2018年7月31日火曜日

平和の主日礼拝のご案内。

次週8月5日(日)10時半より、平和の主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では、野口和音牧師の説教
「愛と平和が手をつなぐとき」

と題して、
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

──ヨハネ福音書15章9-12節

2018年7月29日日曜日

聖霊降臨後第10主日礼拝。20180729

あっという間に7月最後の主日となりました。
先週はだいぶん猛暑が和らぎ、夜は涼しい一週間となりました。
7月、第5週目は長野教会では主日礼拝、松本教会では通信礼拝として守られました。

長野教会の風景が松本教会の礼拝堂に通信で送られます

お昼は信徒の方々が作ってきてくださったカレーやサラダを分かち合いました。
黒酢のサラダとピリッとスパイスの効いたカレーは夏にぴったりのメニューでした。


長野での礼拝後になかなか時間が取れることは少ないため、普段教会に来ることの出来ない方の信徒訪問を行い、聖餐の恵みを分かち合いました。

† † †

松本教会でも、通信礼拝として無事守ることが出来ました。
昨晩の台風の影響を心配していましたが、滞りなく共に礼拝出来たことに感謝です。

松本教会は通信礼拝にて守られました

礼拝後は集会室で

通信礼拝を通して二つの教会で礼拝を守ることは、両教会の信徒の方々の理解と、それぞれの奉仕がなければできないことだと最近思い返しています。
あっという間に過ぎ去っていく日々ですが、一つ一つのことに感謝を忘れずに、牧師としての務めを果たしていきたいと改めて思う主日となりました。

† † †

全国各地で猛暑が続いています。
どうぞ皆様体調にはお気を付け下さい。
今週もこのブログをご覧の方々の上に、
神様の守りと祝福が豊かにありますように。

2018年7月25日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。


──マルコ福音書4章35-41節

† † †

「向こう岸に渡ろう」とキリストは弟子たちに言われます。
弟子たちは言われるままにキリストと共に船に乗り、ガリラヤ湖を渡ろうとしました。しかし弟子たちは悲痛な叫び声をあげています。
「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」!

これまで数々の奇跡を起こし、数々の人を救ってきた、この人についていけば何も心配はないと信じて、今回も弟子たちはキリストに従っていったはずでした。けれども突然吹き荒れる風と波によって、弟子たちの乗る船は水浸しになり、転覆しかけています。しかも肝心のキリストは眠っておられる。
弟子たちは思ったことでしょう。どうして主は眠っておられるのだ、私たちをお見捨てになったのだろうかと、キリストを疑ってしまうのです。

私たちもまた、キリストの弟子として、教会と言う船に乗っている一人ひとりであります。キリストのみ言葉によって導かれ、キリストと共に船に乗っています。
私たちが生きる中で、本当にここに神様はいるのかと思うようなことはたくさん起きます。人間関係の中で。災害のように避けられない痛みと困難の中で。
目の前に起こる理不尽な出来事・不条理は、神様を信じていればいるほどに、私たちの信仰をかき乱していくかもしれません。
神様はなんで私を守ってくれないのだろう、こんなに信じているのに、と。

しかしキリストは、信仰が揺れて荒波のようになっている私たちの信仰に「沈まれ」と、「怖がることはない、神様を信じなさい」と、力強く言ってくださっているのです。
この御言葉を聞いた私たちが、信仰をもって神様にすべてを委ねるとき、不条理と不安に揺れる私たちの心をも、凪のように、平安に満たしてくださるのです。

東日本大震災について書かれた、山浦玄嗣著『「なぜ」と問わない』という本があります。その中で、被災した東北の人々について、「なぜ、自分たちはこんな目に遭わなくてはならないのか、などと言う人は、ひとりもいなかった」と紹介しています。
そしてなぜ、と問わなかったのは、神様を道具として見ていなかったからだ、と書いておられます。

私たちは神様を救いの道具にしてしまってはいないでしょうか。信仰と救いを神様と交換するために信じているのでしょうか。いざという時のために、神様が助けてくれることを期待して祈るのでしょうか。
キリストは眠っておられました。それを「見捨てた」と思ってしまうのは私たちの信仰がリターンを求めているからではないでしょうか。それは人の罪と呼ばれるものです。不条理の中に、神様はどこにもおられない、そう感じるときにこそ、私たちの信仰が罪の荒波に飲み込まれそうになっているのです。

