2018年9月27日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

 ──マルコ福音書8章27-38節 

† † †

1.弟子たちのメシア像


旧約聖書において「メシア」という言葉は「油注がれた者」、つまり「王」という意味を持っており、ダビデやバビロニアの支配からイスラエルを解放したアッシリアの王を指す言葉として使われています。
イエス様が弟子たちと共に生きていた時、彼らが読んでいたのは旧約聖書でした。それゆえ「それでは、あなたがたは、私を何者だというのか」というキリストの問いかけに対してペトロが答えた「あなたは、メシアです」という言葉は、政治的に国を建て直すためのリーダーとしてメシアを捉えていたのです。
だからこそペトロはイエス様がメシア、キリストであるなら、その宗教的側近ともいえる「長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」王などありえないのだと思い、いさめ始めてしまったのです。
それに対してイエス様は強い言葉で叱っています。しかしここで「振り返って弟子たちを見ながら」と書かれていることから、そのようなメシア像を考えていたのは他の弟子たちも同様であったのでしょう。

2.苦難の僕とすべての人の救い


しかしキリストはそれとは真逆の、イザヤ書に記された苦難の僕の姿にこそすべての人の救いを見出していったのです。
イザヤは苦難の中にある僕を預言しています。多くの苦難の中にあってなお、自分を認め、支えてくださる神様が共にいてくださるということこそ、救いであるのだと、ここで僕は語るのです(イザヤ50:4-11)。
キリストもまた、すべての人にとって誰もが迎える最大の苦難が死であることを見据えておられたのです。だからこそキリストは十字架の道こそがすべての人に与えられる最も大きな救いであるのだとして、「はっきりとお話になった」のです。

3.救いへ踏み出す


私たちが身近な人の死、愛する人の死を経験するとき、そこにあるのは耐え難い悲しみであると思います。しかしそこにこそ与えられるキリストによる救いとは、死と悲しみをそのまま取り除いてくださることではありません。
この世に生きる私たちの痛みと悲しみに寄り添い、支えてくださることであり、そのような十字架のキリストを私たちが信じ、歩むことによって、死の先には永遠の命が与えられていく、それこそが救いであるのだと、ここで語ってくださっているのです。
すべての人が逃れられない死という痛みを抱える現実の中にあって、それでも私たちが信仰によってキリストに従っていくときに。すべての人の死は、その先にある永遠の命へと繋がっていく、その福音を聞くのです。
キリストが、メシアが救うのはたった一つの国ではありません。性別を超え、国を越え、そして時代をも超える、ここに生ける一人ひとりのための救いを与える為に、ここでキリストは、その歩みを始めるのだと宣言されているのです。

4.イエス・キリスト


だからこそ私たちがいのちと死について考えるとき、いつでもキリストから問いかけられているのだと思います。
「あなたは、わたしを何者だと言うのか」と。
そのときこそ、私たちは力強く答えたいのです。
「イエス様こそ、私の救い主です」と。
私たち一人ひとりもまた、どのような苦難と悲しみの中においても共にいてくださる神様から慰めを受け、キリストが歩まれた道を一歩ずつ、歩んでまいりたいと思います。


2018年9月25日火曜日

聖霊降臨後第19主日礼拝のご案内。

次週9月30日(日)10時半より、聖霊降臨後第19主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教
「逆転のキリスト」

と題して、
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では主日礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

