2019年1月31日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。


──ルカ福音書5章1-11節

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1.出会いはあれど信じない


キリストの周りに集まっている人々は「神の言葉を聞こうとして」やってきています。しかしペトロの心中は彼らとは少し違っていたのかもしれません。夜通し漁をしたにもかかわらず何もとれなかったという徒労感に満ちていて、キリストに言葉をかけられても「先生」と返すペトロは、イエス様のことを神の子としては見ていません。
ペトロとキリストとの出会いはここが初対面ではありません。この箇所の少し前に、シモンのしゅうとめが悪霊によって熱を出し、キリストが悪霊を追い出したという記事が置かれているからです。そこで悪霊はキリストに向かって「『お前は神の子だ』と言いながら、多くの人々から出て行った。(4:41)」のでした。もちろんペトロもその場にいたのですから、群衆たちと同じように神の子としてのキリストに出会っていました。しかしそれでもペトロは、イエス様を神の子として信じることができないでいるのです。

2.神様との関わりを振り返る


「お言葉ですから」とペトロがキリストに従ったのは、信仰ゆえの行動ではありませんでした。しかしそのことによって与えられた大きな収穫は、ペトロにとって思いもかけないことであったに違いありません。
キリストの言葉に導かれて恵みを受けたペトロはキリストに「主よ」と呼びかけ、罪の告白をしています。なぜ、ペトロはこのような返答をしたのでしょうか。
それは、ペトロがその場の収穫の恵みだけを見るのではなく、それまでにキリストがペトロ自身にどのように関わってこられたのかを思い起こしたからなのだと思います。前述の悪霊祓いにおける出会いから、今日の箇所の冒頭においてキリストはペトロの船を選んでおられたこと、そしてさらには予想もつかない大きな恵みが与えられるためにペトロを用いられたこと。これらすべてを通して、恵みへと導かれていたことにペトロは気づかされていったのだと思います。

3.罪の告白へと押し出す信仰


信じるから恵みが与えられるのではありません。私たちが神様を信じることのできない時にあってなお、神様はいつだって働いてくださっていて、私たちを恵みを与え、信仰へと招いてくださっていることを、この聖書箇所から聞き取ることができるのではないでしょうか。
だからこそ、私たちにかかわってくださっている神様との関係を信仰を通して振り返るとき、私たちが神様に向かってまず初めに口にするのは、罪の告白の言葉であるのだと思います。

4.恐れは取り除かれる


ルーテル教会の礼拝式文の中で、その初めに罪の告白がおかれているのはそのような意味があります。決して罪の告白は神様の恵みを受けるための準備であるのではありません。一週間の中で神様が与えてくださった恵み、そして礼拝へと招いてくださった恵みを思い起こすからこそ、私たちが神様の前に立つとき、罪の告白から始めていくのです。
その時、キリストは「恐れることはない」という言葉によって、ペトロのように、私たち一人ひとりを弟子として召し出してくださいます。私たち一人一人が歩む中で、キリストを通して神様が働いてくださっている、その恵みを信仰によって受け取るとき、私たちの日々の中にある恐れは取り除かれるのです。私たちはそのことを主日のたびに、礼拝のたびに思い起こし、恵みに満ちて、今日も新たに弟子としての日々へと送り出されてまいりたいと思います。

2019年1月30日水曜日

顕現節第5主日礼拝のご案内。

次週2月3日(日)10時半から、顕現節第5主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「本当の幸せはどこにある」

と題して、長野教会では信徒礼拝として、松本教会で聖餐礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
牧師は松本教会におります。ぜひお越しください。
礼拝後、松本教会では宣教60周年記念事業委員会が行われます。

† † †

イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

──ルカ福音書6章17-26節

2019年1月28日月曜日

顕現節第4主日礼拝。長野教会定期総会 20190127

昨日27日は顕現節第4主日礼拝でした。
長野教会では聖餐礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られました。
長野教会のみ聖餐が行われるため、礼拝では奉献の部までは松本教会に映像を送り、ともにみ言葉を聞き、祈りを合わせています。

