2018年8月29日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。


──マルコ福音書6章45-52節


† † †

1.いるのに見えない神様


キリストは弟子たちを「強いて舟に乗せ」、先に行くようにと指示しています。弟子たちはそう指示をされたものの、キリストが舟に同乗しないことに不安を覚えたのかもしれません。
以前ガリラヤ湖を船で渡った時(マルコ4:35)には、眠っておられたにせよ、キリストは弟子たちと共に舟に乗っておられましたが、今回は違います。キリストは祈る為に山に登られています。それゆえ弟子たちから遠く離れたところにおり、弟子たちは自分たちだけで進んでいかなければならなかったのです。

キリストはこののち逮捕され、十字架にかけられていきます。弟子たちはすべて逃げ去っていきます。キリストが復活したのちも、弟子たちと永遠に共に生きたわけではなく、天に昇っていかれました。
キリストは確かにいてくださる、しかし私たちの現実の中で、目に見える姿ではいてくださらない。そのなかで私たちは神様を信じて日々を過ごしていかなければならない。その難しさと不安は、弟子たちが逆風の中を漕ぎ悩んでいる姿に現れているのではないでしょうか。


2.「通り過ぎる」イエス


漕ぎ悩む弟子たちのもとに、キリストはやってきます。しかしここで「そばを通り過ぎようとされた」とあるのはなぜでしょうか。
キリストは漕ぎ悩む弟子たちを助けようとしたのではないのか、という疑問が起こるかもしれません。この「通り過ぎる」という表現は、旧約聖書において神様が人々の前に姿を現す時に使われる表現です。
手を触れなくとも、言葉を交わさなくとも、神様はあなたがたと共にいるのだということを弟子たちに伝えるために、キリストはこのように“通り過ぎ”ようとされたのです。


3.自分のことで精いっぱい


聖書を読み、主日のたび教会に集う私たちは、一人ひとりがみ言葉からキリストに倣うようにと聞き、そのように生きようと思うことであると思います。けれども実際にはそう上手くいかないことも知っているのではないでしょうか。
キリストのようにすべての人を愛することはできないし、御言葉に触れるたびに、自分のことだけで精いっぱいだった自分を見つけるのではないかと思います。
弟子たちもまたそうでありました。神様があなた方と共におられる、その顕れがすぐそこで起きているのに、逆風の中を自分たちの力だけで進もうとするあまり、それを幽霊だと思ってしまうのです。


4.寄り添う神様、解放する神様


私たちは主日以外の時間に、どれだけ聖書を開くことがあるでしょうか。
聖書は勝手に開いて私たちに読めと声をあげたりはしません。けれども自分のことだけで精いっぱいになっている私たちにそっと寄り添っているのです。
しかしそれでは私たちの世界が狭まってしまって、なおも自分のことばかり考え、逆風の中で苦しみ続けることを、キリストは知っておられました。
だからこそキリストはもう一歩私たちに向かって踏み出し、私たちをその苦しみから解放する言葉を語ってくださっているのです。

「安心しなさい、恐れることは何もない。わたしが、あなたと共にいる」。


5.私たちと共におられる神様


私たちは神様を見ることはできないかもしれません。けれども神様に出会うことはできます。
聖書を通して、神様は私たちに寄り添い、いつでも語り掛けてくださっているからです。
私たちが聖書を開くとき、そこには私たちの主、イエス・キリストがはっきりと顕されていること、そしてそのキリストが私たちと共におられて、自分のことで精いっぱいになってしまう私たちが決して一人ではないことを語ってくださっています。
迷う時。神様が見えなくなる時。自分のことばかりに目が行ってしまう時に、聖書を開きましょう。神様に会いに行きましょう。
御言葉に聞く私たちと共に、いつだって神様がそばにいて、共に歩んでくださっていることに力づけられて、一日一日を、歩んでまいりましょう。

2018年8月28日火曜日

聖霊降臨後第15主日礼拝のご案内。

次週9月2日(日)10時半より、聖霊降臨後第15主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「神様からのラブレター」

