2018年11月29日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」


──マルコ福音書13章24-31節

† † †

1.神の国が来るとき


「それらの日」と呼ばれている日について、キリストは弟子たちに語っています。国と国、人と人との争い、地震と飢饉、弟子たちの苦難が起こったのち、再びキリストがやってこられるのであると。
「時代」という言葉が原典で使われている箇所を見ると、「しるしを求め(マルコ8:12)」、「神に背いた罪深い(8:38)」「信仰のない(9:19)」時代のことを指しています。それらの日とは、その時代が天地と共に滅びた時、キリストの言葉のみが残る時代であるのです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(1:15)」そのようなキリストの言葉からマルコ福音書は始まっています。すなわちキリストの言葉、その福音のみが残るときとは、福音が全ての人に行き渡るときであり、近づいた神の国がついに成就するときであるのです。

2.いつくるかわからない神の国


神の国が具体的にどのようなものであるかは謎めいています。マルコ福音書においては一貫してそこには「神様のみ言葉に聞く人」がたとえなどによって表現されているように見えます。しかしその反面で、わたしたち人間が御言葉に従って生きることが難しいという姿も多く描かれています。
それゆえ弟子たちは「そのことはいつ起こるのですか(13:4)」とキリストに尋ねています。神様の国がやってくる、そこでは全ての人が御言葉の通りに生きることが出来る、そのような時を待ち望むのは当然のことであったでしょう。
しかしキリストは最後まで、いつくるのかを語ることはありませんでした。天の神様のみがご存知であるのだと言うのです。

3.知らされない幸い


私たちにとってもまた、神の国がいつ来るのかを知りたいと願うことかもしれません。誰かを愛することが出来なかったり、進むべき道が見えずに迷うときや、堪えがたい苦難の中にあるときに、私たちはそれが取り去られる神の国を神様に祈り求めるのではないでしょうか。
神の国は明日にでも来るのだという切迫感を持っている人々もいます。逆にもっとずっと先なのだと思う人もいるかもしれません。
毎日、「明日神の国はくる」と思って生活するとき、そればかりに縛られてしまって、明日以降の生活には手がつかず、私たち自身はすり減っていってしまうことでしょう。逆にもっと先なのだと思うとき、私たちはとことん怠惰になってしまって、御言葉に従い、人を愛することすら億劫になってしまうかもしれません。それが罪の力であるからです。
しかしその二つの間にあって、明日にでもくるかもしれないという思いは私たちを今、神様の御言葉を振り返らせる力になるかもしれません。そしてそれでも神様に正しく生きることの出来ない自分がいるときにも、御言葉に再び聞いていく中で、神様と共に明日を生きる力に満たされることもあるのだと思います。
そうして終末というゴールが確かに私たちの歩みの先にあることを見据えながら、時に神様から離れてしまうこともあり、反省して悔い改めることもあり、また喜びに満たされることもあるかもしれません。
そのように一日一日を「神様のみ言葉が私と共にあった」とおぼえて歩んでいくことが、私たちキリスト者の在り方であるのだと思います。


4.あなたの名前が呼ばれるまで


神の国がやってくる「そのとき」、キリストは「地の果てから天の果てまで、彼によってえらばれた人たちを四方から呼び集める」と聖書は語ります。私たちがそのとき、地上の生を歩んでいようとも、天に召されていようとも、キリストは滅ぶことのない御言葉をもって、一人ひとりの名を呼びかけてくださいます。
神の国がまさにやってくる、神様との関係が全き完成を見るその日まで、私たちはこの歩みを地道に、しかし誠実に、御言葉と共に歩み続けてまいりたいと思います。

2018年11月27日火曜日

待降節第1主日礼拝のご案内

来週12月2日(日)10時半より、待降節第1主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「先立つ主」

と題して、長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られます。
また、松本教会には新しいご家族の転入式も予定しています。
昼食後、松本教会では60周年記念事業委員会、定例役員会が行われます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」
すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

