2019年5月30日木曜日

次回・6月2日の礼拝のご案内。

次週6月2日(日)10時半から、昇天主日の礼拝が行われます。

長野教会では清重尚弘牧師の説教
「喜びと賛美の人生が始まる」

松本教会では伊藤文雄牧師の説教
「目を高く挙げて」

と題して、松本教会では聖餐礼拝として、長野教会では主日礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。

† † †

イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
 24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

──ルカ福音書24章44-53節

2019年5月28日火曜日

復活後第5主日礼拝とルターナイツinまつもと 20190526

26日は復活後第5主日礼拝でした。
松本教会では恩師である田中良浩牧師に巡回説教者としてきていただき、長野教会では聖餐礼拝として守られました。



復活節のみことば振り返りながら、来週の昇天主日と聖霊降臨祭に向けて聖霊を送ってくださる約束を分かち合いました。


礼拝後は皆様でお昼をいただきました。
五月末だというのに30℃を超える日となり、夏がやってきたようです。
お昼も夏らしいメニューを持ち寄ってくださいました。感謝です。
今年も暑くなりそうです。スタミナをつけて乗り切りたいと思います。

夜18時半からは、松本教会でルターナイツinまつもとが開かれました。



まず初めに、バブ&イケちゃんのお二人によるビートルズの曲を熱唱していただきました。
お二人は幼馴染とのことで息もぴったり!
「And I Love Her」や「Here Comes Sun」、「Let It Be」などを演奏していただきました。


牧師の讃美歌ウラ話コーナーは、今回は番外編!
せっかくなのでビートルズ関連から、ジョン・レノンの信仰とイマジンについて。
キリスト教会では会見での「キリスト発言」のため、ジョン・レノンは反キリスト教主義者だと言われていたこともありましたが、彼のその後の発言と歌詞から、彼の発言は実は聖書のメッセージに裏打ちされた信仰から出たものであったのではないか、という考察をしていきました。


最期に再び参加していただきました、コカリナ奏者の竹下雅道さんです。


屋久島の旅行記を振り返りつつ、縄文杉の歴史の長さと壮大さを目の当たりにしながら、澄んだコカリナの音を響かせてくださいました。
演奏の後は、皆さんでお食事を分かち合いました。


次回のルターナイツinまつもとは9月の予定です。松本教会にてお待ちしています。

2019年5月23日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

──ヨハネ福音書13章31-35節

† † †

1.わたしがあなたがたを愛したように

「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉が聖書にはあります。この教えはユダヤ人たちがすでに持っている律法の中に記されているものであり、またイエス様ご自身も最も重要な掟として選んでおられました。
しかしこの言葉だけが独り歩きすると、私たちの愛は、自分がして(されて)好きなこと(もの)を他者に押し付ける、自分本位な愛になってしまうこともあります。
イエス様は弟子たちに対して新しい掟を与えられました。それは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」というものでした。
この掟の「新しさ」は「わたしがあなたがたを愛したように」という点であるのだと思います。

2.イエス様の愛し方

イエス様が人々に関わっていかれるとき、人々を見て「深く憐れまれた」という表現がたびたびでてきます。この元の言葉の意味は「はらわたがよじれるほどの痛み」というギリシャ語から来ています。イエス様は人々の苦しみを自分のものとして受け止めていく、そのような関わりをもっていかれました。
その人自身を知り、それを自分のものとして受け止めて、関わっていくこと。自分本位ではなく他者を中心に置いた関わりこそが、イエス様の愛のかたちであったのです。

3.自分の力でこの掟は守れるか

この掟を守るために、私たちが他者を中心に置いた関わりを持とうとするときには、まず私たちはその人を知ることから始めなければならないことに気が付くと思います。
けれどもこの人のことは何でも知っている、という関係の方がいたとしても、その人との関わりのなかで、全くの善意でしたことが誤解を生んだり、傷つけてしまうことも起こりえます。
その意味において、私たちが私たちの力だけで誰かを愛することには限界があるのです。
この直後に記されている、ペトロが「あなたのためなら命を捨てます」とまで誓った言葉が、現実には逃げ出してしまったという出来事からもそれがわかります。

