2018年10月31日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

──ヨハネ福音書2章13-22節

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1.あなたの熱意がわたしを食い尽くす


当時、エルサレム神殿において礼拝をするために遠くからやってきた人々にとって、神殿の境内で牛や羊を売る人々や両替人たちの働きは欠かせませんでした。神様への捧げものである牛や羊を引き連れて遠くからやってくるわけにはいきませんし、購入のためのお金も国のものに両替する必要があったからです。
つまりキリストが鞭をもって追い出した彼らは、何も違法なことをしていたわけではなく、人々の求めに対して答える形でその働きをしていたのです。
彼らはきっと、遠くから来た人々も共に礼拝を与れるようにとその働きを始めたのかもしれません。しかしキリストが言うように、いつしか神様のみ心に反する「商売」へと変わってしまっていたのだと思います。

2.罪が福音を歪める


宗教改革者マルティン・ルターが生きた時代のカトリック教会の様相もまた、そうであったのではないかと思います。
宗教改革の時代におけるカトリックもまた、神への熱意のゆえに、荘厳な礼拝や建物を整えようとし、その資金調達のために、人々の救いであった煉獄での苦しみを解放するものであるとして、免罪符を販売するに至った面もあるのではないかと思います。
そこには、私たちがどんなに信仰深くあろうと、神様に正しくあろうと願っていたとしても、いつのまにか神様の御心から離れてしまう私たちがいることを、キリストも、ルターもよくわかっていたのだと思います。
そしてそれこそが、私たちが持つ罪というものなのです。

3.より良いものを求めて


ルターが福音の回復のために礼拝の中で行ったことは、聖書の母国語への翻訳と、礼拝式文の制定でした。
しかし礼拝式文について、自分の制定したものよりも「より良いもの」が他の人によって作られたのなら、それを排除しないとルターは言っています。それゆえ今なおルーテル教会の礼拝式文も改定が続けられています。
それでは、その「より良いもの」であるという判断はどのようにすればよいのでしょうか?

現在の私たちが使うルーテル教会の式文の冒頭にあるような罪の告白と赦しの宣言は、ルターの式文には含まれていませんでした。
なぜならルターの時代における告解室で告白される罪は、自らの行いによって償われるものとされていたからです。そのように理解されていたからこそ、罪の告白と赦しを、式文から取り除いたのではないかと思います。罪の赦しは神様の恵みによってのみ、与えられるものであるとルターは言うからです。そしてその考えは聖書に裏打ちされたものでした。

福音が神様の恵みであるということと共に、今を生きる一人ひとりにとってそれがどのような意味を持っているのかは、国、地域性、宗教観によって全く違うものになるでしょう。それゆえ、その場所、その時代における「より良いもの」は、常に変わり続けていくのです。
だからこそ私たち自身もまた、聖書のみ言葉が今の私たちに何を問いかけてくるのかを、常に新たに聞き直していく必要があるのではないかと思います。

4.毎日が宗教改革


「毎日が悔い改めである」とルターは言いました。
キリストが今日聖書の言葉を通して語ってくださったように、ルターがあの日、神様のみ言葉から福音とは何かを聞いていったように、私たち一人ひとりも今日という日から、その福音を聴き取っていきたいと思います。
宗教改革500年を超え、50“1”年目を踏み出す私たちは、これから毎年だって、毎日だって、神様へと心を向ける一人ひとりの宗教改革を起こしてまいりましょう。
必ずそこには、いつでも一人ひとりに与えられる神様の愛と、救いとがあることを、確かに語ってくださった人々がいました。そのことをおぼえて、私たちもこの日をお祝いしてまいりたいと思います。

2018年10月30日火曜日

全聖徒主日礼拝のご案内。

次週11月4日(日)10時半より、全聖徒主日の礼拝が行われます。

長野教会では鷲見達也牧師の説教
「わたしは既に世に勝っている」

松本教会では野口和音牧師の説教
「共にキリストを着る」

と題して、両教会聖餐礼拝として守られます。
天に召された教会員の方々をおぼえる礼拝となります。
また、昼食後、松本教会では定例役員会が開かれます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