 ──ルカによる福音書19章28-40節

2018年11月26日月曜日

聖霊降臨後最終主日礼拝・ルターナイツinまつもと 20181125

昨日25日は聖霊降臨後最終主日の礼拝でした。
長野教会では聖餐礼拝として守られました。



教会暦の終わりに、終末と神様の御国についての御言葉を分かち合いました。
来週からは待降節。クリスマスの季節がはじまります。
食事の交わりののち、教会でもその準備が始まりました。



松本教会では通信礼拝として守られました。
こちらは主日礼拝として守られたため、奉献の部のあとは信徒の司式によって礼拝が進められました。


松本教会では教会員の方が教会暦に合わせて礼拝堂内の掲示を変えてくださっています。
デューラーの受胎告知など、ルターの時代の宗教画などが飾られ、解説をしていただきました。


夜からはルターナイツinまつもとが行われました。
今回のゲストはウクレレシンガーのお二人・Juneさんと伊藤寛人さんをお招きしました。
ウクレレはハワイアンなイメージしかなかったのですが、静かな曲弾き語りから激しいインスト、カヴァーアレンジ曲など、多彩な演奏をしていただきました。
12月のルターナイツはお休みなので、来週から待降節ということもあわせて、一足早く「きよしこの夜」のお話をしました。

きよしこのよる

最後はお二人で
スタンド・バイ・ミーを
演奏していただきました

その後食事の交わりの時も持ちつつ、楽しいひと時となりました。

2018年11月24日土曜日

プロジェクト3・11小出裕章氏講演会・松本こども留学訪問

23日18時からは、日本福音ルーテル教会東教区主催の3・11プロジェクト集会が開かれました。
今回は長らく反原発の活動をしておられる小出裕章氏をお呼びし、「フクシマが映す日本」というテーマでお話をいただきました。


最近ではメディアでほとんど取り上げられなくなったフクシマの姿。東電は今フクシマの原子力発電所の処理をどのように行おうとしているのか。
原子力発電の構造やその危険性など、大変わかりやすくまとめられ、またしっかりとした資料と論拠を提示しながらお話をいただき、原発についての学びを得ることが出来ました。
予想以上に多くの方々がこの講演の為に足を運んで下さり、フクシマのこと、原子力に対する危険性などを思い起こし、再確認する時間となったと思います。

翌日24日にはそのつながりの中で、松本こども留学という働きを見学しに、四賀村まで行ってまいりました。
保養のために福島から来られた方々の為の働きのなかで、そこから巣立っていった子どもたちをおぼえ、また新しく来られた人を交えつつ、お話を聞かせていただきました。

3・11はまだ、終わっていない。
そのことを胸に刻みつつ、これから先の日本の為に何が出来るのかを考え続けていくことの大切さに気付かされる、そのような二日間となりました。


甲信地区一日神学校 20181123

昨日23日は、松本教会を会場として甲信地区一日神学校が開かれました。
松本教会の野口和音牧師による開会礼拝から始まりました。


プログラムの中では、神学校校長である石居基夫先生をお招きし、「私たちの死と看取り~日本のキリスト者として~」というテーマで講演をいただきました。
死生学の視点から、日本の伝統的な死生観と死のありかたの変遷、そして私たちは、またキリスト教においては、どのように死を受け止めていくのかというお話をいただきました。
教会のなかでも興味深いテーマとして希望の強かったテーマでもあり、一人ひとりが貴重な学びをする機会となりました。


お食事の交わりの中では、神学校校長である石居先生、推進委員として石原京子さん、東教区財務部長として中島康文先生、甲信地区教会世話人代表として神戸敏光さんより一言ずつ御挨拶をいただきました。




交わりののち、飯田教会の幼稚園の先生方によるハンドベルサークル「リーベクワイア」の方々による演奏会も行われました。
美しい音色とともに、讃美歌をはじめとしていろいろな曲を演奏していただきました。


