2019年4月30日火曜日

世界の子ども支援 JELAチャリティーコンサートのご案内

来月5月11日(土曜日)の14時から、松本教会にて世界のこども支援・JELAチャリティーコンサートが行われます。


演奏してくださる方は、
ヴァイオリンの真野謡子氏、チェロの松本恒瑛氏です。
プログラムの中では、
・J.S.バッハ「無伴奏チェロ組曲」
・アメイジング・グレイス
・W.A.モーツァルト「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲ト長調KV.423」
・セルヴェ/ギース「神よ、王を守りたまえ」による華麗なる変奏曲 
などが演奏されます!

入場無料です。お誘いあわせの上、ぜひお越しください。

†会場の松本教会はこちらです†



2019年4月29日月曜日

復活後第一主日礼拝。20190428

28日は復活後第一主日の礼拝でした。
長野教会では聖餐礼拝として守られました。
先週の春の陽気からは少し冷え込みましたが、GWということで教会員のお孫さんが訪ねてきてくださり、にぎやかな主日となりました。


礼拝後は山菜の天ぷらとカレーをいただきました。
カレーが好きですとお伝えしたら結構な頻度でカレーを出していただけるようになり、毎回喜んでいただいています。


松本教会では巡回説教者の田中博二牧師にお世話になり、主日礼拝として守られました。



礼拝後は皆さんで交わりの時も持てたようで良かったです。
ご旅行の途中で寄ってくださった方もおられました。旅路が守られますように。



† † †

この記事をご覧の皆様にも
神様の守りがありますように。

2019年4月25日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

 ──ルカ福音書24章1-12節

† † †

1.イエスの言葉

教会の暦ではイースターを迎えました。主の復活を喜び祝う日です。しかし不思議なことに、この聖書の箇所からは主の復活を「喜ぶ」という言葉は見当たりません。婦人たちは空の墓をみて途方に暮れ、弟子たちは復活の知らせを聞いてもたわ言だと聞き入れようとはしないのです。
彼らが復活を受け止められなかった理由は、天使から復活の知らせを聞いたあとの婦人たちの姿を見るとわかるかもしれません。
途方に暮れていた彼女たちを立ち上がらせたのは、「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」ということであったからです。

2.受難予告は受け入れられない

イエス・キリストは十字架におかかりになるまえ、弟子たちに対して何度も十字架の死と復活について予告しておられました。弟子たちや、付き従っていた婦人たちも聞いていましたが、誰もがその言葉を受け入れたくはなかったことでしょう。
しかしその時は来てしまいました。弟子たちはほとんど残らず散り散りに逃げ出してしまい、十字架のイエス様の最期を見ていたのは婦人たちでありました。
誰もが、キリストをこの世から失った悲しみに満たされ、そしてなぜ彼が十字架につけられなければならなかったのかと問い続けたことだろうと思います。

3.十字架を受け止められなかった人々

婦人たちが天使の言葉を受け入れ、キリストの言葉を思い起こすためには、覆ることのない現実としてキリストの死を受け止めるところから始まっているのだと思います。
弟子たちもまた、キリストの十字架の知らせを受け、同じように問い続けたはずです。しかし弟子たちは他者からもたらされたその十字架の知らせを受け入れることが出来なかったからこそ、復活の知らせもまた、受け入れることが出来ないでいたのです。
十字架のイエスから逃げ出したことによって、彼らは復活のキリストが弟子たちの前に顕れるまで、誰の言葉も聞くことが出来ずに一歩も動けなくなってしまったのです。

4.永遠の御言葉として響くために

それゆえ、キリストの復活の喜び、というものを与えられるときとは、復活のキリストに出会ったときである、と言えるでしょう。
実際に復活のイエスに語り掛けられて、弟子たちは信じることができました。
婦人たちはキリストの予告の言葉を思い起こすことによって信じ、他の人々に復活の一部始終を語るために帰っていきました。
復活とは、単なるいのちの蘇生ではありません。ギリシャ語では「再び起き上がらされる」という意味を持った言葉です。神様によってイエス様は新しいいのちを与えられて、再び起き上がらされていったのです。
それは見なければ信じられない弟子たちのためであり、復活の知らせを通して婦人たちの中にキリストの言葉が再び起き上がらされるためでした。
「必ず」と彼が予告したその御言葉のゆえに、キリストの復活は、時代を超えてすべての人々に永遠に生きて響く御言葉となるために起こったのです。

