にはくれぐれもお気を付けください。

† † †

次の日曜日、20日の10時半から、聖霊降臨祭の礼拝が行われます。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

今週のみことば~主日説教要旨~

さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

 ──使徒言行録1:6-11

 † † †

今日の聖書では復活の主が天に昇っていき、弟子たちの目には見えなくなったということが語られています。
私たちはこの出来事を聞くとき、天に昇っていくキリストに対して、せっかく復活したのだからずっと一緒に居てくれればいいのにと思うかもしれません。
けれども私たちがこの復活節の御言葉から聞いてきたように、神様の御心は、そのような私たちの願いとは全く逆であったことを思い返すことが出来るのではないでしょうか。

私たちはどうしても目に見えるモノ、手に触れられるモノに頼ってしまう、そんな弱さを抱えています。
それは時に、人に対してもそうであるかもしれません。この人についていけば安心だ、この人がすることにすべて従っていればいい。弟子たちもまた、どこかでキリストをそのように見ていたのかもしれません。

けれどもキリストは、私たちを従わせるためではなく、私たちをほかの誰かのところへと遣わすために来られたのではなかったでしょうか。
御言葉を通して、いつだってキリストは、自分ではなく他の誰かに目を向け、愛を注ぐために歩み出していきなさいと私たちを送り出してくださっている。そのために私たち自身をも愛に満たしてくださる。
なによりキリストご自身がそうであったように、隣人のために自ら愛をもって仕えていく、そのように私たちを導いてくださる神様であることを、私たちは御言葉から聞いてきたのではないでしょうか。
そしてその喜びに満ちた知らせを、福音と呼ぶのだと思います。

だからこそ、キリストは弟子たちと離れ、天へと昇って行かれたのです。
あなたの目には見えなくなってしまうけれども、いつだってあなたと共にいる、そのためにあなたを導く聖霊を送るのだ、という約束を残して、キリストは弟子たちに別れを告げるのです。
復活節を終えると、聖霊降臨祭がやってきます。約束された聖霊を受け、キリストの福音を証する者として歩み出した弟子たちの姿が聖書には記されています。
つまり昇天の出来事とは、地上のキリストによる宣教のゴールであり、同時に私たちがキリストからその宣教のバトンを受けて歩みだすスタートラインであると言えるのではないでしょうか。

ルカ福音書の昇天の記事のなかで、キリストは「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。(ルカ24:51)」と記されています。
またルカの著した第二巻である使徒言行録の初めには、「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と弟子たちに語られています。
天に上げられたキリストは今もなお、御言葉を聞き、キリストに遣わされて歩む私たちを、天で祝福してくださっているのです。
再び来られるその日まで、わたしたちの日々を絶えず祝福の中に入れてくださっている。その福音とともに、このキリストから渡された宣教のバトンを受け取っていきましょう。
私たちがキリストの福音を証する者として歩みだすスタートラインは、今、ここにあるのです。

2018年5月15日火曜日

聖霊降臨祭のご案内

次週5月20日(日)10時半より聖霊降臨祭の礼拝が行われます。

長野教会は野口和音牧師の説教により、
「語らずにはいられないんだ」

松本教会は鈴木浩牧師の説教により
「主の名を呼び求める」

と題して聖餐礼拝が守られます。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』


──使徒言行録2章1-21節

2018年5月13日日曜日

昇天主日礼拝。 20180513

本日は昇天主日の礼拝でした。
長野教会では徳野昌博牧師が来てくださり、野口和音牧師の就任式が執り行われました。

牧師就任式

松本教会との通信礼拝の中で礼拝は守られ、徳野牧師を通して御言葉の取次ぎもしていただきました。

昇天された主は目には見えない、
だからこそ証する者として私たちが立てられていく

野口和音牧師が赴任して二度目の通信礼拝でしたが、両教会の礼拝司式として行う難しさはあるものの、無事礼拝を守ることができました。
礼拝後は徳野牧師を交えつつ、教会員の皆様の持ち寄りのお食事を分かち合いました。