マイクとカメラで松本に映像と音声を送ります


長野教会では当日、ふくろはぎが半分埋まるくらい雪が積もり、北海道での研修以来久しぶりの雪かきをしました。あの時の経験がこんなにも早く生かされることになろうとは、と少し驚いています。
神様は必要なことをすべて備えてくださっている、ということを説教を通しても分かち合うことのできた礼拝となりました。

昼食には信徒の方が用意してくださったカレーをいただいたのち、長野教会定期総会が行われました。
議案もいくつかありましたが、すべて無事に終えることができてほっとしました。

写真の角っこに映っているのは桜の花です

2018年度、今年は4月からの働きでしたが、あっという間に過ぎたというのが正直な感想です。牧師一年目ということもあり、目の前にある仕事に精いっぱいの一年でもありました。
そして同時に、教会とは牧師の働きだけではなく、信徒の方々のご協力なしには成り立っていかないものなのだなということを、肌で感じる一年でもあったと思います。
特に長野教会の方々には、牧師の常駐しない教会運営の中、教会維持のために多くのご奉仕をいただいたこと、感謝いたします。

両教会が新しい年度へと踏み出しました。
今年のテーマは、「もう一歩、前へ」としました。
特に松本教会は宣教60年を迎え、新しい区切りの年となりました。
教会に連なる信徒の皆様一人一人の信仰においても、また宣教の働きにおいても、さらなる一歩を踏み出せるような一年として、過ごしていけたらと願っています。
2019年度が、神様と共に、祝福に満ちた一年となりますように。

† † †

この記事をご覧の皆様にも、
神様の祝福が豊かにありますように。





2019年1月24日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。


──ルカ福音書4章16-32節


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1.品定めをする目


イエス様が育った故郷のナザレで説教を始めようとするとき、「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」とあります。また、キリストは先んじてナザレの人々に言っています。「『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
これらのことから、ナザレの人々はイエス様の奇跡的なわざを期待していたことがわかります。もっと言えば、奇跡によって私たちに利益をもたらしてくれるのか、そうでないのか、という品定めをする目線で見ていたのかもしれません。

2.信仰と信頼の差


クリスチャンであり哲学者の森有正という人が、信頼と信仰の違いについて、次のように語っています。
信頼とはその人を頼れるだけの積極的な理由のある時に持つことができるものである。しかし信仰とは、信頼の念を起こさせるような積極的な理由や好ましい要素がないにも関わらず、本当であると信じることであるのだと。
ナザレの人々はイエス様が自分たちのために奇跡を起こすことがないとわかると、崖から突き落とそうとしています。彼らはイエス様を、私たちのために奇跡を起こしてくれないのならば、あなたは必要ない、と切り捨てていったのです。それは信仰ではありません。自分のモノサシで相手をはかろうとする、身勝手な信頼に過ぎないのです。「この人はヨセフの子ではないか」という言葉にも表れているとおりです。

3.切り捨てられた人のために


キリストはナザレの人々に追い立てられてなお、何も語ることなく彼らの間を通り過ぎて行かれました。なぜならキリストは貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人のために遣わされたからです。その人々は、まさにナザレの人々がイエス様にしたように、品定めをされ、そして切り捨てられてきた人々であったのだと思います。
私たちもまた、社会の中で、人と人との関わりの中で生きるとき、そのような目の中で、身勝手な信頼を背負わされていくことが多くあるのではないでしょうか。あなたは何ができるのか、ということをいつも求められ、それに応えていくことで仕事を得たり、人との関係を保つことに疲れてしまうことはないでしょうか。
さらには私たち自身もまた、そのような目で誰かを見てしまってはいないか、という問いを、ナザレの人々の姿から聞き取ることができるのだと思います。