と題して、
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」

──マルコ福音書7章1-15節

2018年8月27日月曜日

聖霊降臨後第14主日礼拝。 20180826

8月も最後の主日となりました。
今月は毎週キャンプがあり、チャプレンとしての働きをさせていただきました。
主日に加えてキャンプの中でも御言葉を語る機会を与えられ、いつもの三倍恵み深い月となりました。

昨日26日は、聖霊降臨後第14主日として、長野教会では聖餐礼拝が守られました。


まだまだ蒸し暑い日々が続きます
「長野は盆を過ぎれば涼しくなる」という例年の常識が今年は異常気象のため通用しないようです。
未だ最高気温が30℃を下回ることのない長野ですが、去年のこの時期には20℃前後だったんだとか。


お昼にはゴーヤや茄子の料理でしっかり元気をいただきました。
コーヒーゼリーも隠し味ブランデー入りの手作りの一品です。
参加したキャンプの報告などを交えながら、美味しいひと時を過ごしました。

松本教会では、巡回説教者として栗原茂牧師をお招きし、主日礼拝として守られました。



土曜日に準備のため教会に来られるということでお会いすることが出来ました。
「説教の見える化」に力を入れておられ、説教箇所に関連する現地の資料を展示しつつの説教をしてくださったようです。
今回はガリラヤ湖をわたる弟子たちの船が逆風に漕ぎ悩むという箇所でしたが、その時の船の展示写真や、その小型レプリカなどを展示してくださいました。
とても快活とした方で激励の言葉もいただき、力づけられました。

当時の船の小型模型

長野教会の信徒の方のお見舞いをしたあと、今回は長野教会からの帰り道、いつもの高速道路ではなく下道を通って帰りました。
ダムを横目に山沿いを走り、安曇野まで帰ってきたところできれいな虹に出会いました。
創世記でアブラハムが神様と交わしたいのちの契約を思い出し、教会に連なる一人ひとりの方を思いつつ祈りました。

よく見ると二本!

† † †

この記事をご覧の皆様にも、神様の恵みが豊かに在りますように。

2018年8月23日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。


──マルコ福音書6章30-44節

† † †

五つのパンと二匹の魚を用いて、キリストが人々を満腹させたという奇跡は、四つの福音書すべてに記されています。それだけこの物語が当時の人々にとって欠くことの出来ないキリストの物語であったのだと思います。
この物語の特徴的な点は二つあります。
パンと魚はキリストご自身から直接人々に手渡されておらず、弟子たちによって分配されているということ。
もう一つは、弟子たちと人々がパンと魚を分かち合ったのは「人里離れた所」であったということです。

先週のみ言葉の中で、弟子たちが杖以外には何も持たずに送り出されたのは、宣教の力が神様から与えられたものであって、それに寄り頼むことを忘れないためでした。
今日の箇所では送り出された弟子たちがキリストのところへ帰ってくる場面から始まっています。弟子たちに対して、キリストは彼らに人里離れた所へ行って、しばらく休むようにと言われています。キリストは弟子たちに、「“自分たちが”行った/教えた」という視点から離れて、送り出されるときと同じように、静かに神様と向き合う時間を取りなさいと言われているのです。

人里離れたところへ行った弟子たちとキリストを、人々は熱心に追いかけていきます。
彼らの様子は「飼い主のいない羊のような有様」でありました。その表現からは、他の奇跡物語のように、いのちの危機に襲われていなくとも、どこに行けば、なにをすればいいのかわからない、不安と迷いの中にある人々の姿が見て取れるのではないでしょうか。
彼らがキリストを熱心に追い求めてたどり着いた場所は、弟子たちと同じ「人里離れたところ」──神様と向き合うための場所でした。

キリストは人々を組にし、弟子たちの手からパンと魚を人々に配られました。神様と向き合うための場所で、そこに集う人々がキリストから渡されたものを分かち合い、そして満たされていく。その物語が時代を超えて、いつの時代にも語りつがれていったのは、今なおその光景が私たちの目の前に広がる奇跡があるからではないでしょうか。