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「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 ──ヨハネ福音書16章25-33節

2018年10月29日月曜日

宗教改革主日礼拝 20181028

昨日28日は宗教改革主日の礼拝でした。
長野教会では野口和音牧師の説教と聖餐礼拝によって守られました。
宗教改革とルターをおぼえての礼拝となりました。




今日のお昼は盛りだくさんでした。
ルターの宗教改革を思い起こしながら、ハロウィンと次週の全聖徒主日とのつながりなどを話しながらの交わりの時となりました。
昼食後は女性会の報告と共に、ルターが作曲した讃美歌を歌い、ヴィオラの伴奏で讃美の時を持ちました。

もりだくさん


おかしもいただきました

松本教会では巡回説教者として田中良浩牧師にご奉仕していただきました。



宗教改革をおぼえる特別な礼拝となったと思います。
二年ぶりに奥様とご一緒に来てくださり、感謝します。
朝食にはあんかけ丼やかきたま汁、今が旬の柿など様々なおかずがテーブルを彩りました。



交わりに感謝いたします。またお越しください。

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この記事をご覧の皆さまにも、
神様の恵みと祝福がありますように。

2018年10月26日金曜日

聖書人形展~クリスマス物語~の御案内

11月2日(金)~3日(土)に、「聖書人形展~クリスマス物語~」が開催されます。


カトリック松本教会の信徒館にて展示が行われます。
11月2日~3日の両日10時~16時、入場無料でご覧いただけます。
牧師も2日の午後には受付におります。お気軽にお越しください。


 本当のクリスマスを、見に来ませんか。
お待ちしております。


2018年10月23日火曜日

宗教改革主日礼拝の御案内

次週10月28日(日)10時半より、宗教改革主日の礼拝が行われます。

長野教会では野口和音牧師の説教
「毎日が宗教改革」

松本教会では田中良浩牧師の説教
「祈りの家としての教会は、今」

と題して、両教会聖餐礼拝として守られます。
また、昼食後、長野教会では女性会が開かれます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

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ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

──ヨハネ福音書2章13-22節

2018年10月22日月曜日

聖霊降臨後第22主日礼拝。20181021

昨日21日の日曜日は、聖霊降臨後第22主日礼拝でした。
今週の主日は野口和音牧師は夏休みをいただきました。
長野教会では信徒の祈りとして守られ、松本教会では巡回説教者として田中博二牧師に来ていただきました。


田中博二牧師

礼拝後には皆でお昼を分かち合い、その後女性会の聖書研究会もしていただきました。

柿も旬ですね



女性会

いつもの集会室ではなく、礼拝堂の手前側にて交わりが持たれました。
主日が無事に守られましたこと、感謝いたします。

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この記事をご覧の皆さまにも、
神様の恵みと導きとがありますように。

昼カフェ・手仕事会10月 20181019

先週金曜日19日に、松本教会では昼カフェ・手仕事会が行われました。
集まった皆さんでまずはおいしいランチを分かち合います。

ナポリタン

お昼をいただいたあとは、クレイマカロンのマグネットづくりです!
教会員の真野好子さんからの手ほどきを受けつつ、それぞれにデコレーションしていきます。



完成したマカロンマグネットは一つも同じものはありません。それぞれの方のセンスが光っています。どれも可愛く仕上がりました。



昼カフェ・手仕事会は原則月1で第三週の金曜日に行われています。
皆様どうぞ次の機会にもお越しください。

2018年10月18日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。


──マルコ福音書10章13-16節

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1.憤るキリスト


ペトロがイエス様に「あなたはメシアです(マルコ8:29)」と告白したとき、弟子たちはイエス様のことを、旧約聖書におけるダビデのような、この世の王として権威を持った王様としてのメシアだと考えていました。それゆえ弟子たちは、子どもたちと共にイエス様に近づいてきた人々を阻み、叱っています。まるで王様への謁見を許可しない官僚たちのようなふるまいです。
これに対してキリストは「憤って」います。それはキリストを求めてやってきた人々を、人の手によって妨げているからです。

