2018年6月27日水曜日

JELA チャリティーコンサートのご案内

今週土曜日30日午後2時より、日本福音ルーテル松本教会にてJELAチャリティーコンサートが開かれます。


ヴァイオリン奏者として真野 謡子 氏、ギター奏者として松田 弦 氏をお招きしてのコンサートとなります。
曲目はB・バルトーク「ルーマニア民俗舞曲」、J・S・バッハ「無伴奏パルティータ第3番 BWV.1006」(ヴァイオリンソロ)や、岡野貞一(莉燦馮編曲)「故郷」のギターソロ曲の他、M・ジュリアーニ「協奏的大二重奏曲 作品52」やF・シューベルト「アヴェ・マリア」などが演奏される予定です。

入場無料(熊本地震復興支援のためのチャリティー募金のお願いあり)です。

ご家族・ご友人の方々とお誘いあわせの上、どうぞお気軽にお越しください。お待ちしています。

今週のみことば~主日説教要旨~

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」

──マルコによる福音書2章23-28節

† † †

旧約聖書の申命記には安息日についての律法規定が定められています。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。(申5:14)」そしてなぜ仕事をしてはならないのか、という理由が2つ、続けて書かれています。1つは、奴隷や家畜も含めたイスラエルの全ての生きとし生けるものが、「休むため」です。そしてもう1つは、出エジプトの出来事──かつてエジプトで奴隷として休みなく働かされていたイスラエルの人々を、神様が解放された、その出来事を思い起こすためです。

けれどもキリストが生きた時代、人々は再び奴隷のように心を縛られていた時代であったのかもしれません。律法を守れないがために差別と苦しみのなかに落とされた人々。律法を文字通り守ることに一生懸命になりすぎて、誰かを裁くことばかりしてしまう律法学者たち。皆が、ただ律法の字面の決まりに縛られて、本当の安息を忘れてしまっていたのだと思います。
だからこそキリストはそこに問いかけていったのです。神様が与えてくださった安息日は、「休まねばならない」と私たちを縛るためのものであったのか、と。

このことは私たちにも問いかけを与えてくれます。私たちの日々の中で、人と関わる中で「~しなければならない」「~すべき」という言葉が溢れているのではないでしょうか。
ルールとして定められたものは守らなければならないものです。けれどもすべてのルールには、なぜそれを決めなければならなかったのかという理由があるはずです。私たちは時にそのことを忘れてしまって、文字通りのルールにばかり目を向けて、生きづらくなってはいないでしょうか。

親が子どもにルールを教えるのはなぜでしょう。きっとわが子の人生の歩みが守られるために、一人で歩いていけるようにルールを教えるのだと思います。神様が私たちに律法を、そしてキリストを通してこの御言葉をお与えになったことも、それと同じなのだと思います。
親が子供を愛するがゆえにルールを作って教えるように、神様が私たちを愛するがゆえに、律法をお与えになったことを、キリストは私たちに語ってくださっているのです。

だからこそ、安息日は単に仕事を休む、という意味以上のものを持っています。安息日は私たちがすべてのルールの向こう側に、私たちを愛する神様がいることを、思い起こす日なのです。「~しなければならない」によって私たちを縛ってくるもの、「仕事」から離れて、私たちの命が安らぎを得る日こそ、安息日であり、日曜日、主日であると言えるのです。

世間的に休みとされている日曜日になぜ私たちは教会に向かい、礼拝を守るのでしょうか。それがキリスト者の義務だからでしょうか?
それは、この安息の日に、日々の苦しみから離れて神様と向き合う静かな時間が、ここにあるからです。キリストの福音が、礼拝に集い御言葉を聞く私たち一人ひとりに与えられているからです。だからこそ、ここから始まる一週間も喜びに満たされて生きていける。そのために、私たちにもまた安息の日を神様は与えてくださっているのだと思います。
「人の子は安息日の主でもある。」とキリストは言われました。だからこそこの安息日に聞くみ言葉のすべてに、私たちへの愛が溢れています。
日曜日は礼拝に。このルールが私たちを縛るものではなく、そこで語られる御言葉が私たちをすべての苦しみから自由にし、喜びに満たすものであることを胸に留め、それを希望として、この一週間の歩みを始めてまいりたいと思います。