弟子たちが送り出されていって、そして帰ってくる場所。
キリストが神様に心を向けよと繰り返し導いておられる場所。
そして私たちが日々のなかに送り出されて、また帰ってくる場所。
それは教会のことではないかと思うのです。

神様はいつも私たちと共におられる、と言います。その通りです。教会という場所にだけ、神様がおられるのではありません。
けれども私たち一人ひとりが、神様に心を向けるためにやってくる場所の一つとして、教会はあるのではないでしょうか。

私たちは今週も、神様によってこの一週間のうちに送り出されていきました。その日々の中で、恵みに触れることもあれば、心も体も、飢え渇きを覚えることもあるかもしれません。そうして過ごした一週間を抱えて、私たちは再び神様の許へ、教会へと帰ってくるのです。
まるで子どもがお腹を空かせて家に帰ってくるように、ここで私たちは、ただいま、と神様に声をあげましょう。
私たち一人ひとりが与えられたすべてのものを分かち合いましょう。
そこにこそ、キリストは私たちを満たす奇跡を、確かに起こしてくださいます。
私たちが互いに神様から与えられたものを分かち合うことによって、新しい日々を歩みだしていくための力を、確かに与えてくださるのです。

2018年8月21日火曜日

聖霊降臨後第14主日礼拝の案内。

次週8月26日(日)10時半より、聖霊降臨後第14主日の礼拝が行われます。

長野教会では、野口和音牧師の説教
「通り過ぎるイエス」

松本教会では栗原茂牧師の説教
「湖の上を歩く?」

と題して、
長野教会では聖餐礼拝として、松本教会では主日礼拝として守られます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。

──マルコ福音書6章45-52節

2018年8月20日月曜日

ティーンズキャンプ・聖霊降臨後第13主日礼拝。

15~17日、松本教会では東教区ティーンズキャンプが行われました。
テーマは「恵み」。あらゆるものから神様の恵みを見つける・受け取っていこう、というところからキャンプが始まりました。


松本教会の信徒の方の、ステンドグラス工房にお邪魔しました。
天から下がる天使や星のステンドグラスの美しさに、子どもたちと共に息をのみました。
ステンドグラスを造り始めたきっかけもお話して下さいました。

ステンドグラス工房を持つ信徒の方のお宅にお邪魔しました

クラフトパーク創造館にも寄りました。上原良司の碑

創造館にて天地創造を表したステンドグラスも見学し、その丘の上にある上原良司の碑にて平和への思いを新たにしました。
また、鳩のステンドグラスと麦のスタンドを一人ずつプレゼントしていただき、子どもたちも大喜びでした。感謝です。

雨の予報のため、美ヶ原へのピクニックを中止し、アルプス公園に来ました。
小雨のなかドリームコースターという一人用トロッコに乗り、森の中を駆け抜けました。
雨でしっとりと濡れた森の香りが心地よかったですが、滑り終わった後に大雨!
傘を挿しても全く意味がないくらいの土砂降りの中、笑いあいながら車へと走って戻りました。

アルプス公園と市原牧師

アルプス公園展望からのパノラマ写真

ドリームコースター順番待ち
夜は学びの時間です。
聖書が時代を超えて大切に伝えてきたことの一つとしての「恵み」があります。
なぜなら私たちは満ち溢れている神様の恵みを知らない世界に生きていて、それゆえに私たちのいのちが自己中心的になってしまっているという現状があるからです。
けれども互いに愛し合うことの出来ない、互いのいのちを大切に思いやることの出来ない世界を、それでも神様は愛してくださったからこそ、イエスキリストが神様のもとから送られ、十字架に架かったんだ、ということもまた、「恵み」であることを学びました。