──マルコ福音書9章30-37節

2018年9月24日月曜日

聖霊降臨後第18主日礼拝。 20180924

昨日23日は、聖霊降臨後第18主日の礼拝でした。
長野教会では聖餐礼拝として守られました。


なんだか少し広く感じます

松本教会では巡回説教者として鈴木浩先生をお呼びし、主日礼拝として守られました。



昼食会の後はマルコ福音書研究会が開かれました。感謝です。


朝晩の寒暖差が10℃近くなる季節の代わり目です。
皆様の体調が守られますように。

† † †

この記事をご覧の皆様にも、
神様の祝福と守りがありますように。

2018年9月19日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 ──マルコ福音書7章31-37節

† † †

1.キリストは寄り添い祈る


人々はキリストのところへと耳が聞こえず舌の回らない人を連れてきて、癒してくださるようにと願っています。しかしキリストは人々の前では癒されませんでした。その人を「群衆から連れ出し」、キリストと二人きりの場所で癒しを与えられています。
そしてまた、キリストは「天を仰いで深く息を」ついています。この「深く息をつく」という言葉は、他の箇所では「うめく」と訳されています。それゆえキリストが「天を仰いで」「深く息をつく」──「うめいて」「祈られた」のは、キリストが耳の聞こえない人の苦しみを共にし、祈りをもってその癒しを神様に求められたということなのです。

2.神様とあなたの一対一


しかしその反面、人々はその癒しに対して、キリストと同じようにその人の苦しみに寄り添っていったのではありませんでした。なぜなら人々はただ耳が聞こえるようになり、口が利けるようになったという事実しか言い広めてはいないからです。
だからこそキリストは口止めをされたのです。癒されたと言う事実だけ救いなのではなく、一対一の関係の中で苦しみに寄り添い、癒しを与えられる神様がおられるということ、それこそが救いであるからです。


3.あなたのための救い


耳が聞こえず、舌の回らない人の言葉は最後まで取り上げられていません。なぜならそこに起こった彼の救いは、彼とキリストにしかわからないことであり、唯一無二の体験であるからです。
私たちもまた彼と同じです。神様が私たちにどのように出会い、働いてくださったのか、ということは、一人ひとりが生きた歩みの中に深く根付いているものだと思います。
何かがうまくいった、誰かと出会えた、欲しい言葉がもらえた、そんな言葉では表現しきれない何かがある。その時、私たちはそこに、神様の姿を見るのではないでしょうか。かけがえのない神様の導きをそこに感じるのではないでしょうか。


4.耳が開かれるとき



牧師を目指して神学校の4年間を過ごす中で、何度も問いかけられた質問の一つに「どうして牧師になりたいのですか」というものがありました。その問いかけによって、「あなたと神様との関係はどうなっていますか」と考えさせられる機会が何度も与えられていたのだと思います。
私たちの生きているそのただ中で、私たちの思いを超えた何かが働いている。そのことを、私たちは常日頃から意識することはできないかもしれません。
だからこそキリストは絶えず私たちに御言葉を通して語り掛けておられます。
神様は、あなたに、どのように関わってくださいましたか。
そして今、どのように関わってくださっていますか。
私たち一人ひとりがキリストに出会う時、そしてそれを思い返す時、私たちはエッファタ(開け)という御声を聞くのです。
私たち一人ひとりがその御声によって耳を開かれ、日々の全てのことから神様の御業を聴き取ってゆく、その歩みを、いつでもここから始めてまいりたいと思います。

2018年9月18日火曜日

聖霊降臨後第18主日礼拝の御案内。

次週9月23日(日)10時半より、聖霊降臨後第18主日の礼拝が行われます。

長野教会では野口和音牧師の説教
「あなたのメシアは何を救う」

松本教会では鈴木浩牧師の説教
「あなたは、メシア」

と題して、
長野教会では聖餐礼拝として、松本教会では主日礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

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イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

 ──マルコ福音書8章27-38節

2018年9月17日月曜日

聖霊降臨後第17主日礼拝と松本教会敬老祝賀会 20180916

昨日16日は聖霊降臨後第17主日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。

松本教会では
聖餐の用意をするのは牧師の役目です

松本教会ではこの日が敬老祝賀会となりました。
お昼ご飯はおめでたい、ちらし寿司です!
また旬のぶどうや、色とりどりのおかずがお皿を彩りました。



80歳以上の方をお祝いする敬老祝賀会、松本教会ではお花をプレゼントするのが慣例なのだそうです。
お祝いのお花を牧師からお渡しし、一言ずつスピーチをお聞きしました。
それぞれの近況も含め、また歩んでこられた歴史の重みを聞きとることのできるスピーチをしていただきました。

おめでとうございます


いつまでも主にあって守られ、長生きしていただきたいと思います。
またこの日に来られなかった方々にも、神様の祝福とご健康が守られますように。

† † †

この記事をご覧の皆さまにも、
神様の祝福と守りとがありますように!

