2019年2月28日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」
そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

──ルカ福音書7章1-10節

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1.具体的な行いはどこから


「敵を愛しなさい」と語られたキリストの説教は、私たちを信仰から行いへと押し出していくものでした。そして今日の箇所において、この百人隊長はそのような信仰者のモデルとして描かれていると言ってよいと思います。
それゆえ、信仰から出る行い、という視点からこの物語を読むとき、長老たちの言葉にもあるように「ユダヤ人のために会堂を建てた」という具体的な行為が目につくかもしれません。
しかしキリストはもっとその行為の根底にあるものを見据えておられたからこそ、百人隊長の部下を救うために、向かっていかれたのだと思います。
それは、百人隊長が再びキリストのもとへ使いを出して伝えた言葉にも表されています。
「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」

2.愛は理解と配慮を生む


長老たちの言葉からわかるのは、彼は本来ユダヤ人を愛するような立場の人間ではないということです。彼が当時のイスラエルを支配していたローマ帝国の軍人であったのだとしたら、ユダヤ人は彼らを敵と見ていたからです。
また、ユダヤ人から見れば彼は異邦人と呼ばれる人々でした。律法には、異邦人の家に入ったユダヤ人は汚れる、と記されています。異邦人は律法を知らず、守らないからです。しかしそのことを百人隊長は知っていたのです。
それゆえ、キリストが汚れによって煩わされることのないように、という配慮が彼の言葉には表されています。それは、キリストを含むユダヤ人たちへの理解から出たものでした。
敵対する人々に対する理解と、そこからくる配慮こそが「敵を愛する」ことの表れであるのです。

3.ことばにより頼む信仰


すべての人にとって信仰の根本には「神様の言葉」があるのではないでしょうか。私たちが神様に出会う、その時の状況は千差万別ですが、その状況を神様との出会いだと確信するとき、私たちは聖書の言葉を思い起こすからです。
神様の言葉こそ、私たちが一度も見たこともない、会ったこともない神様がどのような方であるのかを教えてくれる唯一のものだからです。
だからこそ、百人隊長も「神様の言葉」にこそ神様の力が満ち溢れていることを、誰よりもわかっていたのだと思います。百人隊長はこの箇所の最後までキリストの姿を見ることはありません。それでも「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」と、み言葉を求め、その力を信じ、より頼んでいったのです。

4.ことばを信じる


私たちも百人隊長と同じなのだと思います。誰かが執筆した聖書、宣べ伝えられた神の言葉から、私たちは神様を知り、理解しようとし、そしてそこに語られた言葉が私の救いとなるようにと願うのではないかと思います。
神様、一言おっしゃってください、そして、私を救ってください──それこそが、私たちに与えられる信仰の原点にあるものだと思います。
神様はこのみ言葉を通して、愛せない、赦せないと思う私たちを送り出していかれます。み言葉は私たちに語っています。相手を知り、理解し、配慮することから始めていきましょう。それが愛するということの一つのかたちであるのだと。
だからこそ、あなたがたは敵を愛しなさい、赦しなさい、与えなさいと言われるキリストの言葉に、私たちもまた、百人隊長のように、その信仰のゆえに従っていきたいと思うのです。

2019年2月26日火曜日

変容主日礼拝のご案内

次週3月3日(日)10時半から、変容主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「エクソドスに向かって」

と題して、長野教会では信徒礼拝として、松本教会で聖餐礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
牧師は松本教会におります。ぜひお越しください。

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この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

──ルカ福音書9章28-36節

2019年2月25日月曜日

顕現節第8主日礼拝・ルターナイツinまつもと

昨日24日は顕現節第8主日礼拝でした。
長野教会では聖餐礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られました。
顕現節最後の主日として、百人隊長の信仰についてのみ言葉を分かち合いました。


先週の松本教会に引き続き、長野教会でも役員就任式が行われました。
両教会の役員の皆様、2019年度もよろしくお願いいたします。お世話になります。


昼食は煮込みハンバーグや八宝菜などを作ってきてくださいました。
左の白いマッシュなものは、長芋を茹でてつぶしたものに、甘納豆を合わせたものだそうです。
長芋って生でねばねばのイメージしかなかったのですが、こういう作り方もあるんですね。


松本でも通信礼拝が行われました。Skypeの通信状況がここ最近の中では一番調子がよく、快適に両教会が礼拝を守ることができました。


夜18時半から、松本教会ではルターナイツinまつもとが開かれました。
礼拝後からお食事を準備をしてくださる方々によって、このプログラムは支えられています。感謝。


今回のゲストの方々は昨年度も来てくださった方々でした!
トップバッターは昨年6月のルターナイツに出演されたシンガーソングライターの中西丈博さん!
ご自身も今年は活動15周年を迎え、記念のミニアルバムも制作しておられました。
変わらずのメッセージ性の強い弾き語りを披露していただきました。