三日目の最後には、一人ひとりが受け取った恵みをまた他の誰かに伝えていくこと、誰かを大切に思いやることを想いながら、ハーバリウムを作りました。

レクチャーを受けつつ真剣な顔で作ります




皆それぞれに思いの詰まった作品となったと思います。
プレゼントするもの、自分用として飾るもの……ハーバリウムとステンドグラスを見るたびに、今回のティーンズキャンプと神様の恵みについて思い出してほしいなと思います。
子どもたちからは楽しかった!またいきたい!という喜びに満ちた言葉がいただけたことが、子どもたちにとってという以上に、牧師としての一番の恵みであったと思います。
私たち牧師が準備した以上のものを神様が与えてくださって、子どもたちはそれを純粋に受け取っていった、まさに恵み深いキャンプとなりました。

† † †

19日、聖霊降臨後第13主日礼拝も無事守られました。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。
ティーンズキャンプの恵み深さを思い起こしつつ、御言葉を分かち合う時となりました。
先週の、弟子たちが派遣されていく御言葉に引き続き、弟子たちがキリストのもとへと帰ってくること、そして5000人の給食の箇所から、私たちの予想もつかない恵みを神様は与えてくださることをおぼえました。
送り出され、一週間を過ごし、そして神様のところへと戻ってくる。そのサイクルの中で、教会が私たちの心が帰ってくることの出来る家族・家である恵みを胸に留め、またこの一週間も歩みだしていきたいということを分かち合いました。

この記事をご覧の皆様にも、神様の恵みが豊かに在りますように。

2018年8月15日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

──マルコ福音書6章6b-13節

† † †

キリストは人々の病をいやし、悪霊を追い出す奇跡を人々にもたらしていきましたが、その働きを弟子にも担うようにと言われます。この箇所では汚れた霊を追い払うための力を12人の弟子たちにも授け、宣教のために送り出していくのです。
しかしキリストは弟子たちに不思議な制限をつけています。二人ずつ組にすること、そして杖以外には食料もお金を入れる袋も持っていってはならない、とするのです。
一人より二人のほうが悪霊を追い出す力が強まるということはないでしょうし、食料やお金があれば、自分が食べる以上に誰かに分け与えるということもできたかもしれません。効率を考えるのであれば、キリストが弟子たちを送り出したそのやりかたは、逆効果に感じられるのではないでしょうか。

しかしそれは、キリストが私たち人間という存在をよく知っておられたからこそなのだと思います。
私たちは本来、このからだ、このいのちの他に何一つ持たずに生まれてきます。けれども私たちは成長するにしたがって、いろんなものを自分のものにして着飾っていきます。それゆえ、私たちは普段、誰かを「なにができるか」「なにをもっているか」という目で見てしまいがちではないでしょうか。
キリストが生きた時代、人々もそうでありました。人々にとってキリストは「病を治してくれる人」「悪霊を追い出す力を持っている人」として見られてしまっていたことでしょう。キリストが人々に奇跡を言いふらさないようにと繰り返し戒め、奇跡の与え主なる神様がおられることを根気強く語っていかれたのもそのためです。
だからこそ私たちがキリストから力を受けて送り出される時、私たち自身が「何を持っているのか」を思い起こすのではなく、「神様とわたし」「神様と私たち」との関係を思い起こすことから、その一歩は始まっていくのではないかと思います。なぜなら宣教に用いられるその力は、私たちの力ではなく、神様から与えられた力であるからです。

教会の中だけで使われる言葉の中に、「導き」というものがあります。偶然とも思えるようなきっかけが与えられたり、思いもよらない形で人と人とのつながりが起きるときなど、私たちは人知を超えた者の存在を感じることがあると思います。教会ではそれを、神様が導いてくださったのだ、と言います。

教会に普段来られていない新しい人が来たとき、たとえば昔キリスト教の幼稚園に通っていたのだとか、一度だけキャンプでお世話になったりといったつながりがあることが分かった時、私たちは神様によって再会を与えられたのだと思い、その導きを感謝し喜びます。初めて教会に来られたのだという方にはよりいっそうの喜びがあります。