5.キリストは生きておられる

聖書という書物を通して、私たちはキリストの言葉を聞くことが出来ます。けれどもすべての言葉が、今の自分には信じられない、受け止められるものではないと思うかもしれません。
しかしそれでもよいのです。
キリストが十字架の受難と復活の予告をしたとき、誰もそれを受け止めることが出来ませんでした。けれども婦人たちも、そして後の弟子たちも、復活のキリストの一部始終を語り広めるために立ち上がらされていきました。それにふさわしい時が、誰しもに用意されているのです。
全てのみ言葉はここにあります。復活して、生きた神様の言葉として、今この瞬間も、あなたのために語られ続けています。
私たちが日々の中の出来事を通して御言葉を思い起こす時、私たちは復活のキリストに出会うのです。
その方は、今もなお、あなたと共に生き、あなたを愛し、受け止め、慰め、癒し、支え、そして導いてくださるお方なのです。

2019年4月24日水曜日

復活後第1主日礼拝の御案内。

次週4月28日(日)10時半から、復活後第1主日の礼拝が行われます。

松本教会では田中博二牧師の説教
「エマオの道にて」

長野教会では野口和音牧師の説教
「心が燃やされる言葉」

と題して、松本教会では主日礼拝として、長野教会では聖餐礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。

† † †

ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

──ルカ福音書24章13-35節

2019年4月23日火曜日

復活祭(イースター)礼拝ー松本教会。20190421

21日、松本教会の復活祭の礼拝は、巡回説教者である鷲見達也牧師により守られました。


祝会では皆様の持ち寄りの料理がずらりと並びました。
また、こども病院のナースでもある、教会員の方の娘さんからは、世界で一番小さなあかちゃんの話をしていただきました。





巡回説教者として礼拝奉仕をしてくださった鷲見達也牧師と、このイースターのために準備をしてくださった方々に感謝いたします。


† † †

この記事をご覧の皆様にも
復活の主が共にいてくださり、
日々を喜びに満たしてくださるように。

復活祭(イースター)礼拝ー長野教会。20190421

21日は復活祭、イースターの礼拝でした。
長野教会では4月の末にも関わらず桜の花が満開になり、イースターにふさわしい風景になりました。


礼拝には昨年12月に長野教会でクリスマスコンサートを行った声楽会の方々も参加してくださり、またオルガンのご奉仕をしてくださった方がおられました。
去年4月に赴任してから初めてオルガンの音を聞きました。
たくさんの恵みに満たされた礼拝となりました。



祝会にも持ち寄りの料理が並び、お腹いっぱいいただきました。
また久しぶりにお会いすることのできた方もいて、うれしく楽しい時間を過ごすことが出来ました。



† † †

この記事をご覧の皆様にも、
復活の主がいつも共におられて、
日々を喜びに満たしてくださいますように。

こどもイースター 20190420

先週の土曜日、20日は松本教会でこどもイースターでした。
初めは礼拝から、イエス様の”ふっかつ”とイースターエッグのつながりについてのお話をみんなで聞き、そのあとはみんなで十字架のクラフトづくりをしました。


「はじめに”カミ”あり」から
十字架と復活のお話しをまじえつつ


たくさんのイースターエッグづくりと一緒に、毎年恒例となっている、花の十字架も子どもたちの手で作られました。
今年は明るい春の花がたくさん。去年とすこし雰囲気が違います。
この十字架は何週間か、礼拝堂に飾られます。
復活節の季節をおぼえるのにぴったりです。

お湯でフィルムがぴったりくっつくものを使っているので、
簡単で食べるのも安心。

十字架型の入れ物にくくりつけたオアシスに
一本一本挿していきます


最後にみんなでおやつ作り。
今年はたこ焼きプレートでプチケーキを焼いてたべました。


楽しいこどもイースターとなりました。
来てくださった方々と、準備を手伝ってくださった方々に感謝いたします。

2019年4月18日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

──ルカ福音書19章28-48節

† † †

1.平和の王として来られた

イスラエルの中心であったエルサレムに到着するとき、イエス・キリストは弟子たちの賛美の声に包まれながら歩まれました。彼らの姿は、当時の凱旋パレードによく似ています。ゼカリヤ書の9章にあるように、平和の王はロバに乗ってくると預言されているからです。イエス様は平和の王として凱旋し、そしてその道の先には、十字架を見据えておられました。
イエス様に従っていた人々は、病や職業のために律法学者たちや社会のエリートたちから差別され、弱くされていた人々でした。
キリストはそのすべての人々の間に平和をもたらすために、やってこられたのです。