二番手は牧師の讃美歌ウラ話のコーナーです。今回は「蛍の光」と教団讃美歌370番のお話。
由来はスコットランド民謡の「オールド・ラング・ザイン」と言われていますが、讃美歌の歌詞の共通点と当時の歴史的な背景から考察するお話のあと、皆で讃美歌を歌いました。



三番手はレオンソワーズの皆様!
普段はパーカッション担当の方が鍵盤初挑戦という貴重な場面がこちら。
フニクリフニクラを始めとしたイタリアなどの陽気な音楽を歌い上げてくださいました。


音楽のプログラムの後は、皆様とお食事をしながらの交わりの時を持ちました。


次回のルターナイツinまつもとは3月24日の予定です。ぜひまたお越しください。

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この記事をご覧の皆様にも
この一週間が
神様の恵みと喜びに満たされたものとなりますように

2019年2月21日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」


──ルカ福音書6章37-49節

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1.相互的な関わり


キリストは私たちに、聖書の言葉を聞くだけではなく、それを行いなさいと求めておられます。
しかし今日の箇所でキリストが伝えようとしているのは、もはや私たちが「何を行うか」ということについてではありません。
師として誰かを導こうとするときに、自分にある大きな欠点は棚に上げ、相手の小さな欠点を指摘しようとすることについて注意を促しています。
私たちの口から出る言葉は、心から出るものであるという言葉は、私たちが関わる相手にとってもそのようにみられる、ということでもあるのだと思います。そして裁かないことの勧めにおいては、相手からの関わりを通して自分を振り返ることを教えています。
「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」と言われているように、キリストの言葉に従う私たちの行為は一方的なものではなく、相手との関わりのうちにある相互的なものなのです。

2.キリストに従う行為と悔い改めのループ


この箇所でキリストが私たちに語っているのは、キリストの言葉に従おうとするとき、私たちの中にある罪によってそれが歪められることも多くあるということです。相手から見れば、全くの善意でありながら、目に丸太を入れたまま相手の目にあるおがくずを取ろうとするような状態が私たちに起こるということです。
それゆえ、私たちはキリストの教えに従って関わろうとする反面、その難しさゆえにキリストの教えによって自省することもあります。その繰り返し、行為と悔い改めとの間で思い悩む日々の中に、私たちは生きているのです。

3.キリストの言葉を土台に据える


キリストは、そのような私たちに、家を立てた人のたとえを語ることで、この説教を締めくくっておられます。キリストの言葉を聞き、それを行う人とは、私たち自身の罪に深く向き合い、その土台にキリストの言葉を据えた人なのです。それは、私たちが神様との関係の中で、かけがえのないみ言葉を見つけ、心に刻むということでもあると思います。


4.罪が取り除かれる時


私たちの思い悩む日々はいつまで続くのでしょうか。
その原因である罪が取り除かれるとき、それはわたしたちの地上の命が終わり、復活が与えられるときです。
パウロは死者の復活についてこのように語っています。
「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。(第一コリント15:19-20)」

5.自省と先導に生きる


私たちは罪のゆえにキリストの教えに従い、完全な行いをすることができません。しかしその罪のゆえに、私たちはキリストに出会うのです。
私たちは聖書の言葉によって、キリスト者としての救いへと招かれています。
そして救いの中には、私たちの罪が取り除かれる復活もまた、キリストの十字架と復活によって約束されているのです。
イエス・キリストはその最初の方として復活されました。それは、私たちの罪のゆえに十字架の上で死なれましたが、今は復活して、私たちの歩む道の先に生きて立っておられるということなのです。
そしてまた私たちは、他の救いを求める誰かのために、このキリストの福音のための行為へと押し出されていくのです。
そうして、復活のキリストからわたしたちへ、そしてすべての人がこの福音に与るために、キリストは私たちをみ言葉に従う者として、召し出してくださっているのです。
この地上の命が終わるその最後の時まで、そしてその先にある復活のいのちに向かって、揺るがないみ言葉を土台に据え、私たちはキリスト者としての歩みをこれからも続けてまいりたいと思います。

2019年2月20日水曜日

顕現節第8主日礼拝のご案内

次週2月24日(日)10時半から、顕現節第8主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「ことばを信じる」

と題して、長野教会では聖餐礼拝として、松本教会で通信礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
牧師は長野教会におります。ぜひお越しください。
また、18時半からは松本教会にてルターナイツinまつもとがあります。こちらにもどうぞお越しください。