最後に、飯田教会の渡辺賢次牧師の閉会の祈りによって閉じられました。
開会礼拝における席上献金は、ルーテル学院大学、日本ルーテル神学校のために捧げられました。




† † †

甲信地区にある教会と幼稚園の働きに祝福を祈るとともに、
全ての人に神様の導きと守りがありますように。

2018年11月22日木曜日

いのち学。第5回

今週月曜日19日、松本教会にて、いのち学・第5回目が行われました。


前回までにお話のあったことのダイジェストから、今回は染色体とDNAの話も。
アウストラロピテクスなどの何種類かの類人猿が現在の世界の人種にそれぞれなっているとこれまで考えられてきたのが、実はそのうちの一種類だけが現在の人間の祖先だ、という話はノアの話を思い起こすものでした。

また、ミジンコは基本的にはメスだけで繁殖しているが、環境が悪くなるとオスが生まれ、生まれたオスと交尾をしてできた卵は、劣悪な環境下でも守られるほど頑丈な殻を持って産み落とされるようになるという話は興味深いものでした。
旧約聖書の中でも、初め人はひとりで造られた中で、「助けるもの」としてもう一人が造られたことで、アダムとイブになっていったということを思い出され、それは性別というよりも助ける者としての「もう一人」であるということを分かち合えるときを持つことが出来ました。

さて、次回はついに最終回。
12月17日の予定です。ぜひお越しください。

2018年11月21日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」


──マルコ福音書12章41-44節

† † †

1.自分のすべてを捧げる


今日の聖書の箇所についての絵画を調べてみると、当時の賽銭箱は硬貨を入れるところがラッパの口のような形になっています。そこに硬貨を投げ入れると、ラッパの口の内側で音を立てて賽銭箱に入る、という仕組みであったようです。
金持ちたちがたくさん硬貨を入れている時は、きっとけたたましい音が鳴り響いていたことだろうと思います。それゆえ本来神様に捧げるためにある賽銭箱は、金持ちたちにとって人々の称賛を得るためのものとして使われていたのです。
それに対して、レプトン銅貨2枚、現在のお金で換算すれば数百円程度しか捧げられなかったやもめの姿は、人々には対照的に映っていたことでしょう。
しかしキリストだけは、このやもめが捧げた献金が、心から神様に捧げるものとしてされたことを見抜いておられました。なぜならやもめにとってそのレプトン銅貨2枚、1クァドランスは、生活費のすべてであったからです。
「生活費」と訳されている言葉は、「生活・生涯」とも訳せる言葉です。つまり彼女が賽銭箱に捧げたのは彼女自身のすべてでありました。
キリストはそのような彼女のうちに、自分自身の全てを神様に委ねていく、その信仰を見ておられたのです。

2.値なしに与えられる福音


マルティン・ルターが宗教改革を起こした時代もまた、この金持ちたちのように信仰の腐敗が起こっていたと言ってよい時でありました。
当時のカトリック教会において売り出されていた免罪符は、買えば買うほど煉獄での償いの期間が減るというものでした。まさに救いがお金によって売買される、そのような状態にあったのです。
ルターはそのような時代のなかで、免罪符を批判するとともに、礼拝においても改革を進めていきました。
その一つに、献金箱を礼拝堂の外に置いたということがあげられます。それは、救いは私たちに値なしに与えられる恵みであるということを表すためでした。

3.御言葉に従っていくこと


礼拝式文の中で献金が含まれている箇所は「奉献」と呼ばれています。
もしルターがしたように、奉献において私たちの目の前に献金箱がなかったとしたら。私たちが私たち自身を捧げることはどのようなことを意味するでしょうか。
ルターが礼拝改革の中心においたのは「みことばの回復」でした。それは説教によって人々にキリストの福音が明確に示されることでありました。それゆえ御言葉を聞いた私たちが、私たち自身を神様に捧げていくということは、神様から与えられた御言葉に私たちが従っていく、ということであるのだと思います。