だからこそキリストはそのような私たちに言われます。「黙れ、沈まれ」と。その御言葉によって、私たちの罪の荒波を凪にし、神様の平安で満たしてくださるキリストが、いつも共におられます。
日々の生活の中でおこる荒波、人間関係の苦しみや病、避けられない不条理の中にあってなお、私たちと共に船に乗っておられるキリストが、神様を信じなさいと言ってくださっている。私たち一人ひとりも、その御言葉に、すべてを委ねてまいりたいと思います。

2018年7月24日火曜日

聖霊降臨後10主日礼拝のご案内。

次週7月29日(日)10時半より、聖霊降臨後第10主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では、野口和音牧師の説教
「あなたの心を探す神」

と題して、
長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

──マルコ福音書5章21-43節

2018年7月23日月曜日

聖霊降臨後第9主日礼拝とルターナイツinまつもと 20180722

昨日22日、聖霊降臨後第9主日の礼拝が守られました。
先週を超える非常に暑い主日となりました。
長野教会では今年初めて空調を入れるほどでした。


数か月ぶりに日曜日がお休みになったとのことで久しぶりに長野教会に来てくださった方がおられました。
牧師も二週に一度しかいないため、嬉しいめぐりあわせが与えられて良かったです。

茄子づくし!

茄子が旬ということで、茄子の刺身や茄子の天ぷらやフライドポテトなどを始め、黒酢キャベツサラダや麻婆豆腐などがお昼の持ち寄りには並びました。
暑い時にはやっぱり辛い物!と麻婆豆腐に四川豆板醤をかけながらいただきました。

松本教会では巡回説教者礼拝として、鈴木浩牧師をお呼びしての礼拝でした。感謝です。
例年にない暑さのなか、無事に礼拝が守られて良かったですが、熱中症の危険もあるため、空調設備の導入は喫緊の課題となりました。

鈴木先生ありがとうございます

お昼は涼やかなお素麺だったようです

夜はこれまでより30分早めた18時半より、ルターナイツ in まつもとが開かれました。


今回のゲストはレオンソワーズの皆様、そして安藤則男さんでした。
レオンソワーズの方々は、ウクレレとカホン、鍵盤ハーモニカなどの多彩な楽器を駆使し、カンツォーネ・ナポリターナの曲を披露してくださいました。

フニクリ・フニクラなどイタリア民謡から
元気に・懐かしい気持ちになる曲ばかりでした

牧師の讃美歌物語コーナーでは、「やすかれわがこころよ」と原曲フィンランディアとのつながりを聞きました。
フィンランドの歴史を振り返りつつ、音楽が人に果てしない力を与えることがあること、そしてそこにキリスト・神様を見ていくということを思いながら、共に賛美の時を持ちました。

讃美歌物語
~やすかれわがこころよとフィンランディア~

トリの安藤則男さんはソロギターでの楽曲を披露してくださいました。
こちらに語り掛けるような歌い方と、ありのままの人の姿を写し取るような歌詞に思わず涙が出そうになりました。

ボブ・ディラン「Every Grain of Sand」の和訳版など
心に染み入る曲ばかりでした

そのあとは来られた方々と共に美味しい食事を囲みました。
そのなかでも、ルターに興味を持ってくださった方や、教会や礼拝についてのお話で盛り上がることもあり、牧師としても嬉しく思う時となりました。

† † †

全国各地で猛暑が続いています。
どうぞ皆様体調にはお気を付け下さい。
今週もこのブログをご覧の方々の上に、
神様の守りと祝福が豊かにありますように。

2018年7月18日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

──マルコ福音書4章26-34節

† † †

今回の箇所では神の国についてのたとえが二つ記されています。神の国とは、神様の支配がすべてに及んでいる世界のことです。キリストが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1:14)」と言って始められたとおり、今も教会は神の国の実現のために、福音である聖書の言葉を伝えるという宣教の働きを担っています。

宣教は種まきである、とよく表現されます。この種は、神様の言葉のことです。その種が芽吹き、蒔かれた人の中に信仰の実をつけていくというように捉えている言葉です。その中で、私たちが誰かに信仰を持たせたりすることはできません。その人に信仰が与えられるのは、すべて神様がなさる業であることが、ひとつのめのたとえに示されているのです。

その反面で、種まきにばかり一生懸命になるあまりに、あとは神様にまかせっきりにしてしまう私たちも時にはいるのではないでしょうか。
確かに蒔かれた種が芽吹き成長するために、私たちの力は必要ないかもしれません。けれども私たちもまた、種を蒔いた農夫として、その芽がよりよく育ってほしいと願い、草取りだって水やりだってやってあげたいと思うのではないでしょうか。
宣教も同じだと思います。私たちは種を蒔くだけではない、その芽吹いた人々を大切に思い、その人のために愛をもって関わり続けていく、そのような私たちの業をも、神様は用いてくださるのです。