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イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」
そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

──ルカ福音書7章1-10節

2019年2月19日火曜日

顕現節第7主日礼拝・MCC一致礼拝・総会 20190217

17日は顕現節第7主日の礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。


快晴にも恵まれ、この時期にしては暖かい日が続く中、皆様と共に礼拝を守ることができて感謝です。
お昼ご飯はオシャレなサンドイッチとミネストローネスープでした。


ミネストローネはトマト缶ではなくトマトジュースを使うことでさっぱりした味わいになるそうです。


昼食後はMCC(松本キリスト教協議会)の一致礼拝と総会のために、教会員と共に日本基督教団塩尻アイオナ教会へと向かいました。
昨年度(2018年度)に教団松本東教会に新しく赴任された朴先生の説教により、MCC一致礼拝が守られました。


また、MCC総会においては2018年度の活動の総括と、新たに世話人の交代がありました。
野口和音牧師は2019年度から二年間、書記としての働きを担うことになりました。
精いっぱい頑張りたいと思います。

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この記事をご覧の皆様にも
和解と一致とがありますように

2019年2月16日土曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」


──ルカ福音書6章27-36節

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1.人と人との関係の中で


弟子たちに向けて語られた先週の箇所では、信仰を前提とした神様と自分との関係において語られた勧めであることに対して、今日の箇所は、人と人との関係の中において響いてくる御言葉であると言えます。
それは私たちが生きていく中で、誰もが人との関わりを避けることが出来ないからです。だからこそ今日の箇所において、キリストはその言葉を聞くすべての人に対して語り始められるのです。

2.無抵抗であれ?


敵から与えられる暴言、侮辱、暴力、理不尽な搾取といった傷つける行為に対して、私たちは普通、どのように反応するでしょうか。
私たちがもし暴力に暴力を、侮辱に侮辱を返せば、より一層その敵との対立が深まることは目に見えています。しかしだからといって傷つけられる行為に無抵抗であれという勧めとしてこのみ言葉を受け取るのであれば、私たちは堪えられなくなってしまうだろうと思います。

3.積極的な勧め


だからこそ私たちはむしろ、全く逆の視点でこのみ言葉を捉えていく必要があります。愛すること、祈ること、むしろ相手により一層傷つけることを勧めること。奪おうとする人にはむしろ与えていくこと。それは、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」という言葉で勧めが結ばれているように、私たちは無抵抗によって敵との関わりを絶とうとするのではなく、より一層関わっていきなさい、という積極的な勧めであるのです。
なぜなら私たちが私たちを愛し、良くしてくれる人々との関わりにのみ留まってしまうことが続けて言われているからです。
しかしなぜ、それではいけないのでしょうか。
それは、神様がすべての人の体と心から、悲しみと痛みを取り去ることを願っておられるからなのだと思います。

4.傷が癒されるためには


私たちが敵を愛することができないのはなぜでしょうか。私たちが敵によって傷つけられ、その傷を赦すことができないからです。私たちと同じ空間に敵がいるとき、私たちの心は休まることはありません。傷は疼き、より一層赦せない思いが再び私たちを傷つけていきます。
その時、私たちは敵との関わりを避け、今愛してくれる人々のうちにあって平安に満たされようとするでしょう。そのことを、キリストは否定してはいません。
しかしそれ以上に恵み深いものを私たちに与えるために、重ねて勧めておられるのです。
この勧めは、私たちの敵を取り除くだけではありません。その人との関係が新しく変えられていくなかで、私たちのうちにある傷もまた、癒されていくからです。敵であるその人によって私たちが受けた傷は、その人との友としての関わりの中でしか、完全に癒されることがないからです。

5.誰一人悲しむことのないように


私たちはそれでも、きっと敵を愛するという行為に踏み出すことをためらうことだと思います。赦せないからこそ、難しいのです。
しかし、私たちがその一歩を踏み出すこの箇所において、キリストは「まず敵を赦しなさい」とは続けておられません。ただ、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」と言っておられるのです。

わたしたちの父なる神様は、「恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」方であります。そのような方に、私たちの赦せない心を預けてみませんか。
私たちの思いよりも神様の思いを私たちの胸に満たしてみませんか。
私たちの痛みだけではない、敵となっている誰かをも救おうとされる神様であるからこそ、私たちがこのみ言葉によって踏み出した一歩は、確かに和解への一歩となることを約束してくださっています。そこには和解という「報いがあり」、共々に憐れみ深い「いと高き方の子」とされるからです。それは、誰一人悲しむことのないようにと願う神様の、救いへの招きであるのです。

2019年2月14日木曜日

顕現節第7主日礼拝のご案内

次週2月17日(日)10時半から、顕現節第7主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「自省と先導のために」

と題して、長野教会では信徒礼拝として、松本教会で聖餐礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
牧師は松本教会におります。ぜひお越しください。

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「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」


──ルカ福音書6章37-49節

2019年2月12日火曜日

ルターナイツ in まつもとのご案内

2月24日(日)の18時30分から、
松本教会にてルターナイツ in まつもとが行われます!