煮込みハンバーグ、お芋の天ぷらやふわふわの高野豆腐など
美味しい料理がたくさん

今日は母の日。綺麗なお花を持ってきてくださったので中央に飾りながら交わりの時を持ちました。

教会にはたくさんのおかあさんがおられます。
いつもありがとうございます

前日土曜日には最大震度5弱を記録する地震が長野を襲いました。
松本の牧師館も二階にあるからか結構大きく揺れました。
両教会ともに見たところ無事ですが、明日点検をするにあたって壊れていないところがないか祈るばかりです。

† † †

この記事をご覧のあなたにも、
今日から始まる一週間のうちに、
神様の守りと導きとが豊かにありますように。

2018年5月9日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

──ヨハネによる福音書15章11-17節

† † †

キリストは弟子たちに、そして私たちに聖書の言葉を通して「互いに愛し合いなさい」という掟を与えられました。私たちが互いに愛し合うその中にこそキリストにつながり、キリストの愛が私たちをつないでいくのだという福音を、先週のみことばから聞いてきました。
けれども私たちが互いに愛し合おうとするとき、周りには愛したくても愛せない人がいるかもしれません。自分すらも愛せないという難しさの中に立ち止まってしまうことだってあるかもしれません。
だからこそそのような私たちに向けて、キリストは先週のぶどうの木のたとえに続けて、この御言葉を語ってくださっているのだと思います。

キリストを十字架によって失う不安の中に弟子たちは留まっています。この後弟子たちは十字架を前にしてキリストを裏切り、逃げ去っていきました。主を失う私たちはこの先どうすればいいのだ。自分は十字架にかかりたくなんかない。弟子たちは終始自分のことに目を向けています。
けれどもキリストはここで十字架を「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言っておられ、弟子たちを「あなたがたはわたしの友である」と呼んでくださっています。この言葉から、キリストは弟子たちが持つ十字架の死の意味を、喪失の不安と悲しみではなく、弟子たちを友とし、愛へと結び付けています。
十字架の出来事によって、逃げ去ってしまう弟子たちは、キリストを友とはとても呼べない状態であったでしょう。けれどもキリストはそのような状態になってしまう弟子たちに対して、先んじて「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言ってくださっているのです。

あなたが何もできなくたって、誰も愛せなくたっていい。それでもあなたを友として愛しているのだ。キリストはそのように弟子たちに、そして私たち一人ひとりに愛をこめて言ってくださっているのではないでしょうか。
そのようなキリストの愛を私たちが受けるときにこそ、初めて私たちもまた、互いに愛する働きへと踏み出すことが出来るのではないかと思います。

先週、わたしたちは誰かに愛を伝えることが出来たでしょうか。誰かに手紙を書いたり、電話をしたり、愛をもって誰かのために祈れたでしょうか。
もしできなかったあなたへ。
そんなあなたに届けたいキリストのラブレターが、ここにあります。
誰かを愛することのできないあなたに、愛せない人がいるあなたに。キリストは十字架を通してあなたを愛してくださっています。キリストの愛をもって、私たちを愛の業へと押し出してくださっています。そのキリストの愛に満たされて、誰かを愛することのできる一週間へとしてまいりましょう。

2018年5月8日火曜日

昇天主日礼拝と長野教会牧師就任式のご案内 20180513

次週5月13日(日)10時半より昇天主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会は徳野昌博牧師の説教
「昇天の主に守られて」

と題して、
長野教会では主日礼拝と、野口和音牧師の就任式が執り行われます。
松本教会は通信礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしています。

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イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

──ルカによる福音書24章44-53節

2018年5月6日日曜日

復活後第5主日礼拝。 20180506

今週東京での全国教会総会を終え、今日は復活後第5主日の礼拝でした。
長野教会は通信礼拝として、松本教会は聖餐礼拝として守られました。
朝からカラッと晴れる天気はやはり長野ならでは。
松本教会では教会学校の礼拝から始まりました。

聖書がベストセラーの理由って何だろう?
ギデオンってどんな人?