4.愛を示す十字架

この場面はイエス様がユダに裏切られ、十字架にかけられていく前の晩の出来事でした。
裏切っていくユダも、そして十字架の前に散り散りに逃げ去ってしまう弟子たちも、イエス様は引き止めようとはしませんでした。私たち人間が持つ愛の限界をも知っておられたからです。だからこそ彼らを赦されたのです。十字架を通してキリストはその愛を示されたのです。

5.神様の愛を中心に置く

キリストが十字架におかかりになったあとの弟子たちのために、つまりイエス・キリストの言葉を信じるすべての人々のために、この新しい掟は与えられています。
この掟を守るためには、私たちはまず神様が私たちをどのように愛してくださったのかということに目を向けなければなりません。愛されていることを通して、愛することを学ぶことができるからです。そして本当の愛とは、神様のところにしかないからです。
私たちは愛の限界を持っているがゆえに、それをそのままに行っていくことはできません。けれども私たちが誰かを愛そうとするとき、わたしがあなたを愛する、ではなく、神様があなたを愛しておられる、ということをその関わりの中心に置くことから始めたいのです。
私たちが愛の限界に躓くとき、それは誰かを赦せなかったり、傷つけてしまったりするときかもしれません。だからこそ私たちは神様の愛のゆえに赦されていることを通して誰かを赦し、傷つけてしまった誰かとの関係を修復するための勇気をいただいていきたいのです。
そのような私たちの姿を通して、今なお生きるイエス・キリストの姿が顕されていくのです。

2019年5月22日水曜日

次回・5月26日の礼拝案内。

次週5月26日(日)10時半から、復活後第5主日の礼拝が行われます。

長野教会では野口和音牧師の説教
「かたわらに立つ者」

松本教会では田中良浩牧師の説教
「平和を残し、平和を与えるキリスト」

と題して、松本教会では主日礼拝として、長野教会では聖餐礼拝として守られます。
野口牧師は長野教会におります。
どうぞご自由にご参加ください。

† † †

イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。

──ヨハネ福音書14章23-29節

2019年5月21日火曜日

いのち学 第1回(2019年度)

昨日の月曜日、20日は松本教会にていのち学が行われました。


今年の副題は「素粒子・生命・人間・宇宙の不思議」です!
今回は宇宙のビックバンから素粒子のお話などをお聞きしました。


お食事をしながら質疑応答も。
話題が盛り上がります


科学と宗教とは相いれないと思われる方もいらっしゃいますが、実は問い方が違うだけであり、相反するものではありません。
科学はhow(どのようにして)、宗教はWhy(なぜ)、世界がこうであるのかという一つの問いに答えを出そうとしているだけであるからです。

そして科学の先端を進めば進むほどに、聖書の詩的な表現もまた大変リアリティをもった言葉として聞こえてくる、ということでもあるのだ──ということを主軸にして、お話してくださいます。

† † †

次回は6月17日(月)19時からの予定です。
どなたでもご参加できます。
松本教会へぜひお越しください。

復活後第4主日礼拝・松本教会墓前礼拝。 20190519

日曜日、5月19日は復活後第4主日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。


松本教会では礼拝とお昼の後、中山霊園教会墓地にて墓前礼拝が行われました。
ご遺骨を納められた方々をおぼえつつ、今を生きる私たちのとっても、復活の約束という希望を受け取るときとして分かち合いました。


また、墓前礼拝と合わせて、今年三月に天に召された方の納骨式を行いました。
故人の歩みが確かに神様によって導きのうちにあったことを思い起こしつつ、皆で祈りを合わせました。


キリスト教において、死はこの世との別れではありますが、それは永遠の別れではありません。
イエス・キリストは「私を信じる者は死んでも生きる」と言ってくださいました。
キリストを信じ、神様に結ばれて天に召された方々は、天の御国において復活の命を与えられる約束のうちにあります。
神様の御国において私たちは再び会うことができる、その希望のゆえに、私たちはこの世の生を精いっぱい歩んでまいりたいと思うのです。

ひるカフェ&手仕事会 5月!