だからこそキリストは弟子たちを決して一人では送り出しはしなかったのだと思います。私たちを宣教の働きへと押し出していく力は、互いに私たちが神様との間に起こった喜びを分かち合うことから生まれてくるものではないかと思います。私たちが神様から与えられた恵みや導きを互いに分かち合い、そこに湧き出る喜びをまた他の誰かと分かち合っていくときにこそ、教会の宣教とは初めの一歩を踏み出すことが出来るのではないでしょうか。

私たちは決して一人ではありません。教会に集うすべての人を、神の家族として、兄弟姉妹と呼びます。私たちはここで御言葉と共に喜びを分かち合い、そしてまたこの新しい一週間を歩みだしていくのです。
教会を出れば、隣には誰もいないのだと思うかもしれません。しかしそれは違うのです。キリストは御言葉を通して、いつでも私たちと共におられます。私たちと兄弟姉妹、そして私たちとキリストとが、二人組とされて送り出されているのです。
私たちといつも共にある御言葉によって、今週一週間もまた、誰かと喜びを分かち合うために、歩みだしてい参りたいと思います。

2018年8月14日火曜日

聖霊降臨後第13主日礼拝のご案内。

次週8月19日(日)10時半より、聖霊降臨後第13主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では、野口和音牧師の説教
「神様にただいまを言おう」

と題して、
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。


──マルコ福音書6章30-44節

2018年8月13日月曜日

聖霊降臨後第12主日礼拝。20180812

昨日12日は聖霊降臨後第12主日の礼拝でした。
長野教会では主日礼拝として守られました。



牧師は主日の前日までは東所沢でのディアコニアキャンプにてチャプレンとして参加してきました。
その内容を分かち合いつつ、御言葉と共に、人とのつながりの中で私たちは喜びと力を与えられて宣教へと送り出されていくことを覚える主日となりました。

この日は奇しくも教会員の娘さんとお孫さんたちが天王寺教会から来られており、子供キャンプの後に広島教会・呉礼拝所とその兄弟姉妹についての報告を聞くことができました。


お昼は焼きそばパーティとなりました。
特製やきそばと共に、持ち寄ったエビフライやサラダなどを皆でいただきました。
様々な調味料をブレンドしたこだわりのやきそばの後は、フルーツときれいな手作りゼリーによるフルーツポンチもありました。

さわやかなソーダとフルーツがとても夏らしい

松本教会では通信礼拝として守られました。


奏楽の他に聖書朗読と奉献の祈りは松本教会が担当しています。
たがいに御言葉を聞き、祈る時となります。


松本教会でも、お盆休みのため武蔵野教会つながりの方が訪ねて来られたとのことで、両教会にとって人と人とのつながり、教会と教会とのつながりを感じられる喜びに満ちた主日となりました。

† † †

全国各地で猛暑が続いています。
どうぞ皆様体調にはお気を付け下さい。
今週もこのブログをご覧の方々の上に、
神様の守りと祝福が豊かにありますように。

2018年8月8日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。


──ヨハネ福音書15章9-12節

† † †

私たちが平和を考えるとき、その対岸に戦争を思い起こすことだと思います。けれども戦後74年が過ぎ、戦争を知らない世代が増えてきています。
私たちが平和を考えるとき、これまでスタートラインとしてきた戦争の実体験や実感のこもった伝聞が失われていくとしたら、私たちはいったい何によって平和を考え、踏み出していけばよいのでしょうか。

漫画を原作とした「この世界の片隅に」というアニメーション映画が二年ほど前に上映開始され、日本アカデミー賞など数々の賞を受賞しました。
この映画では戦争を題材にしながら、戦い争うシーンは一切描かれません。あくまで広島・呉に住む人々の日常に焦点を当てた作品です。この映画の一番の特徴として、アニメーションでありながら、当時の呉の風景や、人々の細やかな所作などが丁寧に表現されていることがあげられると思います。それゆえに、登場人物たちの姿がまるで私たちと同じように”生きている”という実感が湧き上がってくるのです。
戦争という現実感が薄れていく現代において、この戦争映画が多くの人々の心に響いたのは、劇中で丁寧に描かれた登場人物たちが“生きている”ということへの共感があったからではないかと思います。誰かを信じたいと思う心、誰かを愛し、時には衝突し、悩みながら、どうにか折り合いをつけて生きていく。その姿は現代を生きる私たちと何も変わらないのだという共感から戦争を語っていったからこそ、現代の多くの人々の心に響いていったのです。