2018年6月26日火曜日

聖霊降臨後第6主日礼拝のご案内。


次週7月1日(日)10時半より、聖霊降臨後第6主日の礼拝が行われます。


長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教
「命を懸けて愛を為す」

と題して、
松本教会では聖餐礼拝として、長野教会では信徒礼拝として守られます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。


† † †

イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。
イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

 ──マルコによる福音書3章1-12節

2018年6月25日月曜日

聖霊降臨後第5主日礼拝&ルターナイツinまつもと 20180624

昨日24日は聖霊降臨後第5主日の礼拝でした。
からりと晴れた空の下、長野教会の花壇にはアイスプラントがきれいに咲いていました。



6月最後の主日、第4週は長野教会での聖餐礼拝として守られました。
また、信徒の方から牧師館に冷蔵庫の献品をいただきました。
これからどんどん暑くなる季節のなか、本当に助かります。

祝祭日の祝会に負けず劣らず、
信徒の皆様が作ってくださった美味しいお食事が並びます

礼拝後に信徒の皆様が作ってきてくださったお料理を分かち合いました。いつも箸が止まりません。
それぞれのご家庭で、旬のお野菜や山菜などを贅沢に使って用意されるご飯がいつも楽しみです。
それぞれに食事の交わりの時を持ちながら、先日名古屋で開かれました全国女性会連盟の報告などがなされました。

松本教会では巡回説教者の鈴木浩先生をお迎えし、マルコ福音書連続講解説教をしていただきました。


マルコ1章34節から45節の御言葉から、「宣教と癒し」と題して御言葉の取り次ぎをしていただきました。
また、昼食後には学びの時も持っていただきました。感謝です。


19時からはルターナイツ in まつもとが開かれました。


今回はゲストとしてヤマショウズ・中西丈博さんをお迎えしました。
初めに牧師による賛美歌コーナーから。
「主われを愛す」は、実は小学校の音楽の教科書に載ったことがある!というお話から、讃美歌の根底に流れる神様の守りについてのお話とともに、共に讃美の時を持ちました。


中西丈博氏からは、ハーモニカとアコギでの熱唱が披露されました。
熱い歌声と歌詞が心を打ちました。


ヤマショウズのお二人からは、とても綺麗なコーラスと面白く特徴的な歌詞の歌を披露していただきました。
出し惜しみなんてするなよというメッセージ、心に留めて頑張りたいと思います。


演奏後は来られた皆様と食事と語らいの時を持ちました。
多くの方々にお越しいただいたこと、感謝いたします。


2018年6月21日木曜日

ルターナイツ in まつもと のご案内。

次の日曜日・24日の19時から、
松本教会にてルターナイツ in まつもとが行われます!


今回のゲストは……
ヤマショウズ(HP: http://yamashowsweb.blogspot.com/)
中西丈博氏(Facebook)です!
野口和音牧師のヴァイオリンと、”賛美歌のウラ話”もあるカモ……?

参加費は軽食込みで500円、事前申し込みは不要です。
日曜日の夜を、ちょっとトクベツな時間にしませんか?
皆様どうぞご参加ください。お待ちしています。

2018年6月20日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

──マルコによる福音書2章18-22節

† † †

現在でも多くの宗教が断食を行っていますが、宗教的儀式としての断食には、神様に心を向けるためのものという共通点があるように思います。生前のイエス・キリストもユダヤ教徒でありましたし、ユダヤ教では、旧約聖書の時代にイスラエルが陥落し、神殿が破壊されたことを神様に罪を犯した罰として捉え、そのような日を覚えて罪の懺悔と赦しを求める行為として断食を行っていました。
けれどもファリサイ派の人々は本来神様に心を向ける断食の最中に、神様からわき目を振って、断食をしていないイエスの弟子たちを裁くかように問いかけています。もはやファリサイ派の人々にとって断食、それが定められた律法は、神様に心を向けるためのものから、それを守れない人々を裁くために使われてしまっているのです。