先週の金曜日、17日は松本教会にてひるカフェ&手仕事会が行われました。
お昼に皆さんで集まって、礼拝堂前のスペースでランチを一緒にいただきました。



今回の手仕事会ではフランスの伝統工芸「カルトナージュ」を作りました。
厚紙を組み立てたものに紙や布などを貼り付けたもの全般がカルトナージュと呼ばれるものだそうです。
今回作ったものは、ポストカードなどを中に入れる額としてのカルトナージュでした。

一例。枠が太いので枠自体をオシャレにできます


今回はダンボールを額の基礎として、皆様に持ち寄ってもらった布や紙などをそこに張り付けて額にしていきました。


完成
素敵なカルトナージュが出来上がりました!

† † †

次回ひるカフェ&手仕事会は6月21日の予定です!
告知はこのブログでも行います。
どなたでもご自由にお越しください。

2019年5月16日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」


──ヨハネ福音書10章22-30節

† † †

1.わたしの羊ではない

イエス・キリストとは何者であるのか、という問いに対して、イエス様は多くのたとえを用いて答えられています。ヨハネによる福音書の10章には「わたしはよい羊飼いである」ということがファリサイ派の人々に向かって語られていますが、彼らは理解することが出来ず、またユダヤ人たちの対立を深めただけでありました(ヨハネ10:19)。
それゆえユダヤ人たちの「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」という言葉からは、イエス様からメシアであるという言質を引き出し、明確な敵・悪として裁きたいという思いが聞き取れます。
それゆえイエス様は彼らに繰り返して言うのです。
「あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである」。

2.ユダヤ人がイエス様を拒んだ

この言葉は、イエス様が彼らを救いにふさわしくないと見捨てた言葉ではないのだと思います。
なぜなら「わたしはよい羊飼いである」と話し始められたのは、他でもないファリサイ派の人々、ユダヤ人たちに向けて語られたたとえ話であったからです。
「私の羊は私の声を聞き分ける」と言われた通り、イエス様がユダヤ人たちを見捨てたのではなく、ユダヤ人たちがイエス様の羊であることを拒んだのです。

3.イエス様は聞き従わない人を見捨てたか

イエス様はたとえ話の中でファリサイ派の人々に向かって言われます。「わたしには、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない(10:16)」。
その上で、ユダヤ人たちに向けて答えられた「あなたたちは信じない」「私の羊ではないからである」という絶望的な言葉の裏側には、だからこそあなたがたにも信じてほしい、神様との関係が回復されてほしいのだと呼びかけておられる、イエス様の、神様の愛にあふれた思いが込められているのだと思います。
なぜならそこには絶えず神様の側からの「わたしは言ったが」「業によって証をしたが」という呼びかけがあるからです。

4.羊飼いと羊の関係

ヨハネ福音書において、羊飼いと羊のように、神様を信じることは神様と関係を持つこととして表現されています。
関係は一方が他方を強制することはできません。神様は「わたしは彼らを知っており」、羊は「わたしの声を聞き分け」、「従う」(10:27)という相互の応答関係こそが、信じるということであるのだと言うのです。
それは既になされている神様からの呼びかけを、私たちが日々の中にある出来事から聞き取り、信じていくことに他なりません。
そうして私たちが神様の呼びかけに応えるとき、「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」という揺るがない約束を与えてくださるのです。

5.羊飼いイエス

そのような神様と私たちとの関係性をあらわすしるしが、洗礼と呼ばれるものです。
もちろん、洗礼を受けたとしても時にはユダヤ人たちにように神様から離れてしまうことも起こります。しかしだからこそ洗礼は、私たちに与えられた揺るがない約束を思い出させる「しるし(sign)」となるのです。
イエス様は「わたしはよい羊飼いである(10:7)」と言われました。
私たち一人ひとりもそのしるしを通して、イエス・キリストを通して神様から恵み深い約束が与えられていることを思い起こしたいのです。
そしてその約束のゆえに、羊である私たちは、羊飼いであるイエス様の御言葉に、聞き従ってまいりたいと思います。

復活後第4主日礼拝の御案内。

次週5月19日(日)10時半から、復活後第4主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「本当の愛とは何か」

と題して、松本教会では聖餐礼拝として、長野教会では信徒礼拝として守られます。
松本教会では礼拝後、中山霊園にて墓前礼拝が行われます。
牧師は松本教会におります。
どうぞご自由にご参加ください。