“生きている”ということに深く踏み込んでいった先にある言葉は、時代を超えて、私たちに響いてくるものです。
戦争体験の語り部の方々の言葉がいつもリアリティをもって響いてくるのは、目の前に起きた出来事の中で、その方がどのように”生きた”のかということに深く踏み込み、その先にある言葉を伝えてくださったからだと思うからです。
そして誰よりも深くその境地に踏み込み、今なお私たちに響いてくる御言葉を語ってくださったのが、イエス・キリストという方でありました。

平和の主日の箇所として選ばれているのは、ぶどうの樹のたとえに続けて語られている箇所です。
キリストは言われます。「わたしにつながっていなさい、わたしもあなたがたにつながっている(ヨハネ15:4)」
キリストにつながることは神の愛に留まることであること、そして私たちが神の愛に留まるために、互いに愛し合うという掟を守りなさいと語られるのです。

キリストは神の愛によって、平和を実現しようとしておられました。そして十字架によって、神と人との間に平和を実現されました。それゆえ、私たちが平和を考えるとき、私たちに語られたこのみ言葉を、平和への道しるべとしたいのです。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われるキリストが、どのようなときにも私たちと共におられ平和へと導いてくださっているからです。

私たちの日々は、平和ではありません。戦争がないということだけが平和ではありません。誰もが抱える病の問題や、人間関係の問題に日々悩まされているからです。
けれども私たちが愛することのできない自分自身、私たちが愛せない誰かのために、キリストは十字架にかかってくださったことを思い起こしたいのです。
誰もが等しく、神様から尊い命を与えられて、ここに“生きて”います。そのことを思い起こすとき、キリストは必ず、私たち一人ひとりの手と、その人の手とを、しっかりとつなぎ合わせてくださいます。
その手を結び合わせてくださるキリストのみ言葉をスタートラインにして、私たちもまた、平和への道を、一歩ずつ、踏み出していきたいと思います。

2018年8月7日火曜日

聖霊降臨後第12主日礼拝のご案内。

次週8月12日(日)10時半より、聖霊降臨後第12主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では、野口和音牧師の説教
「喜びが力になる」

と題して、
長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

──マルコ福音書6章6b-13節

2018年8月5日日曜日

平和の主日礼拝と教会学校デイキャンプ 20180805

8月5日は平和の主日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。

礼拝後の教会学校デイキャンプに向けて、朝から教会の皆様と共に準備に大忙し!
牧師は松本教会の礼拝堂の屋根にのぼってプール用の日陰を作るお仕事から主日がはじまりました。

あんずの木がいい感じの柱になってくれます。

礼拝の中では5月から延期になっていた新生児祝福式が行われました。
神様からの祝福を受ける子どもたちは皆とってもいい笑顔でした。

祝福式はおねえちゃんたちも一緒に受けてくれました

礼拝後には教会学校のデイキャンプの始まりです。
子どもたちはお昼ご飯に、朝から教会員の方々が作ってくださったドライカレーをほおばっていました。



子ども達のための礼拝では、友達あるあるゲームを通して、ヨハネ福音書15:15から、神様は私たち一人ひとりの友達!ということを分かち合いました。
祝福の時に両手を広げるのが見ていて面白かったらしく、子どもたちも一緒に祝福ポーズをしていました。神様の祝福をも互いに分かち合える、とても喜びに満ちた時間になりました。


楽しい絵本の読み聞かせや、鳩はなぜ平和の象徴なのか?というお話をしながら、平和の鳩のクラフトをみんなで一生懸命に作ったりしました。

皆真剣に聞いています

ハサミさばきはさすが現役(?)