私たちも現代において、キリストの教えを聞いています。人を愛し、人に仕え、共に生きる。素晴らしく理想的な教えであると思うでしょう。けれども実際の生活の中で、私たちはその教えはどれだけ守れているでしょうか。その教えが正しいものであることをどんなに理解していようとも、誰かに愛をもって接してあげたいと私たちがどんなに願っていても、実際には、いつもそうあることはできないという現実もあるのではないでしょうか。
そんなとき、私たちにとって、キリストの教えが重荷となる、そんな時もあるかもしれません。あるいは自分よりも愛にあふれた人を見て妬んだり、キリストの教えを守れない人に理想的な生き方を押し付けようとしてしまう、そんな私たちがいるかもしれません。

だからこそ、キリストは今は断食をする時ではなく、婚宴の時のように喜びなさいと言ってくださっています。
キリストの教えを守ることのできない私たちだからこそ、弱く神様の前に罪深い私たちだからこそ。だから私はあなたと一緒にいるんだと言ってくださる。だからあなたを愛しているんだと言ってくださる。そのようなキリストが共にいることを知るとき、私たちの中からたくさんの祈りの言葉があふれ出てくるのではないでしょうか。
つらかった。くるしかった。この一週間、あなたの御言葉に従って生きることができませんでしたという祈りをもって神様の前に立つとき、それを確かに受け止めてくださるキリストが、今、私たちと共に生きておられる。それは耐え難い喜びではないでしょうか。
神様によって私たちの全てが受け止められている、その喜びが私たちにあって初めて、またこの一週間もキリストの教えを守って生きようと、新しく歩みだすことが出来るのだと思います。

キリストは断食に新しい意味を持たせました。断食をするとき、それは花嫁が奪い去られる時──キリストが十字架にかかっていく時、そして私たちと共におられる神様が見えなくなる時であるのだと。
けれどもそのようなときにこそ、キリストの十字架を見上げなさいとキリストは言われるのです。そこには罪の赦しがあります。今や断食は、罪の懺悔のためにではなく、キリストの十字架によって私たちが新しくされていくことを表すものとなったのです。
そこには祈りという言葉では表現しきれない意味があります。神様に心を向けていくその時に、私たちの日々、私たち自身の全てが十字架によって新しくされていく。だからこそ、それを断食という言葉をもってキリストは語られたのです。
どのようなときにも、こうしてキリストの十字架を思い起こし、キリストが私たちを新しくされていること、そしていつでも共におられることを覚えて、歩んでいきたいと思います。

2018年6月19日火曜日

いのち学 第2回

18日(月)19時から松本教会ではいのち学が開かれました。


谷口俊一郎先生から前回の振り返りを含めて、”○○の『はじめ』はどこにあったのか?”を考えるお話をしていただきました。


DNA研究から私たちの設計図は既に判明し、iPS細胞などによって皮膚の細胞から内臓器官を作ったりする技術が可能となった現在の状況などを紹介しつつ、進化論から宇宙創成の話まで、幅広い話題を取り扱ったお話をお聞きしました。
そして科学と宗教(神)が交わるところはどこなのか、という着地点のなかで、いのちについてそれぞれに語り合いました。

そのあとは、皆で食事を分かち合いつつ団欒の時を過ごしました。


お腹いっぱいになりつつ、皆さんとの交わりの時が持てたことに感謝します。

† † †

来月のいのち学は7月16日(月・祝)19時からの予定です。
参加費は500円、申し込みは不要です。
どうぞお気軽にお越しください。

聖霊降臨後第5主日礼拝のご案内。

次週6月24日(日)10時半より、聖霊降臨後第5主日の礼拝が行われます。

長野教会では野口和音牧師の説教により
「ルールは愛から生まれる」
と題して聖餐礼拝が守られます。

松本教会では鈴木浩牧師により
マルコ福音書連続講解説教として
「宣教と癒し」
(マルコ1:34-45)
と題し、主日拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」


──マルコによる福音書2章23-28節

2018年6月17日日曜日

聖霊降臨後第4主日礼拝。20180617

本日は聖霊降臨後第4主日の礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。

麦収穫の季節です


先週に引きつづき、バーグ先生の奥様と娘さんが松本教会に来られました。
懐かしさを互いに分かち合いながらの昼食会となりました。

お昼ご飯は特製カレー!