2.弟子たちの挫折


「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」とキリストは語られました。神の国とはどのようなものかと語られたことはあっても、神の国に入るのはどのような人であるのかということを語られたのは、初めてのことでありました。この言葉を聞いた弟子たちはきっと、イエス様が理解できない、その言葉に従っていけない、という大きな挫折感を味わったのではないでしょうか。

3.理性の限界を超えるもの


聖書の御言葉は、単なる道徳ではありません。それゆえ全く道理に反するように聞こえてしまうものもたくさんあります。十字架という極刑の道具であった十字架こそ神様の救いが示されている、というものはその極みと言えます。
私たちが頭で全てを理解をすることには限界があります。しかし「神学は哲学のはしためである」という言葉にも表されているように、理性の限界である哲学を乗り越えるものこそ、信仰であるのです。
弟子たちは懸命にキリストに従い、キリストを理解しようとしてきました。けれども頭で理解するだけではついていけなくなってしまった。神様の言葉に出会う私たち一人ひとりもまた、そのようなことがあるのではないでしょうか。

4.御言葉を受け止める


十字架のキリストが、私たち一人ひとりを心から愛し、この世にある命だけではなく、死の先においてもまた、復活と永遠の命という救いを与えてくださっている。聖書はそのように語ります。
私たちにとってそれは、夢物語にしか思えない、きれいごとのように聞こえるかもしれません。けれどもキリストはその救いを確かに与えてくださるのだと、私たち一人ひとりがそのままそれを受け止めていく、“信じる”時、それは私たちに与えられる現実となるのです。

5.神の国の入国審査官


弟子たちは、キリストの救いは現世的な権威と結びついていると考えていました。それゆえに、弟子として従っていくことこそ、その救いを与えられる条件であるのだと弟子たちは考えていました。だからこそ弟子でもない人々が子どもたちをキリストのところに連れてきたとき、それを阻んだのです。
しかしキリストはそのような弟子たちの考えを打ち壊していかれました。
私たちが神の国に入る為に、弟子たちがそうしたように、教会の信徒のお墨付きもいりません。神の国の入国審査官は、イエス様たったお一人であります。
そしてキリストは私たちに、たった一つだけ、質問されるのです。
わたしの言葉を信じるか、と。
その質問に、私たちはただ一言、子どものように答えてまいりましょう。
はい、信じます、と。それだけでいいのです。
この御言葉を通して、私たちも、神様、あなたを信じますと告白してまいりましょう。わたしたちの罪を十字架に捧げていくとともに、その罪を愛と救いへと変えてくださる神様を信じて、神の国へと向かう一歩を踏み出してまいりたいと思います。

~ お知らせ ~

来週の「今週のみことば」は、牧師休暇のためお休みになります。
21日(日)は、礼拝にぜひお越しください。

2018年10月16日火曜日

聖霊降臨後第22主日礼拝のご案内。

次週10月21日(日)10時半より、聖霊降臨後第22主日の礼拝が行われます。

松本教会では田中博二牧師の説教
「主のまなざしの中で」

と題して、松本教会では聖餐礼拝として守られます。
長野教会では信徒礼拝、祈りとして守られます。
また、昼食後、松本教会では女性会が開かれます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

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イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

──マルコ福音書10章17-31節

2018年10月14日日曜日

聖霊降臨後第21主日礼拝。 20181014

本日14日は聖霊降臨後第21主日の礼拝でした。
長野教会では主日礼拝、松本教会では通信礼拝として守られました。


真ん中のWebカメラは通信礼拝用

小さな群れではありますが、一人ひとりが信仰によって立たされていることを覚えつつ、通信礼拝によって松本教会の方々と共に祈りを合わせました。

コロッケに高野豆腐など

お昼は信徒の方の持ち寄りを美味しくいただきました。
手作りコロッケを初めとして、いろんなおかずをお腹いっぱいいただきました。食欲の秋です。感謝!