† † †

さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」


──ヨハネ福音書13章31-35節

2019年5月14日火曜日

復活後第3主日礼拝・洗礼式。 20190512

12日は復活後第3主日礼拝でした。
松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として守られました。



また、長野教会では洗礼式が行われました。
私にとっても牧師として初めての洗礼式で、大変喜びに満ちた恵み深いときを与えられました。
また、松本教会とは通信でつながっており、その時を分かち合うことが出来ました。感謝です。

信仰告白

授洗

長野教会洗礼盤
お昼はプチ祝会となりました。持ち寄りのお食事を美味しくいただきました。
教会員の方々との自己紹介と共に、皆さんからそれぞれの信仰遍歴についてのお話もいただきました。
教会が信仰について語り合える場としてこれからも守られますように。



教会に行ってみたい、聖書についてちょっと教えてほしい……という方など
お気軽に教会までお越しください。
牧師宛のご連絡はメールフォームからどうぞ。

† † †

神様の導きと恵みが
日々の中に豊かにあることを
聞き取っていくことが出来ますように。

世界の子ども支援JELAチャリティーコンサート

先週11日(土)は松本教会を会場にして、世界の子ども支援・JELAチャリティーコンサートが開かれました。


今年はヴァイオリンの真野謡子氏、チェロの松本恒瑛氏による演奏となりました。
プログラムの中ではデュオ演奏だけではなく、それぞれのソロ演奏が披露されました。
ミルシュタインのパガニニアーナや、モーツァルトのヴァイオリンとチェロのための二重奏曲など、アンコールを含めて2時間ほどのボリューム満点の演奏会となりました。



大変天気の良い日でした。40名近くの方々にお越しいただきました。
捧げられた席上献金は世界の子ども支援のために用いられます。感謝します。


2019年5月12日日曜日

ひるカフェ&手仕事会のご案内。

5月17日、日本福音ルーテル松本教会にて「ひるカフェ&手仕事会」が行われます!


5月のひるカフェ&手仕事会は、
フランスの伝統工芸”カルトナージュ”をつくろう!です。

お好きな柄でかわいい手作りフレームを作ってみませんか?
お気に入りの写真やポストカードを飾るのに……周りもちょっと華やかにするのも素敵ですよ。

5月17日12時より、日本福音ルーテル松本教会にて行われます!
参加費はランチ代も込みで500円!お好きな柄の包装紙など、材料のご用意をお願いいたします。

締め切りは5月15日(水)までです!
直前案内になって申し訳ありません!
教会に通っておられなくても全然大丈夫!ぜひお待ちしております。

会場の松本教会はこちらです。


ルターナイツ in まつもとのご案内

5月26日(日)の18時30分から、
松本教会にてルターナイツ in まつもとが行われます!


今回のプログラムは……
・バブ&イケちゃん(小口和弘さん、池田良之さん)のビートルズコピーバンド
・竹下雅道さんのコカリナ演奏と屋久島旅行記

です!
今回も野口和音牧師のヴァイオリンと、”讃美歌のウラ話”もあるカモ?

参加費は軽食込みで500円、事前申し込みは不要です。
日曜日の夜を、ちょっとトクベツな時間にしませんか?

皆様どうぞご参加ください。お待ちしています。

†会場の松本教会はこちらです†

2019年5月9日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。


──ルカ福音書24章36-43節

† † †

1.恐れに満たされているとき

先週の箇所、エマオから二人の弟子たちがエルサレムへと帰ってきたところから、今日の箇所は続いています。ここでイエス様は二人の弟子たちやペトロだけではなく、全ての弟子たちの前に姿を現されました。
ルカ福音書におけるキリストの復活物語の中で、婦人たちとは違い、弟子たちは十字架の過去に囚われ続け、復活を受け止めきれない姿が繰り返し描かれています。
十字架を前にして逃げ出してしまったという裏切りと罪の意識、そして自分もまたイエスの弟子として十字架にかけられてしまうかもしれないという恐れが、彼らの目を遮り、心を閉ざしていたのです。
だからこそ、復活のイエス様が現れたとき、弟子たちは恐れのあまり「亡霊を見ているのだと思った」のです。