昼食後は教会の庭になったあんずを収穫し、ジャムを作りました。

ビニールシートを引き、木を揺らして一気に実を落とします。
男性陣が全力で収穫してくださいました。
ひとつひとつ手作業で種を取り除きます
砂糖とレモンでそのまま煮込んでジャムにします
ラベルも製作中



作ったジャムはバザーなどで販売する予定です。どうぞお買い求めください。

† † †

明日18日(月)19時から、いのち学が開かれます。
癌の研究者である信州大学の谷口名誉教授と共に
みなさんで”いのち”について考えてまいりましょう。
参加費500円!軽食もあります。
どうぞどなたでも気軽にお越しください。お待ちしています。

2018年6月16日土曜日

昼カフェ&手仕事会。20180615

15日(金)は昼カフェ&手仕事会でした。
本日の手仕事会はヒンメリづくり。12時から先生と皆様と共にランチを囲みました。

野菜たっぷりの手作りサンド!

梅雨入りをしたということで、左上はアジサイをイメージしたデザートに。
お腹も落ち着いたところで、先生のお話を聞きながらヒンメリづくりに挑戦しました。

材料には藁を水に浸したものを使います

ヒンメリはフィンランド語で「天」を表す言葉です。
古くは精霊信仰から始まっていて、ヒンメリを食卓に飾ることで幸運がやってくる、お守りとしても使われていたのだそう。
材料となる藁の収穫の時期に作られ、一年過ぎると作ったヒンメリは燃やし、また新しいものを作っていく一年のサイクルがあり、現在でも家庭で作られることが多くなってきた、というお話を聞きながら、ヒンメリの作り方を教えていただきました。

教えていただきながら皆さん真剣に作られています

基本形である正8面体を二種類の大きさで作り、それをそれぞれに組み合わせました。
なんだか組み合わせ方に、個性が出ているような気がします。

今日は基本形をそれぞれ組み合わせて作りました

記念撮影をしたのち、それぞれに作ったヒンメリを持ち帰りました。
作ったヒンメリは、今はキッチンの窓辺に飾られています。
作っている間や完成したものを眺めているあいだは、なんだか心が静かになるような、そんな不思議な魅力がヒンメリにはあります。
今後もちょっといろんな形に挑戦してみたいと思う、とても楽しいときとなりました。


2018年6月14日木曜日

あんずの季節です。

教会の庭に植わっているあんずの木の実がここ数日でみるみる熟しています。
毎朝起きると何個か地面に落ちているので、そろそろ収穫の頃合なのだそうです。

ぶどうみたいに実が密集してついています
 

いくつかはジャムにするために手でもぎったりして収穫しました。
そのうち一つをちょっと味見。甘酸っぱい味が口に広がりました。
ジャムにするのが楽しみです。



5月の地震と老朽化のため外れてしまったカーテンレールも無事新調できました。
柱の木が随分しっかりしたものだったのでネジ止めに初めは難航しましたが、なんとか固定出来て一安心です。


† † †

6月17日(日)10時半からは、聖霊降臨後第4主日の礼拝が行われます。
どうぞお越しください。お待ちしています。

2018年6月13日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

──マルコによる福音書2章13-17節

† † †

宗教改革ということを思い起こすとき、人々の魂の救いについて真摯に向き合った面もあれば、宗教改革をきっかけにして引き起こされた権力争いや農民戦争、ユダヤ人追放という現実もそこにはありました。カトリックだから。ルター派だから。ユダヤ人だから。そこには個人にレッテルを貼りつけ、ひとまとめに他者を理解してゆくということが起こっていたのではないかと思います。