4.恵みのまなざし


キリストは人々をずっと見ておられました。それは、私たちの奉献もまた、見ておられるということです。
私たちが礼拝を終え、教会を後にした日々の中においても、いつでも御言葉が私たちと共にあります。片時も離れず、キリストは私たちを見ておられるのです。それは、私たちが御言葉に従わなかったときに裁くためではありません。
私たちが神様に捧げる信仰がどんなに小さなものであっても、「だれよりもたくさん入れた」とやもめに言ってくださったように、私たちの信仰から出る行いのすべてを受け止め、神様の前で大きなものとしてくださる、ということなのです。
御言葉を通して与えられ、整えられる信仰によって、わたしたちのすべて、精一杯のものを、神様にお捧げしてまいりたいと思います。

2018年11月20日火曜日

聖霊降臨後最終主日礼拝のご案内。

来週11月25日(日)10時半より、聖霊降臨後最終主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「あなたの名前が呼ばれるまで」

と題して、
長野教会では聖餐礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られます。
昼食後、長野教会では婦人会が行われます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」


──マルコ福音書13章24-31節

2018年11月18日日曜日

聖霊降臨後第26主日礼拝・小児祝福式礼拝 20181118

本日18日は、聖霊降臨後第26主日の礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。
また、今日松本教会では小児祝福式礼拝としても守られました。
教会学校の時間までなら、と朝からきてくれた子どもたちとのCS礼拝から始まりました。


また、10時半からの礼拝では教会員のお孫さんが二人、来てくれました。
祝福の祈りとともに、特製のキャンディーネックレスをプレゼントしました。


お昼は季節の素材が並びます。少しずついろんなおかずを取りながら、いろんな味を楽しみました。


柿の季節ということで、柿は堅いのとトロトロのどちらが好きかという話で盛り上がったりしていました。
どちらも好きですが、剥いた渋柿に焼酎を塗って置いておくと(ヘタを取ってそっち側を浸しておくという説も)とすごく甘くなるという豆知識、いつか使いたいです。

昼食後は女性会が開かれ、皆で「恵み」について考えました。


† † †

この記事をご覧の皆様と、
教会に連なる子どもたち一人ひとりに、
神様の祝福と守りとが豊かにありますように。

ルターナイツ in まつもとのご案内。

11月25日(日)の18時30分から、
松本教会にてルターナイツ in まつもとが行われます!


今回のプログラムは……
・ウクレレシンガー: JUNE 氏、伊藤寛人氏のお二人!
今回も野口和音牧師のヴァイオリンと、”讃美歌のウラ話”もあるカモ?

参加費は軽食込みで500円、事前申し込みは不要です。
日曜日の夜を、ちょっとトクベツな時間にしませんか?

皆様どうぞご参加ください。お待ちしています。

†会場の松本教会はこちらです†

2018年11月17日土曜日

小出裕章氏講演会「フクシマが映す日本」の御案内。

11月23日(金)18時より、小出裕章氏による講演会が行われます。
講演題は「フクシマが映す日本」です。


日本福音ルーテル教会東教区3・11プロジェクト主催のプログラムとなります。
元京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏から、原子力の仕組みとその危険性について教えていただきます。
資料代500円、予約不要でどなたでもご参加できます。
講演の後は質疑応答の時間もあります。どうぞお越しください。

†会場の松本教会はこちらです†

2018年11月16日金曜日

昼カフェ・手仕事会11月。

本日15日、松本教会では昼カフェ・手仕事会が行われました。
お集まりの皆さんでランチをするところから始まります。
今日のランチは野菜たっぷり。
特に甘いお芋やお豆、塩昆布とごま油の香るレンコンの炒め物など、美味しく健康的なランチをお腹いっぱいいただきました。


今回の手仕事会は、「正方形の布で作るファッション帽子」でした!
75センチ四方の布から、そこまで複雑な縫い方もせずにしっかりとした帽子が出来るのは不思議です。
これからの季節のためにフリース生地で作られていた人も!