4.モノサシは使わないで


たとえあなたが何のとりえもなくたって、何もできなくたって、ここにいてよいのだと言ってくださるキリストがおられる場所。それが、教会であるのだと思います。だから私たちは、あなたは何ができるのかという言葉にあふれた社会から、日曜日ごとに、ここに帰ってくるのだと思います。
私たち一人一人が、何もできないのだ、というところに帰ってくるその時、キリストによって、何もできなくたっていいのだと赦されていることを知る、その時に。私たちもまた、互いに赦しあう心を与えられていくのではないでしょうか。そうして私たちも、誰かを品定めしてしまうそのモノサシを捨てていくことができるのではないでしょうか。
それこそがキリストに対する信仰によって起こることであるのだと思います。キリストはそのような私たちの関係の中に、解放と、回復と、そして自由を与えてくれるのです。それがキリストの告げる福音であり、恵みであるのです。


2019年1月23日水曜日

顕現節第4主日礼拝のご案内

次週1月27日(日)10時半から、顕現節第4主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「ペトロの召命」

と題して、長野教会では聖餐礼拝として、松本教会で通信礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
牧師は長野教会におります。ぜひお越しください。
礼拝後、長野教会では定期総会が行われます。

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イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

──ルカ福音書5章1-11節

2019年1月22日火曜日

顕現節第3主日礼拝・松本教会定期総会 20190120

20日は顕現節第3主日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。
牧師もインフルエンザからは回復したもののまだ風邪気味です。

顕現節に入ったので典礼布は緑色になりました

松本教会では礼拝後定期総会が行われました。


松本教会の2018年度を振り返り、2019年度に向けて歩みだすことができました。
振り返ると牧師として未熟なところばかりが思い起こされる中、皆様の赦しとお支えによって、なんとかやってこれた一年であったと思います。
2019年度は松本教会宣教60周年の記念式典が予定されています。記念すべき年となりますように祈りと共に強められて歩みを続けていきたいと思います。

来週27日は長野教会での定期総会が開かれます。何名かの方が体調を崩されたりお怪我をしたり、と聞いております。どうか癒しと守りがありますように。

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この記事をご覧の皆様も
病にかからず、体調が守られますように。

2019年1月15日火曜日

顕現節第3主日礼拝の御案内

次週1月20日(日)10時半から、顕現節第3主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「モノサシは使わないで」

と題して、長野教会では信徒礼拝として、松本教会で聖餐礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
牧師は松本教会におります。ぜひお越しください。
礼拝後、松本教会では定期総会が行われます。

† † †

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。

──ルカ福音書4章16-32節

2019年1月13日日曜日

主の洗礼日礼拝。 20180613

本日13日は主の洗礼日の礼拝でした。
野口和音牧師がインフルエンザで外出禁止のため、両教会、信徒による礼拝として守られました。
長野教会では聖書日課を用いた信徒の祈りとして、
松本教会では信徒による司式と奨励によって主日が守られました。
感謝です。



礼拝後、松本教会では女性会総会が行われました。
17日には長野教会の女性会総会が開かれます。

牧師のインフルエンザもやっと熱が下がり、あとは風邪の症状を残すのみとなりました。
めまいがやっかいですが、しっかりと治して来週からまた頑張りたいと思います。

† † †

この記事をご覧の皆様の健康も守られますように。

2019年1月8日火曜日

【更新】主の洗礼日礼拝のご案内

次週1月13日(日)10時半から、主の洗礼日の礼拝が行われます。
野口和音牧師がインフルエンザ罹患のため、
長野・松本両教会では信徒礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
礼拝後、松本教会では女性会総会が行われます。

† † †

民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


──ルカ福音書3章15-22節

2019年1月7日月曜日

主の命名日礼拝 20190106

1月6日は主の命名日の礼拝でした。
長野教会が信徒礼拝として、松本教会は聖餐礼拝として守られました。
松本教会でもたくさんの方々と共に新年最初の礼拝を皆様と共に守れたことをうれしく思います。

新年も教会学校から始まりました
予想以上にたくさんの方々が来てくださいました

礼拝後には昼食の前にクリスマスツリーなどの片づけをしました。
ご協力ありがとうございました。


昼食はうどんを皆さんでいただきました。



当日は雪が降らなかったので来れた、という方も多くおられました。
牧師も車のフロントガラスに張った氷と格闘しています。
これからは雪の季節ですね。どうぞ雪道にはお気をつけて教会へお越しください。