レビもまた、徴税人という職業というレッテルを貼られていました。その職業はローマから委託され、イスラエルの人々から税を取り立てる仕事でありました。それだけでなく余分に取り立てた額が彼らの給料になるため、私腹を肥やそうと思えばいくらでもできる。実際にはそうではなかったにせよ、レビもまた、そのような職業についている者として見られていました。
けれどもここで、レビ自身がどのような人であったのかということについては語られていません。このような職業についているから。人々は職業のレッテルでレビを見て、レビ自身には目を向けていなかったのではないでしょうか。

キリストは収税所に座っていたレビに自ら声をかけられます。従うということは、職も捨ててついてゆくということです。漁師であったペトロたちの他に召命の記事が記されているのはレビのみです。徴税人の仕事は一度辞めれば復帰はほどんど絶望的でありました。けれどもマルコはそんなレビを「彼は立ち上がってイエスに従った。」と簡潔に記しています。レビのことを職業というレッテルを通して見る人々しかいない、その現実の中で、キリストだけは職業ではなくレビ自身を求めて、招いてくださった。そのことが、レビにとってキリストに従う理由として充分であったと言えるのではないでしょうか。

キリストはレビの家で食卓を囲んでいました。そこには大勢の人がいたのだと記されています。律法を遵守するファリサイ派の人々は律法を守れない人々を罪人と呼んで差別をしていました。それゆえ様々な差別とレッテルに苦しめられて、自分自身を見てもらえなかった人がそれだけ多くいたのではないかと思います。

私たちはどれだけ、あなたの隣にいるその人自身と、関わることが出来ているでしょうか。この御言葉を胸に、この一週間を過ごしていく中で、もしかしたら多くの人にレッテルを貼りつけてしまう自分を見つけてしまうかもしれません。あるいはほかの人からそのように見られていると感じることがあるかもしれません。

けれどもどのようなときにも神様は私たちのありのままの姿を見ていてくださっています。キリストはそのような私たちを導き出し、そんなあなただからこそ、わたしのところへおいで、と招いてくださっているのではないでしょうか。

キリストは罪人と共に食卓を囲んでくださった。その言葉は、単なる相席ということではありません。仲間として認めると意味があるのです。神様に招かれ、仲間とされた、神様の家族の一員として、私たちはその恵みをありのままに、受け取ってまいりたいと思います。

2018年6月12日火曜日

聖霊降臨後第4主日礼拝のご案内

次週6月17日(日)10時半より、聖霊降臨後第4主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教により
「素直になりたくないですか」

と題して、松本教会では聖餐礼拝が行われます。
長野教会は信徒礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

──マルコによる福音書2章18-22節

2018年6月10日日曜日

聖霊降臨後第3主日礼拝。 20180610

本日は聖霊降臨後第3主日の礼拝でした。
土曜日から長野教会に泊まり、当日は松本教会と通信礼拝をしながら共に礼拝を守りました。

聖壇の様子は松本教会にテレビ電話でつながっています

長野教会の礼拝には、前に両教会で牧会をしておられたバーグ先生のお連れ合いの方と、その娘さんと共に、礼拝を守ることが出来ました。
信徒の皆さんも今日お越しになることを知っておられたからか、気合の入ったごちそうを用意してこられていました。

所狭しと机に料理が並びます

長野の方言に「ずく」というものがあるのだそうです。
いわゆる「やる気」を指す言葉なのですが、「例えば”こたつに入ってしまって、そこからちょっと出て何かをする”程度のやる気」というニュアンスの言葉とのこと。
「ずく」が使えるようになると一人前の長野県民!というお話で盛り上がりました。

食事の後には、バーグ先生を思い起こしつつ、ともに讃美の分かち合いをしました。

プチ祝会の時の恒例になりつつあります

教会讃美歌ではなく、もう一つ前の讃美歌に入っていた曲のほうもやっぱり思い出深いものがたくさんあるね、と感想をわかちあいながら、皆で讃美の声をあわせました。

† † †

この記事をご覧のあなたにも、
今日から始まる一週間のうちに、
神様の守りと導きとが豊かにありますように。


2018年6月8日金曜日

昼カフェ&手仕事会・いのち学のご案内。

6月の昼カフェ・手仕事会と、いのち学のご案内です。


6月の昼カフェ・手仕事会は、「”ヒンメリ”づくり」です!
ヒンメリはフィンランドの伝統的な工芸品で、オーナメントや幸運のお守りなどに使われています。「光のモビール」とも呼ばれているそうです。
”ヒンメリ”とはスウェーデン語で天を意味する言葉で、古くは誕生祭などのお祭りなどでも使われていました。あなたのおウチにも一つ、飾ってみませんか?