それでは私たち自身に蒔かれた種は今、どのような状態なのでしょうか。一度でも教会に足を踏み入れた人々は誰しも、何らかの形で種まきをされています。信仰の実が豊かに実っているでしょうか。あるいは何年も実をつけることができずに、静かに私たちの中に佇んでいるでしょうか。

牧師になって最近よく思うことは、どんな本を読むよりも、教会の信徒の方からのお話を聞くほうが、何倍も信仰の助けになるということです。慰めになり、力になり、喜びになります。
そのように、私たちが互いに信仰を共に分かち合う、その友がいるからこそ、一人ひとりの信仰の実は、より豊かにされていくのだと思います。

だからこそ、ふたつめのたとえは語ります。神の国はからし種のようなものであると。
私たちの中に芽吹いた種が、様々なことで思い悩み、信仰の実をつけることのできない時にも、互いにそれを分かち合うことを通して、私たちの信仰の実は再び豊かに与えられていくのです。私たちは時に思いもかけないかたちで他のキリスト者に出会い、その出会いから再び教会へと導かれたりします。そのような不思議なめぐりあわせを神様が与えてくださることによって、私たちの予想を超えて、神様は神の国を大きくされるのです。

今週一週間、私たちの中にある、神様から与えられた種に心を寄せてみませんか。私たちが神様を知ったのは、いつのことだったでしょうか。どうして出会って、そして信じたのでしょう。
そして今、神様を信じているということは、自分にとってどのようなことであるでしょうか。そのことを少しでも、思い返す時を持ってみませんか。
きっとその時にこそ、私たちが新たな種を神様から手渡される時になるのではないかと思います。なぜなら私たちの宣教の力は、私たち自身が神様と関わるところにこそ生まれるからです。

キリストはすべての人の救いのために、私たちにも、御言葉の種を差し出しておられます。その種を手に取ってまいりましょう。私たちのすべての働きを、神様は宣教の働きとして用いてくださることを信じて、これからの一週間を過ごしてまいりたいと思います。

2018年7月17日火曜日

聖霊降臨後第9主日礼拝のご案内

次週7月22日(日)10時半より、聖霊降臨後第9主日の礼拝が行われます。

長野教会では野口和音牧師の説教
「黙れ、沈まれ」

松本教会では鈴木浩牧師の
マルコ福音書連続講解説教(2:1-12)
「罪を赦す権威」

と題して、
長野教会では聖餐礼拝として、松本教会では主日礼拝として守られます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

──マルコ福音書4章35-41節

ルターナイツ in まつもとのご案内

次の日曜日・22日の18時30分から、
松本教会にてルターナイツ in まつもとが行われます!


今回のゲストは……
・安藤則男 氏
・レオンソワーズ(レオーネ鈴木氏・フランソワーズ氏・安部わたる氏)です!
今回も野口和音牧師のヴァイオリンと、”賛美歌のウラ話”もあるカモ……?

参加費は軽食込みで500円、事前申し込みは不要です。
日曜日の夜を、ちょっとトクベツな時間にしませんか?
皆様どうぞご参加ください。お待ちしています。

2018年7月16日月曜日

聖霊降臨後第8主日礼拝。20180715

15日(日)は聖霊降臨後第8主日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。
朝から非常に暑い日でしたが、教会学校から子どもたちが来てくれました。

CS礼拝には大人の方もご参加いただけます

箱舟

教会学校礼拝後は子どもたちは箱舟クラフトをしていました。
松本教会の礼拝の中では、牧師夫婦の転入式を行いました。


主に連なる兄弟姉妹として、またこの松本教会の信徒として、これからも皆様と共に信仰の歩みが守られるようにと祈りながらの転入式となりました。

お昼ご飯は涼しげな冷製パスタでした。野菜たっぷりで、暑さにばてた身体に元気をいただきました。
様々な機会が重なり、三十数年ぶりにお会いしたという教会員の方とのつながりのなかで教会に来られた方々と共に、交わりの時を持ちました。


松本教会では西日本での大雨によって被害にあったルーテル教会とその信徒のための連帯献金の呼びかけを始めました。
心を合わせ、一日でも早く平安な日々が与えられますようにと共に祈りを合わせています。