2.弱さと罪を見る

私たちが生きる現代において、弱くされている人々とは誰のことを指しているのでしょうか。もしかしたら、心や体に病を持つ人や、マイノリティと呼ばれる人々、ホームレスの人々を思い起こすかもしれません。
それでは、私たち自身はどこにいるのでしょうか?
わたしたちの誰もが、自分が弱くされている、ということを思い起こすことは誰にとっても難しく、あるいはつらいことです。それは私たち自身に降りかかる差別や、苦しい経験を思い起こすことになるからです。
社会の中には私たちを傷つけてくるものにあふれています。つい先日も東京大学の入学式の祝辞が話題になったように、その裏側には、この社会には差別が当たり前に横行していながらも、誰もが見ないふりをしている、という現実があるということだと思います。
私たちは誰もが、差別を受け、傷つけられ、弱くされていくことがあります。
またその反面で、誰かを差別し、傷つけ、そして弱くしていく罪深さも持っているのです。

3.キリストの涙

イスラエルの人々の間にある平和は、このような罪深さによって失われていました。彼らの罪が行きつく先は、自分たちが弱くしていた人々に寄り添ったキリストの言葉を聞き入れず、十字架にかけるということでした。
私たちの現実においても同じであるのだと思います。私たちの間にある人と人との平和は、同じように失われています。神様との関係も多くの人々にとって失われています。
だからこそキリストの十字架の出来事は2000年も前に過ぎ去った出来事ではありません。今を生きる私たちの罪と弱さのために、キリストは十字架にかけられたのです。

4.十字架の意味

このようにして、キリストの十字架には二つのことが見えてくることであると思います。それは私たちが誰かを弱くしてしまう罪深さのゆえに、キリストは十字架にかけられていったのであるということです。そして私たち自身もまた誰かによって弱くされてしまう、その傷みの中に、キリストは十字架の苦しみによって寄り添ってくださっているのだということです。
これらのことを受け止めるために、私たちが普段振り返りたくないと思う、自分の薄暗い部分に踏み込まなければなりません。
キリストの十字架の意味は、その中にしか見いだせないものだからです。

5.讃美の声が再び上がるとき

私たちがキリストの十字架のゆえに私たちの弱さと罪深さに踏み込んでいくとき、それは祈りによって為されるものです。私たちは一人でそれに立ち向かうことはできません。そんなことをすれば、たちまち堪えられなくなってしまうからです。
その時、私たちの弱さのゆえに、罪深さのゆえに、私たちは祈りの言葉を失い、讃美の声すらあげられなくなるかもしれません。
しかし私たちがその痛みのうちに、キリストの十字架を見つけるとき、私たちは初めて、その十字架から復活されたキリストが、私たちにもその救いを与えてくださっているという喜びを受け取ることができるのだと思います。
その時にこそ、私たちは再び、本当の意味での讃美の声を、上げることができるのです。

復活祭(イースター)礼拝 20190421

次週4月21日(日)10時半から、復活祭(イースター)礼拝が行われます。

松本教会では鷲見達也牧師の説教
「婦人たちに示された復活」

長野教会では野口和音牧師の説教
「『必ず』と彼は言った」

と題して、両教会、聖餐礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
両教会礼拝後、祝会が行われます。女性会はありません。
野口和音牧師は長野教会におります。ぜひお越しください。

† † †

そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

 ──ルカ福音書24章1-12節

2019年4月17日水曜日

こどもイースターのご案内。

今週土曜日、20日には、松本教会ではこどもイースターが行われます。


4月20日の13時から15時、松本教会ではこどもイースターがあります。
イースターエッグづくりやクラフト、十字架のお花飾りなどをみんなでしたいと思っています。ぜひお越しください。
3さい以上のおともだちは、300円をもって教会にきてくださいね。
お待ちしています。