そのあとは朝から準備していた水遊びの時間となりました。
牧師V.S.子どもたちの熱い水かけバトルが繰り広げられました。

今朝張ったタープの日陰で水遊び

牧師ホース V.S. キッズ水鉄砲

牧師は下着までびしょびしょになりながら、子どもたちと全力で水かけあいをしました。
来年は絶対水着を着ようと誓いました。


最後はみんなで完成した平和の鳩を手に、集合写真を撮りました。

† † †

最高気温が36度にもなるなか、何事もなく教会学校のデイキャンプが守られましたことを神様に感謝します。
またこのために奉仕してくださった方々に感謝するとともに、神様の祝福がありますように。
そしてこの記事をご覧の皆様にも、この一週間のうちに、神様の祝福と守りとがありますように。

2018年8月1日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」


──マルコ福音書5章25-34節

† † †

今年の四月に、女性の市長が相撲の土俵には上がれないというニュースが取り上げられました。日本の伝統芸能には女人禁制がよく見られますが、このことの根元にある考えは「女性が汚れを持ち込むのを避けるため」であるといいます。
聖書の時代から、女性は男性に比べて汚れに関する律法が厳しく定められています。聖書の時代、血には命が宿ると考えられていたため、祭儀的な理由以外で血を流すことは罪と考えられていました。本来イスラエルという共同体の安全や衛生の為に、そのように罪を犯したものを隔離・追放する、それが「汚れている」とされることだったのだろうと思います。

けれども女性には生理的に避けられない月のものや出産に伴う出血が起こります。律法によれば血を流しているあいだ、つまり汚れている時は、その人に触れた人、触れたもの全てが汚れたとみなされます。
今日の福音書の箇所において出血の止まらない女性は、どれほど苦しい思いの中にあったことでしょうか。血が止まらない病による苦しみに加えて、律法に規定されている汚れによって、12年ものあいだ、人間関係すらも断ち切られる苦しみもありました。
彼女が願った「この方の服にでも触れれば“いやして”いただける」の原文を直訳すると、そのことがよくわかります。「この方の服にでも触れれば“救って”いただける」となるからです。そのあとの「病気がいやされた」に使われている単語とは違うのです。彼女は病だけではなく、心の癒しも求める救いをも願っていたのです。

彼女はイエス様が神様であることをわかって救いを求めたわけではありませんでした。わらをもつかむ思い、小さな信じる心があっただけでした。
キリストに触れたのは、裾を少しだけ掴むような弱い力だったことだと思います。しかしキリストはそのひと触れの中に、一心にキリストへと心を向ける、彼女の祈りを聴きとってくださったのです。

病がいやされた彼女を、キリストは懸命に探し始められます。それは、彼女が願ったその救いの全てを満たすためです。彼女の病を癒すだけではなく、彼女のこれからの日々の歩みをも祝福するために、彼女を探しておられたのです。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

誰一人として、救いに相応しい信仰を自分で手に入れることができる人はいません。真の信仰は、神様から与えられるものであるからです。
キリストは、彼女の小さな信仰によっていやしを与え、御言葉によって彼女のうちに真の信仰を与えられました。このキリストと彼女との交わりが告げているように、私たちもキリストにのみ心を向けていく時、私たちの日々のただなかにキリストとの交わりと救いとが起こってくるものなのです。

私たちが日々の中で、当たり前だと思っていること。その一つ一つを思い返し、キリストに心を向けてみませんか。

今日も朝、新しい目覚めが与えられたこと。
美味しくご飯が食べれること。
誰かと喜びも悲しみも分かち合うことが出来ること。
そのような誰かが一緒にいてくれること。
そして一日をきちんと終えることが出来ること。

その一つ一つを通して、キリストは私たちと関わり、語り掛けてくださっています。
私たちもまた、いつでもその救いと信仰に満たされて、感謝と共に歩んでまいりたいと思います。