松本教会・通信礼拝

松本教会では通信礼拝として守られました。
今回は音声が今までのようにクリアに送信されず、信徒の方には説教原稿をお渡ししての礼拝説教となりました。
離れていても共に礼拝の恵みに与ることのできる、そのためにこれからも出来る限りの改善をしていきたいと思います。


礼拝後には『キリスト者の自由』を読む会が開かれました。
ついに最終章、座談会の箇所を読まれているとのこと。読了まであと少しです。

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この記事をご覧の皆様にも、
神様の守りと祝福が豊かにありますように。

2018年10月13日土曜日

10月の昼カフェ・手仕事会のご案内

10月の昼カフェ、手仕事会は、
「クレイマカロンで作るマグネット」です!


まるで本物のようなクレイマカロンに、リボンや蝶などのかわいい飾りを付けたマグネットを、皆さんで作りましょう!

来週19日(金)12時に、日本福音ルーテル松本教会(宮渕1-4-9)にて行われます。
おいしいランチもあります。

参加費は500円です。お申込みは17日(水)まで!

お問い合わせは教会・野口までどうぞ。
たくさんのご参加、お待ちしています。


2018年10月10日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

 ──マルコ福音書9章38-50節 

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1.弟子たちの嫉妬


弟子たちはキリストによって選ばれ、キリストによって悪霊を追い出す力を与えられました。しかしこの箇所の少し前に、弟子たちは悪霊を追い出すことができなかった場面が記されています。それにもかかわらず、弟子として選ばれてもおらず、イエス・キリストに従ってもいない人々が、その名を使って悪霊を追い出しているのを弟子たちは見つけたのでしょう。自分たちこそ、イエス様の弟子であるのに。弟子たちの心には苦々しい思いと共に、妬む心が生まれていったことを、ヨハネの言葉からは聞き取ることが出来るのではないでしょうか。

2.逆らわない者は味方


弟子たちはいつしか神様から与えられた力を自分のものとして振るい、イエスの弟子であると言う地位によって他の者よりも優位にふるまおうとしていたのです。それは直前にある先週のみ言葉「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。(マルコ9:37)」がまったく弟子たちに理解されていなかったということでもありました。それゆえキリストは弟子たちに厳しく諭されるのです。

3.躓かせてはならない


悪霊を追い出す力、つまりこの世の力を持っているかどうかの優位性にばかり目を向け、嫉妬に駆られている弟子たちに対して、他の者の信仰を躓かせないようにと言われます。そればかりでなく、弟子たち自身をもその思いによって、自らの信仰を躓かせてはならないのだと言われるのです。
私たちは神様が造られたこの世界を、目で見て、手で触れ、そして足で歩んでいきます。そしてそこには同じように神様に作られた他者との関わりもあります。その中において、弟子ではないにせよ悪霊を追い出している人々は、少なくとも神様の御業のために用いられている人々であります。たとえイエスの弟子であろうとも、嫉妬や優越感によって彼らを躓かせることはしてはならないのだと諭しておられるのです。

4.罪を見つめる


ルター神学を語る時、そこには赦しや恵みの強調があります。しかしそのことを語る時、その前提である罪についてもまた、はっきりと語られなければなりません。ここでキリストは弟子たちに対して、非常に厳しい言葉で自分自身の罪をしっかりと見つめ、それを自ら切り落とすようにと促しておられます。この御言葉を聞く私たちも、愛や赦しだけではなく、自らの罪に目を向けさせるキリストの言葉を受け取っていきたいのです。
どんなに長く教会に通っていたって、聖書に触れていたって、私たちが御言葉を通してキリストに向き合う時、そこには誰かを愛することや受け入れることのできない自分が見つかるのではないでしょうか。
時には嫉妬に駆られ、他者に対して優越感を振りかざすこともあるかもしれません。誰かと関わりあう中で、傷つけあったり、受け入れることのできない人に出会うこともあるかもしれません。そのような自分がいることを受け止めることは、とてもつらいことです。
しかしだからこそ、そのような自分の姿を、キリストの十字架に向けてお捧げしていく、それこそがキリストが歩まれていった十字架の意味ではないかと思います。