† † †

この記事をご覧の皆様にも
今年も神様の祝福と守りが
豊かにありますように。

2019年1月2日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、あったのとのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。


──ルカ福音書2章25-40節

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1.救いを待ち望む人


シメオン、という人物が登場しています。彼は「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」と表現されています。ここでいう慰めとは救いと同じ意味です。
新約聖書の中にはキリストが神殿の中で商売をしている人の机を倒したり、神様を信じるということが形骸化してしまっている律法学者たちとの論争が多く取り上げられています。それだけイスラエル全体が神様に背いた時代、乱れた現実があったのです。
それゆえにシメオンはそのような現状を嘆く者であったのではないかと思います。
さらにはシメオン自身が「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」という聖霊のお告げは、彼がその嘆きの中にずっととどまっていなければならない、ということでもありました。

2.平安に満たされる日々へ


シメオンはキリストに出会い、幼子を「腕に抱いた」とき、神様をたたえる賛美の声を上げています。
この腕に抱くという言葉はギリシャ語では「受け入れる」という意味を持っています。ここでシメオンは聖霊に導かれてキリストに出会い、嘆きの中でキリストを受け入れることによって「安らかに」されています。
「安らかに去らせてくださる」という言葉から、シメオンが老人であるというイメージを持つかもしれません。しかし年老いていたと明記されているのはアンナだけであり、シメオンについてはそのように書かれてはいません。またこの後すぐにシメオンが天寿を全うしたとも書いてありません。
それゆえここでのキリストとの出会いは、目の前にある死が平安に満たされたものへと変わるということ、それだけではないのです。
私たちが誰一人として天に召される日がいつか知らないように、キリストを受け入れたその日から、この地上の命を終えるまでのこれからの日々が、嘆きではなくキリストによって平安に満たされていく、ということでもあるのだと思うのです。

3.罪を見つめる先に


私たちが過ごしたこれまでの日々はどのようなものであったでしょうか。私たちがキリスト者として立たされるからこその、出会いと別れ、喜びを悲しみもあったのではないでしょうか。
キリストをその腕に抱く、受け入れることとは、ただ平安が与えられるだけではありません。キリストは「多くの人を倒したり立ち上がらせたり…反対を受けるしるし」としてこの世に来られました。キリストに出会うということは、キリストの十字架を前にして自分の罪を見つめる時が私たちにも与えられる、ということであるのです。
私たちが神様の恵みだと喜ぶときにも、神様なんて信じられないと嘆くときにも、キリストは十字架を通して私たちにその罪を明らかにしてくださっているのです。それでも共にいてくださるキリストを私たちが受け入れるとき、これからの日々は平安へと押し出されていくのです。

4.シメオンの賛歌


シメオンは「“霊”に導かれて神殿の境内に入ってきたとき」キリストに出会っています。私たちがキリストに出会うとき、そこには確かに神様の働きがあります。シメオンが長らく「待ち望ん」でいたように、私たちが強く強く神様を望み続ける、祈りの時もまた長い時になることもあるかもしれません。
しかしお生まれになったキリストが私たち「万民のために整えられた救い」であることを信じて待ち望むとき、確かにキリストに出会うその時が誰しも与えられていくのです。
私たちの地上の命が尽きるその日まで、そのすべてを聖霊によって導き、キリストの十字架によって平安へと押し出してくださる主がおられます。だからこそ私たちも、シメオンの賛歌を歌い上げながら生きる、そのような日々にしてまいりたいと思います。

2019年1月1日火曜日

主の洗礼日の礼拝案内

あけましておめでとうございます。
2019年最初の礼拝は、1月6日(日)10時半より、主の命名日の礼拝として行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「その名に込められた願い」

と題して、長野教会では信徒礼拝として、松本教会で聖餐礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
お待ちしております。

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八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。

──ルカ福音書2章21-24節