2018年9月12日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

 ──マルコ福音書7章24-30節

† † †

1.異邦人に冷たいキリスト?


シリア・フェニキアという土地には、バアル神やアシェラ神という異教の神々を信仰する人々が住んでいました。アシェラ神は女神の名前であり、ギリシャではアフロディーテと呼ばれる神様です。美と豊穣の神様であり、裏を返せば不道徳な性の神様として知られていました。旧約聖書では信仰してはならない神様として登場しています。
それゆえ、悪霊を追い出してほしいという願いをもってキリストのもとへとやってきたフェニキアの女性に、キリストは冷たい言葉を返しています。
この「まず、子供たちに」という表現から、まずイスラエルの人々が救われるまでは、異邦人であるあなたに救いを与えるわけにはいかないのだ、とキリストが言っているように聞こえてしまうのではないでしょうか。
私たちもまた、異邦人であります。弟子たちが異邦人伝道をしていくなかで、なぜマルコはわざわざ異邦人に厳しく当たるキリストの姿を福音書に残したのでしょうか。

2.フェニキアの女性の信仰と祈り


これまで弟子たちや律法学者たちの誰も、イエス様を主よ、と呼ぶ人はいませんでした。しかしイスラエルの神を信じていないとされる異邦人の女性が初めて、イエス様を、主よ、と呼んだのです。
さらに彼女は、自らが子犬と呼ばれたことを否定せず、子どもが落としたパンくずのようにわずかな恵みでも私には充分であるのだと、なおも救いを願い求めていったのです。
私たちはこの彼女の言葉に、神様との格闘を見ることが出来るのではないでしょうか。
神様の厳しい言葉をまっすぐに受け取りつつ、それでもきっと神様は求める者に必要な救いを与えてくださるはずだという強い信仰と、イエス様の姿を通して神様、と呼びかける力強い祈りを聞き取ることが出来るのではないでしょうか。
だからこそキリストは彼女の願いを聞き届けられたのであります。

3.祈りは神様との対話


以前に何度か信徒の方からこういう言葉を聞いたことがあります。
「祈っても、具体的な返答が返ってくるわけじゃない。だから祈るたびにむなしくなっていって、祈ることをやめてしまうんです」と。
しかし今日の箇所でキリストが彼女の祈りを聞き届け、救いをお与えになったのは、祈りもまた、ただ一方的に私たちが願い求めるだけではない、神様との対話/格闘であるのだということを教えるためではないかと思うのです。
私たちの祈りの対話は、祈り終わってなお続いているのです。なぜなら祈りを確かに聞き届けてくださるキリストは言われているからです。
「それほどいうなら、よろしい。家に帰りなさい」と。
この言葉を原典から直訳すると、「その言葉のゆえに、行きなさい」となります。彼女が家に帰ると悪霊が追い出されていたように、神様からの答えは、祈りの中だけでなく、祈り終わって、日々の中を歩む中において返されていくものでもあるのです。

4.救いに順番待ちはありません


私たちの祈りは、私たちの救いは、順番待ちなんかじゃありません。
神様は確かに、すべての人の祈りを聞き届けてくださっていて、日々のあらゆることを通して応えてくださっています。
キリストがフェニキアの女性の祈りを通して救いをお与えになったように、神様は私たちの祈りに必ず答えてくださるのだと信じる、その信仰を通して、日々の中に共に働いておられる神様を見つける一週間を過ごしてまいりたいと思います。

2018年9月11日火曜日

ルターナイツ in まつもとのご案内。

9月30日の18時30分から、
松本教会にてルターナイツ in まつもとが行われます!