5.十字架の道へ歩みだす


キリストはすべての人の罪を背負って、十字架にかかっていかれました。それによって私たちの全ての罪を赦してくださった。その十字架に、私たちもまた、自らの罪を、キリストに従っていけない私たち自身を、捧げていきたいのです。
私たちが深い罪の中に沈むとき、その罪のために死んで、復活してくださったキリストが語り掛けてくださいます。「片手になっても」「片足になっても」「ひとつの目になっても」「神の国に入るほうがよい」のだと。
そうしてキリストに罪を赦されたことを知って初めて、私たちもまた、誰かを愛することが出来ない、受け入れることのできない私たちから、キリストの愛、キリストの平和に満たされた歩みを始めることが出来るのです。
「互いに平和に過ごしなさい」、この御言葉と共に、どのような私たちをも受け止めてくださる神様がいることを覚え、祈りを捧げてまいりたいと思います。

2018年10月9日火曜日

聖霊降臨後第21主日礼拝の御案内

次週10月14日(日)10時半より、聖霊降臨後第21主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教
「神の国入国審査官は誰だ」

と題して、
長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られます。
礼拝後、長野教会では定例役員会が、松本教会ではキリスト者の自由を読む会が開かれます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。
イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。
夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

──マルコ10章1-16節

聖霊降臨後第20主日礼拝。 20181007

10月一週目、7日は聖霊降臨後第20主日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。

朝は教会学校から。二人の姉弟がきてくれました。
「心の中に塩を持ちなさい」という御言葉を聞いた子どもたちがクラフトをしているところです。
今回も作品は牧師にプレゼントされました。牧師館の玄関ギャラリーがまた豊かになりました。

月の第一日曜日の松本教会は遠くから来てくださる方もあり、多くの方と共に、御言葉と聖餐の恵みを分かち合えることは喜びです。
広島・関西豪雨被害と、北海道胆振東部地震に加え、インドネシアの地震を覚えて祈りをあわせ、復興献金を集めました。
一日でも早い復興と、心の安息があたえられますように。



お昼はお肉とお野菜がたっぷりの中華丼でした。
また、12月に転入される信徒の方のスピーチなどもいただき、歓迎の拍手に包まれました。



昼食後は月1回の松本教会60周年記念事業委員会です。
記念誌の原稿が少しずつ集まる中、印刷や年表についての話しあいが進められました。
以前発行した記念誌から30年。原稿執筆にお悩みになっておられるという声も聴き、締め切りは過ぎましたが追加で原稿募集を続けることになりました。
いただいた原稿を読ませていただくたび、信徒の方の信仰の歴史を垣間見る思いで力づけられています。


† † †

この記事をご覧の皆さまにも、
今週も神様の祝福と守りがありますように。

2018年10月4日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

──マルコ福音書9章30-37節

† † †

三年ほど前に直木賞を受賞した小説に、朝井リョウの『何者』という作品があります。
就職活動にいそしむ大学生たちを描いた作品です。登場人物たちは皆「自分はもっとできるはず」「自分は特別な人間のはずだ」ともがきながら就職活動をするものの、何者にもなれない凡人の自分しか見つからない、そのような現実を描き出した小説でした。
思い返せばわたしたちの誰もが、心のどこかで、誰でもない何者かになりたい、という願いを持っているのではないでしょうか。

弟子たちもまた、イエス様を理解できない恐れの中で、それでもイエス様の弟子であるというプライドを保つために、弟子としてのふさわしさ、偉さを競い合っています。
だからこそキリストは、子どもを弟子たちの真ん中に立たせ、このように偉いわけではない、能力のない子どもを受け入れることこそ、キリストを、神様を受け入れる者なのだと語っていかれたのです。