6月15日、12時からランチを皆で食べ、ヒンメリ造りをしましょう!
場所は日本福音ルーテル松本教会(住所:宮渕1-4-9)、参加費はランチ代込みで500円です。
申込は6月13日までに、教会(電話:0263-33-5242)までお願いいたします。


いのち学、第2回目が行われます。
信州大学名誉教授で癌の研究者でもある谷口俊一郎先生を講師として、皆さんで”いのち”について考える時を持ってみませんか?

1回目に出てないし……という方も、今回からでも大丈夫!
参加費はこちらも500円! 事前申込は不要です。

6月18日の午後7時から日本福音ルーテル松本教会にて行われます。
当日お時間のある方はぜひお越しください。
また、お問い合わせは日本福音ルーテル松本教会まで。

ルターセミナー。

4日(月)から6日(水)まで、静岡県のYMCA東山荘にて行われたルターセミナーに参加してきました。

YMCA東山荘は以前毎年ルターセミナーを開催していたところでもあり、先生方は懐かしそうに話されていました。
食堂の裏に黙想館と名付けられた広場と建物があり、そこからは美しい富士山が見えました。

すがすがしい朝富士

一日目、ルター研究所・江口再起所長と石居基夫先生からの基調講演からセミナーが始まりました。
宗教改革501年目を踏み出した私たちは、二つの問いを持つことだと思います。
宗教改革500年とは何だったのか。そしてこれからどのように歩んでいくのか、です。

充実のスケジュール

研究発表では、ルターの言う信仰義認における信仰とは、行為義認における行為がそのまま”私たちの信仰”に差し替えられただけであるのか?という問いを丁寧に検証された発題「ルターの信仰を問う」や、
ルターにおける讃美歌から現在の日本の讃美歌を教派を越えてまとめられた「Why Lutherans sing what they sing -ルーテル教会における賛美のことば-」など、興味深い研究発表が目白押しでした。

先生方の発表レジュメ

また、今回は2017年度神学校を卒業したメンバーの卒論発表の場もいただきました。
同期の多田牧師とともに発表しました。

この120余年にJELCで使用された
歴代礼拝式文についてまとめました

卒業論文では日本福音ルーテル教会の歴代の式文を、その合同の歴史と共にたどり、その内容を比較するという研究をしました。
正直なところ、こうして改めて発表の場を与えられたことで、(自分で書いた論文ですが)自分の中でも研究内容の理解と整理が進んだことは思いもよらない恵みでした。
沢山の刺激を受けてセミナーを終えることが出来ました。

2018年6月6日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。
しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。


──マルコによる福音書2章1-12節


† † †

信仰って何ですか、という問いに、どのように答えればよいでしょうか。
宗教改革以前のカトリック教会において、信仰は「教会の教えに従うこと」でした。けれどもルターは、信仰とは「神様と私の関係のこと」だという本来的なところに戻っていきました。それが人々の共感を呼び、宗教改革という大きな動きへと成長していったのです。
それ以後の信仰の理解において、神様と私、という個人の関係が強調されてきたように思います。けれどもいつしか私たちは、信仰をあまりにも個人的なものにしてしまってはいないでしょうか。
信仰とは、そんな小さなところにおさまるようなものではないということを、今日の御言葉は語ってくれているのではないでしょうか。

今日の聖書の箇所の中で、注目したいのは次の二つのことです。
一つは、中風の人の信仰によってではなく、その人を運んできた4人の男の信仰によってキリストによる癒しが与えられているということ。
そしてもう一つは、キリストは初め、癒しではなく罪の赦しをその人に与えている、ということです。