牧師も猫柄の帽子をつくりました。
生地は近くの手芸店にて見つけたものを使っています。


皆様それぞれに個性の光る生地を使った帽子を作り上げることが出来ました。



次回の昼カフェ・手仕事会は、2月の予定です。
今回は初めての方も来てくださり、うれしいときとなりました。
また次回からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

2018年11月15日木曜日

今週の御言葉~主日説教要旨~

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。


──マルコ福音書12章28-34節

† † †

1.旧約聖書から愛を語る


イエス様が律法学者たちとこうして議論していた時、聖書と呼ばれるものは旧約聖書にあたるものしかありませんでした。イエス様は全く新しいものを言い広めていったわけではなく、律法学者たちと同じ旧約聖書から、答えていかれたのでした。
キリストは旧約聖書の律法を無にしたわけではありませんでした。旧約聖書における神様の言葉の中に、すでに神様の愛は十分に語られていることを人々に語ると共に、その愛に生きていった唯一の人であったのです。

2.ふたつでひとつ


律法学者から尋ねられたキリストは一番重要な掟として、第一に「神様を愛しなさい」ということと、第二に「隣人を自分のように愛しなさい」ということを旧約聖書から言われています。この第一第二、という言葉は優先度を示しているのではありません。律法学者がキリストの言葉に応えているように、この二つの掟は二つで一つであるのです。
この第一の掟はとくに、律法学者たちにとっては毎日繰り返し唱えられてきたものでありました。
キリストはこの掟につなげて、「隣人を自分のように愛しなさい」ということへと繋げていかれました。律法学者たちはこの教えにもその通りですと答えていますが、それはあくまで一番大事な掟であることへの肯定でした。
キリストと彼らとの一番の違いは、その愛に実際に生きたかどうか、ということであるのだと思います。

3.愛することは向き合うこと


キリストが全生涯を通して歩みとおされたその愛とは、「向き合うこと」であるのだと思います。
事実、律法学者たちや多くの人々から罪人として遠ざけられた人々──徴税人や病のなかにある人々──にこそ、キリストは向き合い、かかわっていかれました。それは、神様がそうであったからです。
旧約聖書のなかに記されている人々の姿は神様に正しく清い人々ばかりではありません。責任転嫁や嘘をつき、人を傷つけ、そして快楽を求めて別の神様を信じたりする人々の姿がたくさん記されています。
しかしそれでも神様は第一の掟をイスラエルの人々に語るときのように、何度も呼びかけていったのです。「聞け、イスラエルよ」と。神の民である人々が幾度となく罪深いことをしてしまっても、それでも見捨てることなくなんとかして人々を救いに導こうと呼びかけておられる神様のその姿から、人々の罪に向き合っていくという神様の愛が見えてくるのではないでしょうか。

4.信じる心が愛を生む


だからこそキリストは、神様がそうされたように、その愛に生きていかれました。
私たちもまた、時に誰かとうまく付き合っていけなかったりすることがあるかもしれません。そのようなときにこそ、この掟を思い返していきたいのです。隣人を自分のように愛するために、まずは神様を愛することから始めたいのです。
愛することは、向き合うことです。
私たちが神様に向き合う時、それは神様がお造りになった私たち自身にも向き合うことになるでしょう。誰かを愛することの出来ないと悩むあなたは、神様と隣人を愛することの出来なかった聖書の人々と同じなのです。
だからこそ神様はあなたを愛するのだと、聖書を通して何度でも呼びかけてくださっています。そのような神様を信じること、愛することは、キリストの十字架を通して、そのような神様の愛があなたの隣人にも注がれていることを受け止めることへとつながっていきます。この二つで一つの掟を心に刻みつつ、いつでも神様に向き合ってまいりたいと思います。

2018年11月13日火曜日

聖霊降臨後第26主日礼拝の御案内

次週11月18日(日)10時半より、聖霊降臨後第26主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「1クァドランスの重み」

と題して、長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られます。
昼食後、松本教会では女性会が行われます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

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イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