2018年7月11日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

──マルコ福音書3章20-30節

† † †


今日の箇所ではイエスの身内たちが登場しています。彼らは人々が「あの男は気が変になっている」と言っているのを聞いて、キリストを取り押さえに来ています。
また、彼らにとっては社会のエリートであった律法学者たちが「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた言葉も聞いていたことでしょう。
キリストは、社会からはじかれて苦しみの中にいる人々に、神の愛をもって寄り添っていかれました。けれどもそのほかの人々──敵対もせず、現状に不自由のない人々にとっては、それは「わたしの救い」につながるものではなかったのかもしれません。
イエスの身内の人々はキリストご自身を見て判断するのではなく、他の人々から聞いた言葉の方を信じてやってきているのです。

さらに言えば、律法学者たちがキリストを中傷している言葉も、キリストを全く見誤ったものであると言えます。悪霊を追い出すためにより強い悪霊の力を使っているのだという彼らの主張の裏側には、キリストが神の力を用いているとは信じたくない、彼らの心が透けて見えるようです。つまり、今日の箇所に登場する人々は誰一人として、キリストご自身を見ようとはしていないのです。

新約聖書における罪という言葉には、「的外れ」という意味があります。イエスという男は何者であるのか、という問いの中で、彼らは的外れな答えを導き出したり、キリスト自身をまっすぐ見ようとはしていません。それが人の持つ罪と呼ばれるものです。
けれどもキリストはそのように悪霊に取りつかれたと中傷されようとも、その行いをやめることなく、またご自分で彼らを裁こうともされませんでした。
ただ、人々の的外れな捉え方を諭され、そして言われました。
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

キリストはその生涯の中で、苦しみ悩む全ての人に寄り添っていかれました。そしてまた、今は苦しみも痛みも感じていない人々に対しても、罪によってキリストご自身をまっすぐ見ることが出来なくなるという苦しみの中にあることを諭されています。そして何より、その裁きも救いも、キリストに与えられた聖霊、神様ご自身にすべてを委ねられているのです。

私たちもまた、神様を自分の都合のいいように受け取ってしまってはいないでしょうか。どのようなときにも神様がすべての人々、私たち一人ひとりの救いのために働かれていることを、忘れてしまってはいないでしょうか
時には私たちには神様の御業と思えないことが起こるときもあります。けれどもそのようなときにこそ、いつでも神様ご自身をまっすぐに見据えていきたいと思います。
そのために、繰り返し聖書の御言葉に聞いてまいりましょう。そこには苦難の中にさえ神様の愛があり、慰めと癒し、赦しと平安があることを、キリストは確かに、私たちに語ってくださっています。その御言葉を通して、私たちの罪も救いも、すべてを神様にゆだねる、そのような心をもって過ごしてまいりたいと思います。

2018年7月10日火曜日

聖霊降臨後第8主日礼拝のご案内

次週7月15日(日)10時半より、聖霊降臨後第8主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教
「種を蒔こう」

と題して、
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

──マルコ福音書4章26-34節

いのち学のご案内

来週月曜日、7月16日(祝)19時より、松本教会にて「いのち学~現代科学を語る~」が行われます。



いのち学、第3回目です!
生命科学としての「命」について、
そしてその枠を超えたわたしたちの「いのち」について──。
信州大学名誉教授で癌の研究者でもある谷口俊一郎先生を講師として、共に考える時を持ってみませんか?

今回からでも大丈夫です!
参加費は500円。 事前申込は不要です。

7月16日の午後7時から日本福音ルーテル松本教会にて行われます。
当日お時間のある方はぜひお越しください。
また、お問い合わせは日本福音ルーテル松本教会まで。


†松本教会はこちらです。†


2018年7月8日日曜日

聖霊降臨後第7主日礼拝。20180708

本日は聖霊降臨後第7主日礼拝でした。
長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られました。


アルバを着て礼拝をすると汗びっしょりになるくらい暑い季節がやってきました。
通信でつながっている松本教会の方々と共に、今回の通信礼拝でも無事に御言葉を分かち合い、祈りを合わせることが出来ました。感謝です。


茄子の時期がやってきました。信徒の方々が持ち寄ってくださったさわやかな茄子の浅漬けやトマトのマリネ、天ぷらなどを皆で分かち合いました。
干し柿の天ぷらという珍しい料理もありました。揚げることで堅い干し柿が柔らかくなるのだそうです。不思議な味覚でした。

松本教会では通信礼拝として守られました。
礼拝後にはキリスト者の自由を読む会が開かれ、分かち合いが行われました。



この数日のうちに、西日本の豪雨により多くの人々が被害にあい、行方不明の人々の救助と捜索が続けられていることを思い、心を痛めています。
どうか一人でも多くの人の命が救われますように、そして痛みの中にある人には癒しが、不安と苦難の中にある人々には必要な助けが与えられますようにとお祈りいたします。

2018年7月4日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。
イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