罪の赦しの宣言と病の癒しのどちらが簡単であろうか、とキリストは言います。民衆たちは癒された中風の人を見て初めて讃美の声を上げていますし、律法学者たちはイエスに罪を赦す権威があるかどうかというところにばかり気を取られています。

罪が赦されていく場面では周りの誰一人として、喜びの声も讃美も上がらず、あまつさえ疑問を抱く者すらいる。その状況こそが、人の中にある罪というものを浮き彫りにしているのではないでしょうか。
私たちがいかに目に見えているものばかりに囚われてしまっているということ。誰かが救われた喜びを共に分かち合うこともできない、自分のことばかりに目が向いてしまう私たちこそ、罪という病に侵されていると言えるのではないでしょうか。

けれどもだからこそ、キリストは言うのです。
「子よ、あなたの罪は赦される」と。
この言葉は全ての病から私たちを解放する言葉ではないかと思います。病によって一歩も動けない。神様に喜ばれることなんて何一つできない。そんな絶望の中にあった中風の人に向かってかけられたキリストの言葉は、身体的な病を超えて、その人の全てを癒していったのではないでしょうか。

罪の赦しの救いは、中風の人の信仰によってではなく、4人の男の信仰によって与えられています。
彼らは、中風の人を助けずにはいられなかったのだと思います。キリストなら絶対にこの人を癒してくださる──ひたむきにその人を愛する心、家の屋根をぶち破ってでも、その人の救いを願うまっすぐな彼らの姿に、私たちの救いの為に十字架にかかられたキリストの姿を、私たちは重ねて見ることが出来るのではないでしょうか。

私たちも、あなたの隣にいる誰かのために、何が出来るか、考えてみませんか。
この一週間を、ひたむきに誰かのことを想う、そういう日々にしませんか。
きっとそのような交わりが起こるところにこそ、教会と呼べる場所が生まれるのだと思います。
誰かのために祈り、関わり、寄り添い、分かち合う。その交わりによって互いに、私たちの信仰もまた新たに立てられていく。教会とはそのような場所であると思います。
私たちは誰も、決してひとりではありません。キリストが「子よ」と呼びかけてくださっているように、神様の子どもとして共に生きる、その喜びと交わりのうちに、日々を過ごしてまいりましょう。

2018年6月5日火曜日

聖霊降臨後第3主日礼拝のご案内

次週6月10日(日)10時半より、聖霊降臨後第3主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教により
「わたしのところへおいで」

と題して、長野教会では主日礼拝が、松本教会では通信礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 ──マルコによる福音書2章13-17節

2018年6月3日日曜日

聖霊降臨後第2主日礼拝。 20180603

今日は聖霊降臨後第2主日の礼拝でした。
松本教会では聖餐礼拝として、長野教会は信徒礼拝として守られました。
松本教会の聖卓やストールの色も緑になりました。



松本教会では月初めの聖餐礼拝に、遠くからはるばる来られた方、初めてお会いできた方など、たくさんの方と共に信仰について考え、御言葉を分かち合うことのできた主日となりました。


CSでは封筒からうさぎのクラフトを作っていました。

とってもかわいいです

礼拝後の昼食会にもたくさんの方が御残りいただき、美味しいうどんと共に、久しぶりの方々からの近況などを分かち合いました。

煮物やポテトサラダも添えてバリエーション豊かに


昼食後、松本教会宣教60周年記念事業のための委員会が立ち上がり、さっそく記念誌などについての話し合いがもたれました。


来年の4月に開かれる記念式典と記念誌発行を目指して、一歩を踏み出しました。
また、庭のあんずの木にはもう実が付き始めていました。



予想よりいっぱいなっていて驚いています。ジャムなどにできるんだとか。とても楽しみです。
今の季節の典礼色で、ストールなどの緑は、「希望と成長」を表しています。
このあんずの木のように私たちの信仰も希望に満たされて育っていきますように。

† † †

この記事をご覧のあなたにも、
今日から始まる一週間のうちに、
神様の守りと導きとが豊かにありますように。