今回のプログラムは……
・自転車アメリカ大陸横断・コカリナ演奏 / 竹下雅道 氏
・世界旅行報告・アカペラ / 谷口真実 氏
です!
今回も野口和音牧師のヴァイオリンと、”讃美歌のウラ話”もあるカモ……?

参加費は軽食込みで500円、事前申し込みは不要です。
日曜日の夜を、ちょっとトクベツな時間にしませんか?


皆様どうぞご参加ください。お待ちしています。

聖霊降臨後第17主日礼拝の御案内。

次週9月16日(日)10時半より、聖霊降臨後第17主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「耳が開かれるとき」

と題して、
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 ──マルコ福音書7章31-37節

2018年9月10日月曜日

いのち学のご案内。

来週月曜日、9月17日(月)19時より、
松本教会にて「いのち学~現代科学を語る~」が行われます。



いのち学、第4回目です!
生命科学としての「命」について、
そしてその枠を超えたわたしたちの「いのち」について──。
信州大学名誉教授で癌の研究者でもある谷口俊一郎先生を講師として、共に考える時を持ってみませんか?

もちろん今回からの参加でも大丈夫です!お待ちしています。
参加費は500円。 事前申込は不要です。

9月17日の午後7時から日本福音ルーテル松本教会にて行われます。
当日お時間のある方はぜひお越しください。
また、お問い合わせは日本福音ルーテル松本教会まで。


†松本教会はこちらです。†

聖霊降臨後第16主日礼拝。 20180909

昨日9日、聖霊降臨後第16主日の礼拝でした。
長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守ることが出来ました。


異邦人であるシリア・フェニキアの女性とキリストとの関わりの中で、新しい礼拝式文のことにも触れつつ、私たちにも与えられえる救い、その福音を分かち合いました。

前日8日に、長野教会の一人の兄弟が天に召されました。
長年、長野教会の信徒として礼拝にも欠かさず出席をされ、必ず説教台の目の前に座られる熱心な方でありました。
神の家族である兄弟お一人との別れ、その悲しみと寂しさを皆で受け止めつつ、御許においてその魂が平安で満たされるようにと、礼拝の中でも両教会で祈りを合わせました。

通信礼拝で松本教会の方々と共に祈りを合わせました

また、関西の台風による停電、北海道胆振東部地震による被害にも心を痛めています。
北海道の教会やそこにつながる兄弟姉妹に大きな被害もなく、ライフラインも復旧したとの知らせが入り、少し安心しています。
未だ困難の中に居られる人々の為に、またそのために働く牧師と神学生の為に祈りたいと思います。

† † †

この記事をご覧の皆様にも、
神様の守りと祝福がありますように。

2018年9月5日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」


──マルコ福音書7章1-15節


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1.聖書に書いてない”律法”


ファリサイ派の人々や律法学者たちは、聖書に記された律法を守ることはもちろん、「昔の人の言い伝え」をも守っていました。
聖書には汚れた手で食事をしてはならない、とは書いてありませんが、これは「昔の人の言い伝え」のほうに含まれているルールでした。彼らにとってそれは聖書の律法と同じくらい権威のあるものとして扱われており、だからこそ弟子たちを見て律法学者たちは言うのです。なぜ、あなたの弟子たちは昔の言い伝えに従っていないのか、と。

2.解釈することのあやうさ


いつの時代においても、聖書は解釈を通して受け取られていきました。キリストの時代よりも「昔の人」の時代においても、生活の中で起こりうる課題に対して、聖書から解釈をした様々なルールを新たに付け加えていったのです。
そのような働きを担っていたのが、律法学者たちでした。彼らは日常のあらゆることに聖書の律法を適応させるため、聖書の律法はもちろん、聖書から解釈され生み出されたルールを守ることも大事であると考えていました。
しかしキリストは彼らに対して「あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。」と言われるのです。
キリストはこのことを通して、日々の中から聖書を読み、解釈をしていくことのなかにある危うさを、私たちに教えてくれているのではないでしょうか。