2019年4月16日火曜日

受苦日礼拝のご案内。

今週金曜日、19日は受苦日の祈りがあります。
松本教会では午前10時から、長野教会では午後2時半から行われます。

十字架と復活、どちらが欠けても救いはありませんでした。
キリストの受難をおぼえ、祈りを合わせるときとしたいと思います。

どなたでもご参加できます。是非お越しください。

† † †

イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

──ヨハネによる福音書 19章17節ー30節

枝の主日礼拝。 20190414

14日は枝の主日礼拝でした。
長野教会では主日礼拝として、松本教会は通信礼拝として守られました。


快晴に恵まれ、少しずつあたたかくなってきました。
長野教会の前に植えられている桜もぽつぽつと花開き始めていました。
来週のイースターには満開になっているかもしれないと少し楽しみです。


今週から受難週が始まりました。今週金曜日は受苦日礼拝です。
松本教会は午前10時から、長野教会は午後2時半からになります。


お昼は信徒の方の持ち寄りをいただきます。
八宝菜と天ぷらでしっかりおいしくお野菜を食べられました。


手作りのレモンケーキは、先週記念式典に来てくださった野口勝彦先生のレモンを使ったものとのこと。とっても美味しかったです。感謝。



松本は桜も満開になりました。
去年松本に来たときに来た公園と展望台に今年も花見に行ってきました。
長野は山がやっぱりきれいです。空気も澄んでいてすっきりとした気持ちに満たされました。

† † †

この記事をご覧の皆様にも
心が洗われるひと時が与えられますように。

2019年4月11日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

──ルカ福音書20章9-19節

† † †

1.あってはならないこと


ここでキリストのたとえ話は、神様が農夫たちにぶどう園を委ねなければ、ぶどうの実りは本来与えられることのなかった恵みであることを忘れてはならない、という悔い改めのメッセージを語っています。
キリストがたとえ話を終えられたあと、人々は「そんなことがあってはなりません」と言っています。
民衆たちはたとえ話から悔い改めのメッセージを聞き取り、主人である神様から委ねられているぶどう園の実りを自分のものとしてしまうことは、あってはならないことだ、と言ったのでしょう。
しかしそこで、律法学者たちは全く別の捉え方をしています。

2.救いは与えられるもの


律法学者たちは神様に正しくあろうとして、律法を守ることを第一に考えていた人々でした。
なぜなら律法を守るということは、神様から正しい(義)とされること、つまり救いが与えられるために必要なことであると信じていたからです。
彼らは、本来神様から与えられるはずの救いを、自分の力で手に入れようとしていた人々であったと言えるでしょう。
それはまさに農夫たちのように、救いという名のぶどうの実りを、神様から与えられるのではなく、自らの努力によって手に入れようとした姿に重なるのです。
だからこそ彼らは、「神様から委ねられたぶどう園が自分たちから奪われる」という「そんなこと」はあってはならない、と感じたのだと思います。彼らはたとえ話の通りに、神様の御子である「イエスに手を下そうと」しているからです。

3.神様に委ねていくとき


教会では「神様に委ねなさい」という言葉を多く聞くかもしれません。しかし私たちの日々の中でその言葉はどのような意味を持っているのでしょうか。
神様に委ねたところで、神様は何もしてくれない──結局私たちは自分で苦労をして、目の前にあることをやっていかなければならない、と思うかもしれません。
しかしそのように思う時にこそ、私たちは神様ではなく、自分たちが育てたぶどうにしか目を向けていないと言えるのではないでしょうか。
私たちがぶどうを育てることは変わりません。しかしそうして実ったぶどうを神様に再び委ねていくとき、神様はわたしたちの想像を超えた実りを与えてくださるのです。

4.委ねられているものを通して


神様は私たちにぶどう園を委ねられました。それは私たちに与えられているいのち、賜物、私たちが持っているものすべてを表すものです。
私たちが実際に生きて、考え、苦労し、人と関わる中で、様々なものが与えられることでしょう。人との出会いやつながり、お金や食べ物、喜びも悲しみも、私たちが生きているからこそ与えられていく、ぶどう園の実りなのです。
しかしその実りが小さいとき、自分にはこんなことしかできないと落ち込むときもあるかもしれません。だからこそ、神様はあなたの実りをいつもわたしに委ねなさいと呼びかけておられるのです。
私たちが生き、様々な実りが与えられていく中に、時に思いもかけない出会いが与えられたり、予想を超えた様々な出来事が起こるかもしれません。それは私たちの努力では収穫することのできない、確かな神様のわざなのです。
私たちが生きる中にいつも神様は働いてくれていると信じること、これこそ神様が働いてくださったことだと聞き取っていくこと。それこそが「神様に委ねる」ということであるのです。