ここで立たされた子どもは、弟子たち自身であります。そして何者かになりたいともがく、私たち自身でもあるのだと思います。
神の前においては誰が偉いか、ということは何の意味も持たないのだということ、弟子たち自身が、私たち自身が弱い自分を受け入れることこそ、十字架の救いを受け入れることなのだということを、キリストはここで伝えたかったのです。

キリストの言葉は、このときの弟子たちには届きませんでした。けれどもその先において、十字架を前にして、弟子たちが頑なに守ってきたプライドを打ち壊されていきました。その弱さの中で、キリストは再び弟子たちの手を取り、もう一度、一緒に行こうと言ってくださった。それが、十字架の先にある復活の出来事であったのだと思います。復活のキリストに出会って初めて、弟子たちは弱い自分、ありのままの自分を受け止めることが出来たのです。

私たちはいったい何者でしょうか。
他の人と比べて何かができると自負しているでしょうか。
キリストは十字架を通して、そんな私たちに語ってくださっています。
あなたが何者でもなくたっていいんだと。
いつでも立派でなくたっていい、弱くたっていいんだと。
そんなありのままのあなたでいてほしいから、わたしは十字架の道を歩んだのだとキリストは語ってくださっているのではないでしょうか。

『キリスト者の自由』のなかで、キリスト者の救いとは、キリストが自分の中に生きておられることによって与えられる自由であるのだと、ルターは語っています。
それは弱さを持つ私たちがありのまま、神様に受け止められることによって与えられる自由であります。その上でルターはこのように言うのです。
「わたしもまた隣人のためのキリストとなろう」と。
これこそが、先んじてキリストが語ってくださっていた、「すべての人に仕える者になりなさい」ということばの意味であるのだと思います。

十字架という弱さと不自由さの極みの中に、キリストは力と自由を示されました。救いと導きとを示されました。
いつだってキリストは私たちの常識を根底から覆してくださる方であります。その逆転のキリストこそ、私たちの救い主、メシアなのです。
そのキリストが歩まれた十字架の道を、私たちもまた、私たち一人ひとりの中に生きるキリストと共に、一歩ずつ踏み出していきたいと思います。

2018年10月2日火曜日

聖霊降臨後第20主日礼拝のご案内 20181007

次週10月7日(日)10時半より、聖霊降臨後第20主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教
「平和に過ごすために」

と題して、
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

 ──マルコ福音書9章38-50節

聖霊降臨後第19主日礼拝とルターナイツ in まつもと 20180930

先日30日、9月最後の主日として、聖霊降臨後第19主日礼拝が守られました。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では主日礼拝として守られました。


美味しいきのこカレー

松本教会では昼食ののち、谷口真美姉と丸山都姉からの世界一周旅行報告会をしていただきました。
バックパッカーとしてのイロハから、世界中の美しい景色とそこでの出会い、温かい人と人とのつながりについてレポートしていただきました。


世界一周旅行報告会

18時半からはルターナイツ in まつもとが開かれました。
今回のゲストはお昼に引き続き、世界一周旅行報告会のお二人と、自転車アメリカ横断旅行記とコカリナ演奏を披露してくださった竹内雅道さんでした。

世界一周旅行報告会&アカペラ

讃美歌物語―アメイジング・グレイス

自転車アメリカ横断旅行記&コカリナ演奏

世界一周旅行報告会とともに、谷口真美姉の力強い歌声でアカペラを披露していただきました。
牧師の讃美歌物語は、今回はアメイジング・グレイスでした。作詞者のジョン・ニュートンの生涯を振り返りながらアメイジング・グレイスの歌詞についてのお話をしました。
竹下雅道さんからはアメリカ横断の広大な景色のスライドと共に、コカリナの澄んだ音が響き渡っていました。

台風が近づく夜だったにも関わらず、驚くほどたくさんの方々が来てくださいました。
感謝です。今回も無事守られたこと、そして導いてくださった神様に感謝をしつつ、交わりの時を持ちました。


† † †

この記事をご覧の方々にも、
神様の祝福と守りとがありますように。