今回のプログラムは……
・中西丈博さんのギター弾き語り
・レオンソワーズさんたちのウクレレ・歌・鍵盤・パーカッション
です!
今回も野口和音牧師のヴァイオリンと、”讃美歌のウラ話”もあるカモ?

参加費は軽食込みで500円、事前申し込みは不要です。
日曜日の夜を、ちょっとトクベツな時間にしませんか?

皆様どうぞご参加ください。お待ちしています。

†会場の松本教会はこちらです†

思想・信教の自由を守る集い 20190211

昨日11日は、思想・信教の自由を守る集いが行われました。


日本キリスト教団東海地区南信分区社会部と松本キリスト教協議会(MCC)との合同主催で毎年2月11日に行われている、平和をおぼえる集会です。
ルーテル松本教会はこのMCCに入っているので、今年は平和の祈りとしての礼拝を任されました。


会場を今年は聖公会の聖十字教会・幼稚園を会場として、平和をおぼえ祈る礼拝から始まりました。
祈りと共に、いくつかのテゼの音楽を用いて、ヴァイオリンとギターの伴奏で賛美の声を合わせることができました。
聖十字教会の礼拝堂の雰囲気も合わさり、大変心の満たされた礼拝となりました。

午後からは鳥羽季義(すえよし)先生から、日本の憲法前文やユネスコ(国際連合教育科学文化機関)憲章などから「平和」について引きながら、聖書のみ言葉を柱にして平和についての講演をいただきました。
その後何人かのグループでそれぞれに平和とそこにある課題──戦争や貧困や差別などについて話し合う時が持たれました。

礼拝には40名以上、午後の講演会からは参加者がさらに増え、60名を超える方々と共に平和について深く考えることができました。
そのようななかで、わたしたち一人一人の心を平和に向けていくことの大切さを心に刻むことのできた時となりました。

† † †

キリストのへいわが 私たちの
心のすみずみにまで ゆきわたりますように


2019年2月11日月曜日

顕現節第6主日礼拝 20190210

10日は顕現節第6主日礼拝でした。
長野教会は主日礼拝として、松本教会は通信礼拝として守られました。
長野教会に行くときには土曜入りすることが多いのですが、この時期はいつも雪みたいです。
以前北海道で買った雪用の靴を引っ張り出し、長野へ。神様は本当に備えてくださるなあと思います。


1月末の時は膝が埋まるくらいで大変でしたが、今週はあまり降らずでよかったです。
雪が降るとなぜか教会のWiFiが調子が悪くなったりするようで、何かしらの急なトラブルがちょくちょくありますが、なんとか無事に両教会ともに礼拝を守れて一安心です。


お昼はカキフライを作ってくださいました。浸し豆やおからなどがおいしい歳になったのだなあと思いつつの昼食会でした。
また、年末から長らく教会に来られなかった方と久しぶりにお会いできたり、洗礼希望者が起こされたりと、最近は特にうれしいこと続きです。神様に感謝。
役員会の後には洗礼準備会を始めました。小教理問答の十戒から一緒に読みつつ、信仰や聖書の話をのんびりとできる時間は、牧師にとっても恵み深い時間でした。

† † †

この記事をご覧の皆様にも、
神様の恵みと導きが豊かにありますように。

2019年2月8日金曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」


──ルカ福音書6章17-26節

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1.幸と不幸の逆転


マタイ福音書においては所謂「山上の説教」と呼ばれるものの一部が、ルカ福音書においてもここで取り上げられています。
私たちが一般的にとらえる幸いと不幸について考えるとき、今日の箇所はそれとはまったく逆のことが語られているように感じられるかもしれません。
富んでいること、満腹すること、ほめられることのどこが不幸であるのでしょうか。
また、貧しいこと、飢えていること、泣いていることが幸いであるという言葉を、わたしたちはどのように受け止めればよいのでしょうか。