2019年4月10日水曜日

枝の主日礼拝の御案内。

次週4月14日(日)10時半から、枝の主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「讃美の声は二度あがる」

と題して、長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
長野教会では礼拝後、定例役員会が行われます。
牧師は長野教会におります。ぜひお越しください。

† † †

イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

──ルカ福音書19章28-48節

2019年4月9日火曜日

四旬節第5主日礼拝。 20190407

6日の松本教会の記念式典に引続き、7日は四旬節第5主日礼拝でした。
長野教会は信徒礼拝として、松本教会は主日礼拝として守られました。



宣教60周年を迎えるなかで、その宣教の働きは神様によって確かに支えられてきたことを改めて思い起こしました。
ぶどう園と農夫の箇所から、神様から私たちに委ねられているすべてのものを感謝しつつ、共に新しい一歩を踏み出すことを分かち合いました。

また、前日に引続き、フィンランドからの宣教師であるMartti Poukka先生による前奏・後奏の奉仕をいただきました。



前奏はフルートで、後奏は力強く慰め深い讃美の声を響かせてくださいました。
感謝です。

昼食後は、「主の祈り」についてのお話しをいただきました。
ルターの小教理問答の解説と聖書の箇所を引きつつ、一つひとつの祈りについての学びを深めることが出来ました。
まさに主の祈りがすべての祈りの基本となっているのは、私たちが神様との対話として祈りをするとともに、祈りが私たちを日々の中へと改めて送り出していく、そのような力を持っているからこそであるのだと思いました。
また、塩原先生から祈りの力についての短い証もいただき、大変心にしみました。


† † †

この記事をご覧の皆さまも、
祈りを通して
神様の声と導きとを
聴き取ることができますように。

松本教会宣教60周年記念式典 20190406

4月6日は松本教会宣教60周年記念式典が行われました。



記念礼拝の中では、初代邦人牧師として着任された塩原久牧師から、「すべての造られた物に福音を宣べ伝えなさい」と題して、松本教会伝道所時代よりもさらに前、フィンランドミッションの歴史から振り返りつつ、当時の伝道についてお話ししていただきました。
福音を宣べ伝えること、伝道という働きはまさに神様のものであり、多くの人々との思いがけない出会い、かかわりとつながりの中で、この松本教会は立たされてきたのだということを思い起こすことのできるお話を分かち合うことが出来ました。

参加者の方々には、記念品としてステンドグラスと、礼拝堂に捧げられたステンドグラスをポストカードにしたものをお配りできました。


プレゼントされた記念品の制作者である山崎種之兄に感謝です。
ひとりひとりにプレゼントされた星のステンドグラスが、日々の上の導きの星となりますように。

礼拝後の茶話会にも御残りくださった方々が多くおられました。


教区代表として財務部長の中島康文牧師、甲信地区に新たに赴任された朝比奈晴郎牧師、筑田仁牧師からの御挨拶と、フィンランドからの宣教師であるMartti Poukka先生、そして前任者である野口勝彦牧師からの御挨拶をいただきました。
また、お送りいただいた祝電をご紹介させていただきました。


記念すべき年に牧師としてかかわることが出来たことをうれしく思います。
また、多くの方々のご参加とお祈りにおぼえていただいたことに感謝いたします。
60周年の歴史を振り返りつつ、61年目に向け、神様にお委ねして共に歩みを続けてまいりたいと思います。



2019年4月4日木曜日

四旬節第5主日礼拝の御案内

次週4月7日(日)10時半から、四旬節第5主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「あなたに委ねられているもの」

と題して、長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
松本教会では礼拝後、フィンランドからの宣教師であるPoukka先生から「主の祈り」についてのお話をしていただきます。
牧師は松本教会におります。ぜひお越しください。