──マルコ福音書12章41-44節

2018年11月11日日曜日

聖霊降臨後第25主日礼拝。20181111

本日11日は聖霊降臨後第25主日の礼拝でした。
長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られました。



先月に引き続き長野から松本への音声の送信がうまく行かず、音質が悪くなってしまっていたのが申し訳なかったです。
毎週それぞれに課題が起きますが、共に祈りの時を持つ第二週目の礼拝が、もっと恵み豊かに守れるよう、改善策を考えていきたいと思います。


松本教会でも良き交わりの時が持たれたようで、感謝です。

† † †

この記事を御覧の皆様にも
神様の恵みと導きが豊かにありますように。

青木兄偲ぶ会。20181110

10日、長野教会にて青木長栄兄を偲ぶ会が開かれました。
様々な事情により教会でのお別れが出来なかった方を思い起こし、祈りと交わりの時を持ちました。


生前盲信徒会における働きも大きく、遠い熊本の方からは段ボールいっぱいの美味しいみかんが届いたり、参加は出来ませんがとお花やお菓子などを送ってくださった方もおられました。
青木兄が9月初めにに天に召され、早2ヶ月。
教会での姿しか私は知りませんでした。
とても熱心で、信仰深いだけではなかった色んな青木兄の姿を、来られた方々から知ることが出来ました。
そして確かに今も天の御国において生きておられる、その確信を皆で深めることのできた交わりの時でした。

2018年11月8日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
──コリントの信徒への手紙一15章51-55節

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。
──ヨハネによる福音書16章33節

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1.全聖徒主日


キリスト教にもお盆のように、全聖徒主日といって、既に天に召された方々をおぼえる日があります。
聖書は洗礼によって永遠の命が約束される、と記していますし、宗教改革者ルターも、「死は洗礼において約束された救いの完成である」と言っています。
しかしそれでも私たちが天に召された方々を思い起こす時、この地上の生のうちには会うことのできない悲しみに囚われるのではないでしょうか。
聖書が語る永遠の命があるのだと私たちがどれだけ信じていても、その悲しみが取り除かれることはきっと簡単なことではないのだと思います。
私たちがそのようなこころの痛みや苦しみのなかにあるとき、この聖書の箇所は力強い響きをもって私たちに与えられているのだと思います。
十字架にかかっていかれる前の晩、キリストは告別説教のなかで弟子たちに言われるのです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

2.死は最大の苦難


地上の生を歩む私たちに降りかかってくる最大の苦難とは、死ではないでしょうか。愛する人が私たちの目の前から失われてしまうこと。そして私たち一人ひとりもまた、いつかは地上の生を生きるすべての人に別れを告げなければならないということ。
その苦難に満ちた世に、キリストは打ち勝たれました。キリストは十字架における死を打ち壊し、その復活によって、永遠の命への道を私たちに開いてくださったからです。

3.復活とは


復活とはどのようなことであるのか、パウロは手紙の中で語っています。それは、死なない者となられたキリストを「着る」ことである、という言葉によって表現されているのです。
また、ガラテヤの信徒への手紙の中には、同じように「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです(ガラ3:27)」といっています。
このことから、キリストを信じ、キリストに結ばれたすべての人は、キリストを着る者であるのです。そして、今は天に召され、復活の命に与っている人々もそれは同様であると言えます。

4.永遠の命を受け取っていくために


キリストはわたしたちから死を取り除くのではありません。
確かにキリストは十字架上で死なれました。弟子たちとの別れや、悲しみの中にその死を受け止めていかれました。
それゆえにわたしたちが親しい者との別れと悲しみの中にある時にも、キリストは十字架の死の痛みをもって私たちに寄り添ってくださるのです。
そして十字架の死を超え、復活されたキリストを私たちが着る時、私たちの痛みや苦しみ、その苦難をまるのまま包み込んでくださって、永遠の命へと導いてくださるキリストがおられることを、わたしたちはこの聖書の箇所から聞くことが出来るのではないでしょうか。