先週ギデオン協会の方も来られたことを思い返しつつ、
旧約聖書のギデオンについての絵本を読んだりしました。

お昼は美味しいキーマカレー!

昼食後には2017年における宗教改革500年記念事業報告を使いながら、教会での活動を振り返りつつ、ルーテル教会として宗教改革501年目、そしてそのずっと先に目を向けて歩みだそう、と心を一つにしました。

ルーテル教会の明日への気付きがたくさんありました
教会を”活”性化させる”学”び、推奨4冊!

たくさんの方がお残りくださって感謝です

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この記事をご覧のあなたにも、
今日から始まる一週間のうちに、
神様の恵みと導きとが豊かにありますように。

2018年5月2日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

──ヨハネによる福音書15章1-10節

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便利な時代がやってきました。電車に乗ればほとんどの人がスマートフォンを使っています。それひとつで電話や電子メール、あるいはSNSを使って世界の誰とでも簡単にコミュニケーションをとることが出来るようになりました。けれども便利になった反面で、人と人との関係は昔よりも薄っぺらくなってしまったように感じられる方もおられるかもしれません。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」「わたしにつながっていなさい」とキリストは語ります。この「つながる」という言葉は、「とどまる」という意味を持った言葉でもあります。ですからキリストは「わたしの愛にとどまりなさい。」とも続けて言われるのです。
また「私の掟を守るなら、私の愛に留まっていることになる」と言われます。この掟とは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(13:34)」というキリストが弟子たちに与えた新しい掟のことです。
このことから、キリストとつながっていること、キリストの愛にとどまることは、人と人とが互いに愛し合う関係の中にこそ起こってくるものであると、今日の聖書は語っているのです。

今日の福音書の箇所は、イエス・キリストが告別説教として弟子たちに語っている箇所です。弟子たちは主との別れに不安でいっぱいだったことでしょう。けれどもそのような弟子たちに、キリストは先んじて福音を語ってくださっているのではないでしょうか。

あなたがたの前からわたしはいなくなってしまうだろう。
十字架を前にして、あなたがたの誰もが挫折するだろう。
けれども大丈夫だ。あなたがたが互いに愛し合うところに、いつもわたしもつながっているのだ、とキリストは言ってくださっているのではないでしょうか。

そして私たちにもまた、同じように語り掛けられています。技術が進歩し、人と人とのつながりが薄れてしまっているこのような時代だからこそ、互いに愛し合い、愛によってキリストにつながっていくことの大切さを、この御言葉から聞き取ることが出来るのではないでしょうか。

今週一週間の中で、一日でもいい。愛する誰かのことを考えてみませんか。誰かに愛を伝えることを、してみませんか。
誰かを想って電話をしたり、ペンをとって手紙を書くのもいいかもしれません。何もすることが出来なくたって、誰かの為に、愛をもって、祈ってみるのもいいと思います。
私たちが誰かの為に愛を持って動こうとするとき、その行いを通して、私たち自身のなかにも愛が満たされていることを感じるのではないでしょうか。
そしてそれこそが、キリストが言っておられる、「愛によってつながること」ではないでしょうか。

生きることは、誰かとつながることです。誰かと共に喜びを分かち合い、悲しみを分け合い、愛をもって祈りあうことです。そのような私たちの姿は、きっとイエス・キリストがおられたあの日から変わっていないのではないでしょうか。
そのようなキリストの愛によって人と人とがつながる中にこそ、私たちのいのちが豊かに与えられることを覚えて、この一週間も過ごして行きたいと思います。

2018年5月1日火曜日

復活後第5主日礼拝のご案内 20180506

次週5月6日(日)10時半より復活後第5主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会は野口和音牧師の説教
「愛されないと愛せない」

と題して、
長野教会は信徒礼拝、松本教会は聖餐礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしています。

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これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

──ヨハネによる福音書15章11-17節