2.それは不幸なのだ


あなたにとって何が、幸せと呼べるものでしょうか。
それはお金であったり、満腹になることであったり、あるいは褒められることかもしれません。しかし私たちの体と心に与えられるものを含め、私たちが自分の力で手に入れることのできるものはすべて、いつかは失われてしまうのです。そして私たちは再び失われたそれを求めて駆けずり回り、疲れ果ててしまうこともあるかもしれません。
だからこそ、一時の幸せではあっても、それは本当の幸せではないのだ、とキリストは言われるのです。

3.絶望の中にこそ希望はあるというけれど


聖書を文字通りに読めば、本当の幸せは貧しさと飢えの中や、悲しんでいる中にあると語っているように思えます。
それは私たちが自分の力ではどうしようもない貧しさを知るとき、神様が与えてくださる幸いがはっきりと見えるようになるからです。
けれどもそのように読むのだとしたら、私たちは神様の幸いを受けるために、常に貧しく、飢えと悲しみの中に留まっていなければならないのでしょうか?

4.罪という名の病


地上に生きる私たちを最も悩ます不幸とは何でしょうか。それは病であると思います。
この病とは、身体の病気だけを指すのではありません。私たちは心にも病を抱えることがあるからです。自分の力ではどうしようもないことに対して起こる絶え間ない不安や、人間関係の破れや痛みを抱えることもあります。
たとえ病でなくとも、一時の幸いを求めて疲れ果ててしまうことすらある私たちは、その在り方そのものが、病の状態にあると言えるのではないでしょうか。
言い換えればそれは、罪という名の病とも言えるのだと思います。

5.キリストの言葉といやし


人々は「イエスの言葉と病のいやし」を求めてキリストのところへとやってきています。そしてキリストに触れることによって、「すべての人の」病はいやされていきました。
自分の力ではどうしようもない貧しさの中ある時、私たちは、聖書のみ言葉を通して慰められ、満たされ、力づけられていくことがあります。み言葉を心に刻み、何度も思い返すこともあります。
それはここに記されている人々のように、罪の病の中にある私たちが、み言葉を通してキリストに出会い、いやされていくということなのだと思います。
まさにその時、その聖書の言葉は“わたしのために語られたみ言葉”となるのです。そこには私たちが神様に触れ、いやされたという幸いが結びつけられているからです。

6.本当の幸い


あなたにとって、あなたのために語られたみ言葉とは、なんでしょうか。
それはもしかしたら、これから最も貧しさや悲しみに暮れるときに見つかるものかもしれません。
貧しさと悲しみ満たされる時、それは慰めと救いを与えるでしょう。
満たされているときには、謙虚さを与えるものとなるでしょう。
なぜならそれは、かけがえのない私たちを幸いへと導くために、神様が語ってくださったみ言葉であるからです。
だからこそ、私たちはそのみ言葉を通していつだって神様に心を向けてまいりたいのです。そのみ言葉を心に刻み、いつだって思い起こしてまいりたいのです。
本当の幸い──それは、かけがえのないあなたのために語られたみ言葉が、聖書の中に必ずある、という福音なのです。

2019年2月6日水曜日

顕現節第6主日礼拝のご案内。

次週2月10日(日)10時半から、顕現節第6主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「誰も悲しむことのないように」

と題して、長野教会では主日礼拝として、松本教会で通信礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
牧師は長野教会におります。ぜひお越しください。
礼拝後、長野教会では定例役員会が行われます。

† † †

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

──ルカ福音書6章27-36節

2019年2月4日月曜日

顕現節第5主日礼拝 20190203

昨日3日は顕現節第5主日礼拝でした。
松本教会では聖餐礼拝として、長野教会では信徒礼拝として守られました。
平日に降った雪が残りつつも朝から晴天に守られた主日となりました。

教会学校では星のクラフトを作りました
10時半の礼拝から参加してくれたこどもたちもいました

以前平日に教会を訪ねてこられ、お話をした人が新しく礼拝に来てくださいました。
昨年度からこうして新しく礼拝に来てくださる方がいる、ということはうれしいことです。主の日が、ここに集う一人一人にとっての安息の日となりますようにと祈りながらの礼拝です。


お昼ご飯は信徒の方が作ってくださった親子丼です。お味噌をちょっとつけて食べる、というのは初めてでしたが、これがなかなか合いますね。
わかめスープはシーチキン入りの韓国風だとか。ごちそうさまです。


松本教会宣教60周年記念事業委員会もいよいよ大詰めを迎えています。
記念誌の作成は今年中に発送を予定していますが、4月の初めには記念礼拝が行われます。
教会員の方々への周知も徹底し、皆で宣教60周年をおぼえて共に歩めるように頑張っていこう、という意気込みに満ちた委員会となりました。

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この記事をご覧の皆様にも、
神様の導きが豊かにありますように。