2.キリストによって立たされる

使徒言行録には、キリスト者を迫害していたサウロという人が復活のキリストに出会い、彼もキリスト者として起こされていく、回心の出来事についての物語があります(使徒9:1-20)。
「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで(使徒9:1)」いる迫害者であったことは誰もが知っていることでした。
しかし目の見えなくされたサウロのもとに主の弟子アナニアを遣わしたキリストは、彼に言うのです。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」
復活のキリストによって、キリストの迫害者サウロが、福音宣教者パウロとして新しく立たされていったという出来事がここに起こっています。
今日の福音書の箇所との共通点はここです。復活の主が弟子たちの前に現れてくださることによって、彼らもまた福音を宣べ伝えるための証人として再び立たされていったのです。

3.平和のために

キリストは弟子たちに向けてこのように言われました。
「あなたがたに平和があるように」。
キリストは生前、弟子たちを送り出す時にも、迎え入れてくれた人々に対してこの言葉を言うようにと教えていました。ですからこの言葉は祈りの言葉であるのだと思います。
そして、閉じこもっていた弟子たちを福音の証人として送り出す言葉であり、敵対者をも回心させたキリストが語ってくださった言葉であるのです。
だからこそ復活のイエス様ご自身が「彼らの真ん中に立ち」、「平和があるように」と祈られたのは、敵対者たちとの間に、疑いと不安の中にいる人々の間に、そしてすべての人と人との間にある関係に、「平和があるように」と、真ん中に立って祈ってくださった、ということだったのだと思います。

4.平和へ向かって

令和、という元号と共に、また一つ、新しい時代が始まりました。
万葉集第5巻から取られたこの言葉には、「和の始まり(令)」という意味を持っているのだそうです。私たちがこの言葉をキリスト者として受け止めようとするとき、わたしたちはキリストが祈ってくださった「あなたがたに平和があるように」という祈りを重ね合わせてまいりたいと思います。
私たちの間に来られた復活のキリストが、私たちの平和を祈ってくださっている。
迫害者であったサウロにすら語り掛けてくださった神様だからこそ、今や最も神様から離れているとさえ思える世界のありようにおいても、神様は確かに生きておられるのだということを、私たちは信じていきたいと思います。
そしてこの祈りのゆえに立たされていった主の弟子たちのように、私たちもまた、キリストの平和を携えて、キリスト者として立たされてまいりたいと思います。

2019年5月8日水曜日

いのち学の御案内。

再来週5月20日(月)19時より、松本教会にて
「いのち学~素粒子・生命・人間・宇宙の不思議~」が行われます。



2019年度、いのち学始まります!
今年度のテーマは「素粒子・生命・人間・宇宙の不思議」です!
生命科学としての「命」について、
そしてその枠を超えたわたしたちの「いのち」について──。
信州大学名誉教授で癌の研究者でもある谷口俊一郎先生を講師として、共に考える時を持ってみませんか?

前回までの内容も振り返りながらですので、今回からの参加でも大丈夫です!
参加費は500円。 事前申込は不要です。

5月20日の19時から日本福音ルーテル松本教会にて行われます。
当日お時間のある方はぜひお越しください。
また、お問い合わせは日本福音ルーテル松本教会まで。

†会場の松本教会はこちらです†

復活後第3主日礼拝の御案内。

次週5月12日(日)10時半から、復活後第3主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「羊飼いイエス」

と題して、松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として守られます。
当日は長野教会にて洗礼式も行われます。
牧師は長野教会におります。
どうぞご自由にご参加ください。

† † †

そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

──ヨハネ福音書10章22-30節


2019年5月7日火曜日

復活後第2主日礼拝。20190505

5月5日は復活後第2主日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。



ゴールデンウィークの中で特に話題になった新しい元号について触れながら、人の間に立って「平和があるように」と祈ってくださっているキリストの姿を御言葉から分かち合いました。


お昼ご飯は信徒の方が作ってくださったカレーです。
何種類ものルゥをブレンドし、しっかり煮込んだ美味しいカレーでした。
昼食後には、今週末のJELAコンサートに向けて協力して教会内の掃除をしました。
多くの方が来られることを祈っています。