3.律法を超えるキリスト


現代においてもまた、聖書の正しい読み方というものがはっきりと決められているわけではありません。時には自分の考えを正当化したり、権威付けをするために、その根拠として聖書のみ言葉を用いてしまう、ということが起こりうるのです。律法学者たちが聖書の律法ではなく人が作り出したルールに「聖書に書いてあることから考えた」という権威付けをして、弟子たちに「何故従わないのか」と言ったように。
キリストもまた、聖書を正しく読む、ということについては触れていません。
ファリサイ派の人々や律法学者たちにはただ、「神の言葉を無にしている」という現実だけを語られただけで、これが正しい聖書の解釈だ、ということは言われませんでした。「古い人の言い伝え」ではなく聖書の律法こそが守るべきものであるのだ、とも明言されていません。それどころか、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく」という言葉によって、旧約聖書を文字通りに受け取る律法学者たち、律法そのものを乗り越えていくのです。

4.神様の御心はどこにあるか


私たちが聖書を解釈するとき、そこには一人ひとりが聞き取っていくメッセージが生まれていきます。同じ箇所であっても、時に慰め癒し、時に叱咤し、時には背中を押してくれる言葉になるかもしれません。聖書は、その時々で私たちに違うものを語り掛けてくるものなのだと思います。
だからこそキリストは、聖書の言葉だけではなく、自ら解釈し生み出したものによって他者を縛ろうとした律法学者たちに対して、それは神様の御心にかなったものであるのかと、イザヤの預言を引きながら問いかけていかれたのです。
「この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。」

5.聖書は神様からのラブレター


私たちが聖書を解釈するとき、私たちはその心を神様から離してはならないのだと思います。なぜなら私たちをどうにかして救いたい、その一心で語られた御言葉が、聖書のどこを開いても溢れているからです。
聖書は、私たちに送られた神様からのラブレターなのです。私たちが神様に心を向けることができるのは、神様が私たちに愛している、心を向けてくださっている、そのことを知るからなのです。
私たちはその神様の愛を通して、すべての御言葉を受け取ってまいりましょう。そこにこそ、私たち一人ひとりに与えられる救いが、語られているのですから。

2018年9月4日火曜日

聖霊降臨後第16主日礼拝のご案内。

次週9月9日(日)10時半より、聖霊降臨後第16主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「救いに順番待ちはありません」

と題して、
長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

──マルコ7章24-30節

2018年9月3日月曜日

聖霊降臨後第15主日礼拝。 20180902

昨日9月2日は聖霊降臨後第15主日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。
松本教会では教会学校から。朝から双子ちゃんが来てくれました。


パンと魚の奇跡を思い起こす12のカゴのクラフトをします

礼拝では新来会者の方も含めて30名以上の方の参加!
用意した聖餐のパンとぶどう酒が足りなくなるかと思いました。感謝!
新しく来てくださった方ともいろいろとお話しできました。また是非お越しください。お待ちしています。


お昼は美味しいかきたまうどん!もちもちのおうどんを皆でいただきました。
机を新しく用意するほど、お昼の交わりにもたくさんの方が残ってくださいました。



昼食後は松本教会宣教60周年記念事業委員会です。
宣教30年の時に記念誌にかかわってくださった信徒の方が委員に加わって下さいました。
校正の資格も持っておられるとのこと、心強いです。
記念誌原稿も徐々に集まってきております。ありがとうございます。
委員の中の話し合いだけでなく、教会の皆で宣教60周年という区切りの年へと向かって歩んでいきたいと思います。


† † †

9月に入り、季節の変わり目です。体調にはお気を付け下さい。
この記事をご覧の皆様に、今週も神様の祝福がありますように。