† † †

イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。


──ルカ福音書20章9-19節

今週のみことば~主日説教要旨~

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

──ルカによる福音書15章11-32節

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1.うしなわれていた弟


父親が兄弟に分けた「財産」とは、「いのち・人生」という意味を持つ言葉でもあります。しかし弟はそれを自分の欲望のために金に換え、無駄遣いの限りを尽くしています。
弟は生きるのにも困るようになって初めて、父親のところにあった豊かないのちについて思いめぐらせ、悔い改めるのです。自分はもはや息子と呼ばれる資格すらないけれど、雇い人で十分だから、父親のところへ戻りたい。そう願って帰ってきた息子を、父親は叱るどころか赦しと愛をもって、雇い人としてではなく、息子として再び迎えるのです。

2.神様から与えられ、神様のために用いる


神様から与えられたいのち、というと少しぼんやりとしたものを思い浮かべてしまいますが、たとえば自分が得意だと思うことや、長所を思い浮かべるとわかりやすいかもしれません。
他の人より得意なことで誰かの役に立てることは悪いことではありませんが、それによって得られる満足感を自分の中心に置いてしまうなら、私たちは満足感を得るために自分自身のいのちを切り売りすることになるでしょう。それはいっときの満足に過ぎず、またすぐにも飢え渇いてしまうことになります。
弟は雇い人にしてもらうために父親のところへ帰ることを決意します。父親のところには、あふれるほどのパンも雇い人もたくさんいることを思い出したからでした。私たちに与えられたいのちは、神様のために用いるときにこそ、尽きることなく、満たされるものとなるのです。

3.二人の息子


自分の思い通りにしたいと願う欲望によって神様から自ら離れ、飢え渇いてしまう者を、神様は赦し、再び受け止めてくださるという愛と救いを、このたとえ話からは聞き取ることができます。しかしこのたとえ話が語っていることはそれだけではないのです。たとえ話の初めに、キリストは「二人の息子がいた」と語り始めておられるからです。兄の物語を通して、キリストは私たちに鋭い問いかけを残して終わるのです。

4.うしなわれていた兄


兄は弟の待遇に怒りをもって父親に反論しています。兄は弟とは正反対に、一度も父親に背くことなく過ごしてきました。「それなのに、」弟ばかりが父親から贔屓をされているように見えたのかもしれません。
それゆえ兄はここで「私は神様に従った、だから神様も私の願いを聞いてくれてもいいだろう」と願っているのです。弟は従わないことによって、兄は従うことによって、神様から与えられる「財産/いのち」をわがものとする欲望にとらわれているのです。

5.うしなわれている私たちに向けて


このたとえ話は、確かな救いがあるという福音が弟の姿を通して語られると同時に、私たちにその先の信仰生活について問いかけを与えてくれるものでもあります。私たちは日々聖書のみ言葉に従って歩もうとする中で、いつしかその報いを対価として求めてしまってはいないでしょうか。
だからこそ神様は私たちに「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」と言ってくださっています。私たちに必要なすべてのものは既に与えられていることを思い起こし、悔い改めるとき、キリストに従うことによって起こる私たちの飢え渇きもまた、取り除かれていくのです。
神様は、この二人の息子の姿を通して、キリストの言葉によって共に生きる人々の救いの喜びを分かち合う祝宴へと私たちを招いておられます。
キリストの言葉を聞く私たちは、一人ではありません。誰もが神の家族の一員として招き入れられる、その祝宴への招きに応え、共に喜びを分かち合うような、信仰の歩みを続けてまいりたいと思います。

2019年4月1日月曜日

四旬節第4主日礼拝。 20190331

昨日31日は四旬節第4主日の礼拝でした。
長野教会は信徒礼拝として、松本教会は主日礼拝として守られました。
松本教会の庭にあるあんずの木がきれいに開花していました。



昼食は信徒の方が作ってくださったカレーをいただきました。
牧師がカレーが大好きですと言ったからか、牧師がいるときは結構カレーを作ってくださいます。おいしいです。感謝。


いよいよ今週土曜日、4月6日は松本教会宣教60周年記念式典が行われます。
皆で手分けをして教会全体の大掃除を行いました。
ご協力くださった方々には感謝いたします。
式典を通して、共に喜びを分かち合う良き日となればと思います。

また、寒暖の差が激しい季節がやってきました。
体調を崩される方もおられて心配です。
休息と癒しが与えられますように。

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この記事をご覧の皆様も
平安がありますように