5.共にキリストを着る


だからこそ私たちはキリストの言葉を繰り返し聞いていきたいと思います。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
悲しみのなかに沈む私たちを包み込み、その中から一歩を踏み出す勇気を与えてくださるキリストが、私たちと共におられます。天に召されたすべての人々と共に、私たちもまたキリストを着る者としての歩みを、最後の日まで続けてまいりたいと思います。

いのち学のご案内。

再来週の月曜日、11月19日(月)19時より、
松本教会にて「いのち学~現代科学を語る~」が行われます。



いのち学、第5回目です!
生命科学としての「命」について、
そしてその枠を超えたわたしたちの「いのち」について──。
信州大学名誉教授で癌の研究者でもある谷口俊一郎先生を講師として、共に考える時を持ってみませんか?

もちろん今回からの参加でも大丈夫です!お待ちしています。
参加費は500円。 事前申込は不要です。

11月19日の午後7時から日本福音ルーテル松本教会にて行われます。
当日お時間のある方はぜひお越しください。
また、お問い合わせは日本福音ルーテル松本教会まで。

†会場の松本教会はこちらです†

2018年11月7日水曜日

11月昼カフェ・手仕事会のご案内

11月の昼カフェ・手仕事会は、
「正方形の布でつくるファッション帽子」です!


皆さんのお好きな柄の一枚が、素敵な帽子になります!
是非それぞれにお気に入りの一枚をお持ちください。
縦横75センチの布と針と糸をご用意ください。

来週16日(金)12時から、日本福音ルーテル松本教会(宮渕1-4-9)にて行われます。
おいしいランチもあります。

参加費は500円です。お申込みは14日(水)まで!

お問い合わせは教会・野口までどうぞ。
たくさんのご参加、お待ちしています。

†日本福音ルーテル松本教会はこちらです†




2018年11月6日火曜日

聖霊降臨後第25主日礼拝のご案内

次週11月11日(日)10時半より、聖霊降臨後第25主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「信じる心が愛を生む」

と題して、長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られます。
昼食後、長野教会では定例役員会が開かれます。
また、松本教会ではキリスト者の自由を読む会が開かれます。

どうぞご自由にご参加ください。お待ちしております。

† † †

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。


──マルコ福音書12章28-34節

全聖徒主日礼拝と聖書人形展。20181104

先日4日は、全聖徒主日の礼拝でした。
長野教会では鷲見達也牧師をお招きしての説教と聖餐礼拝として守られ、
松本教会では野口和音牧師の説教と聖餐礼拝にて守られました。

教会学校の礼拝も守られました


会衆席の前には召天者の方々のお写真を並べ、松本教会に連なる方々をおぼえる礼拝となりました。
また、11月は神学校・ルーテル学院大学をおぼえる月間として守られます。お祈りと御支えをよろしくお願いいたします。
今月23日には甲信地区信徒の集いとして、松本教会にて一日神学校も行われます。
石居基夫神学校校長を講師としてお呼びし、「看取りや葬儀─死生学の視点から─」と題して講演をいただきます。
参加費は昼食代込みで1000円になります。締め切りは9日までとなっておりますので、ご参加希望の方はお知らせください。

昼食後には全日2,3日にカトリック教会を会場にして行われた聖書人形展の報告が行われました。
今回の聖書人形展は、主催が日本福音ルーテル松本教会、共催MCCとして行われています。
2日間で301名もの来場者に恵まれました。


10か国語以上のみ言葉と共に味わいます

救い主の生誕の場面

三人の博士

影絵なども入れ、計16シーンの人形たちで表現されるクリスマス物語は、普段は遠く感じられるかもしれない神様、イエス様との距離をぐっと縮めてくれるような気がしました。
カトリック松本教会付属の幼稚園から子どもたちや、旅行者の方々など、様々な方々が見に来てくださいました。
この展示会もまた、宣教の種まきになればと願っています。

† † †

この記事をご覧の皆さまにも
神様の恵みが豊かにありますように。