† † †

この記事をご覧の皆さまにも
神様が共におられて
平和へと導いてくださいますように

2019年5月2日木曜日

今週のみ言葉~主日説教要旨~

ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。


──ルカ福音書24章13-35節

† † †

1.目をさえぎっているもの

キリストが復活した、という言葉を婦人たちから聞き、墓を見に行ってイエス様の遺体がなかったことを確認していながらも、二人の弟子たちにとって、それ以上の意味を持ってはいません。
彼らがイエス様について語っているとき、そのすべての言葉で過去形が使われています。弟子たちの中では、復活して今、生きておられるイエス様よりも、十字架にかかっていかれたイエス様ばかりが思い起こされているのです。
このことは、復活して生きておられるキリストが、自分にとってどのようなかかわりがあるのかという実感が持てないでいる、ということなのだと思います。
それゆえ、復活のキリストが彼らと共に歩き始め、会話を交わしてなお気付けない、彼らの目をさえぎっているものとは、過去のキリストの姿に囚われた彼らの心であったのです。

2.神様は今ここに

天使は婦人たちに、「イエスは生きておられる」と語り、婦人たちはそれを弟子たちに伝えていきました。
私たちもまた、弟子たちが婦人たちから聞いたように聖書からこの言葉を聞くとき、どれだけ実感をもって受け取ることができるでしょうか。
確かに、私たちは日々の中に起こることを通して神様の働きを聞き取ることがあります。
けれどもそれは今この瞬間に働く神様の姿よりも、過去を振り返り、そこに働いておられた神様の姿を見出すことのほうが、多いのではないでしょうか。
今、復活されたキリストが私たちと共におられることをその瞬間とは、いったいどのようなときであるのでしょう。

3.目が開かれる

エマオへの途上と呼ばれて親しまれてきたこの箇所を通して、弟子たちの目が開かれていくことを通して、復活のキリストが今、生きて関わっておられることを弟子たちが知ることが表されています。
キリストは二つのことを通して弟子たちに関わっていかれました。それは、聖書の説き明かしであり、聖餐を思い起こさせるパン裂きの行為によってでした。
弟子たちは十字架の死と空の墓について知っていました。
しかしそれは出来事として知っていただけであり、自分たちにとってどのような意味を持つかと考えるまで至ってはいません。
だからこそキリストは「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のです。このことを通してキリストは、弟子たちが経験した出来事と、聖書のみ言葉とを結び合わせる導き手となってくださったのです。
さらには共に食事の中で行われた聖餐の行為を通して、それが見えるものとして示されていったのです。

4.いま、ここに

宗教改革者マルティン・ルターは、聖餐を「見えるみ言葉」と呼びました。
それは聖餐が「これはわたしのからだである」「わたしの血である」というみ言葉を通して、キリストがパンとぶどう酒に「いま、ここに」来られる儀式であるからです。
キリストはこれを最後の晩餐の際、そして今日の箇所において弟子たちの前で行うことによって、み言葉の説き明かしによるだけではなく、彼らの過去の中に生きているキリストを、今目の前でパンを裂くその人へと結び付けていったのです。

5.心が燃やされる言葉

私たちが日々の中に神様のお働きを見つけるとき、それは私たちの現実がみ言葉と結び合わされるときであるのだと思います。そしてそのすべてがキリストと共に分かち合われる場所こそが聖餐の交わりであることを、キリストは示しておられます。
だから私たちは教会に、礼拝に集うのです。
み言葉であるキリストが私たちのすべてを神様と結び付けてくださるとき、そのみ言葉は、私たちの心を燃やすものとなるのです。
弟子たちが心燃えてエルサレムへと再び帰っていったように、私たちと今、共に生き、共に歩んでくださるキリストを、このみ言葉と礼拝、そして聖餐を通して感じてまいりたいと思うのです。

2019年5月1日水曜日

復活後第二主日礼拝のご案内。

次週5月5日(日)10時半から、復活後第2主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「あなたがたに平和があるように」

と題して、松本教会では聖餐礼拝として、長野教会では信徒礼拝として守られます。
牧師は松本教会におります。
どうぞご自由にご参加ください。

† † †

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

──ルカ福音書24章36-43節