 ──マルコによる福音書3章1-12節

† † †

先週の御言葉に引き続いて、安息日でのキリストとファリサイ派の人々との対立が福音書には記されています。
「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」とキリストは彼らに問いかけられています。
当時のファリサイ派の人々が読んでいた律法の註解書には、誰かが命の危機にさらされている場合には、安息日の規定よりも優先する、ということが書かれていました。
ですからキリストが問いかけたのが「許されているのは命を救うことか、殺すことか」だけであったのなら、ファリサイ派の人々も沈黙しなかったでしょう。命を救うことは赦されているのだと。

けれどもキリストは「善を行うことか、悪を行うことか」と付け加えて問いかけられました。ファリサイ派の人々にとって、命の危機においては安息日規定を破っていい、という解釈はあくまで例外的なものであったため、誰かの命にかかわることでなければ、たとえ善いことであってもしてはならない、という立場を取っていたからです。それゆえに、彼らは沈黙せざるを得なかったのです。

だからこそ、そこには律法の根本にある愛が欠けていることに、キリストは怒り、そしてそれを諭す御言葉をも聞き入れない彼らに対して、悲しまれたのです。

キリストは癒しを行うことでファリサイ派の人がキリストを殺す算段を始めることも、きっとご存知であったことでしょう。しかしそれでもキリストは、手の萎えた人の苦しみに寄り添っていかれました。それこそが、安息日論争を通して、そしてキリストが十字架を通して私たちに伝えたかったことではないかと思います。

カンヌ国際映画祭の最高賞を受賞した『万引き家族』が先日話題になりました。
その中で、私たちが見て見ぬふりをしたくなるような社会問題に切り込みつつ、そのただなかで生きている人々の幸せや愛が、法律という正しさによって一方的に踏みにじられていく現実を描き出していました。
人と人とが互いの痛みや喜びに寄り添い合って生きるということが、文字によって定められた普遍的な正しさによってないがしろにされていく。その現実は、2000年も前から変わらない私たちの姿を現しているのかもしれません。
時に誰かを正しさで縛り、時に縛られて苦しみの中にありながらも、誰にも寄り添ってもらえない、そのような私たちに、キリストは命を懸けて、寄り添ってくださっているのです。

命のすべてを懸けて、善を行い、私たちの命を救ってくださるお方が、ここにおられます。
私たちはそのお方に、祈りをもって、ありのままの姿を受け止めていただくだけでいい。その思いに、私たちと同じように怒り、悲しみ、そして寄り添ってくださる方こそ、十字架のキリストなのです。
そのようなキリストの愛に満たされて、私たちもまた、誰かに寄り添っていくための一週間を始めてまいりたいと思います。キリストは今日も、善を行い、誰かのいのちを救うために、私たちを召し出しておられます。すべての人々の「真ん中に立ちなさい」という御言葉によって、立たされ、生かされてまいりましょう。

2018年7月3日火曜日

聖霊降臨後第7主日礼拝のご案内

次週7月8日(日)10時半より、聖霊降臨後第7主日の礼拝が行われます。


長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教
「この人を見よ」

と題して、

長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。


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イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。


──マルコ福音書3章20-30節

2018年7月2日月曜日

JELAコンサート・聖霊降臨後第6主日礼拝。

先週土曜日6月30日は、JELAによる第15回世界の子ども支援チャリティコンサートでした。
ヴァイオリンの真野謡子さん、クラシックギターの松田弦さんをお迎えしてのコンサートとなりました。

たくさんの方と共に

クラシックギターとヴァイオリンの共演、とても素敵でした。
とても暑い日でしたが、多くの方が来てくださいました。遠くの他の教会の方や、以前にこの教会につながりを持った方々も久しぶりに来てくださいました。
また、それだけではなくこのコンサートで初めて教会というところに入ったという近所にお住いの方や、また教会に来たいですと言ってくださった方がいたことはすごく嬉しいことでした。


コンサートに際して、教会伝統の手作りパウンドケーキやあんずジャム、教会員の方々が作ってくださったクッキーなども販売しました。




この日の為に作ったパウンドケーキは見事完売しました。感謝!

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日曜日、7月1日は聖霊降臨後第6主日の礼拝が守られました。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。

第一週目の初めは教会学校から

土曜日に引き続き、非常に暑い日となりました。
皆で御言葉から主の安息日を覚える主日となりました。
お昼ご飯はサブウェイ形式!


熊本からの完熟スイカも皆様と分かち合われ、大好評でした。

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この記事をご覧のあなたにも、
今日から始まる一週間のうちに、
神様の守りと導きとが豊かにありますように。