──ルカ福音書7章11-17節
† † †
1.やもめの悲しみ
当時のイスラエルにおいて、妻は夫の所有物、財産と数えられていました。それゆえ、やもめ──未亡人となった女性が男性の力を借りずに、一人で生きていくことは大変難しいことであったと思います。やもめは母親であり、一人息子がいました。それはたった一人の家族でありました。若者であった、ということからも、もしかしたら彼女を経済的にも支えていたかもしれません。
それゆえ、たった一人の家族を失った彼女の悲しみは計り知れないものです。彼女は最後まで一言も言葉を発してはいないからです。
そこに、イエス様は一人息子を生き返らせるために、やってこられました。
2.民を心にかける神様
生き返らされた若者を見て、人々は「神はその民を心にかけてくださった」と讃美の声をあげています。この「心にかけてくださった」と訳された言葉は、ルカ福音書では1章78節のザカリアの預言の中にも使われています。
「これは我らの神の憐みの心による。この憐みによって、高いところからあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の影に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」
ここでは「訪れる」という言葉に訳されています。
それゆえ、人々がイエス様の奇跡を通して見たのは、まさにイエス・キリストという神様が、人々に訪れ、憐れみのゆえに心をかけてくださったのだということが、ザカリアが預言したとおりに、はっきりと人々の口から語られることになったのです。
3.もう泣かなくともよい
ルカ福音書で初めてイエスを「主」と地の文で呼んでいるのも、ここが最初です。ここでのイエスの言葉は、神の言葉として語られています。一言も声を発することさえできない悲しみに沈んだ彼女に、神様の言葉が力強く響いていくのです。
「もう泣かなくともよい」のだと。
それは私たちの深い悲しみに対して、深い憐れみをもって寄り添ってくださる神様である、ということであるのです。
4.語られ続ける神の言葉
この箇所のの直前には百人隊長の部下を癒す話が置かれています。ここで百人隊長の部下はイエス様に手を触れて癒してもらったのではありません。イエス様が部下のところに到着する前に、百人隊長がこのように言っているからです。
「ひとことおっしゃってください。そして、わたしの僕を癒してください。」
神様の言葉は語られるだけで、それが実現するということを百人隊長は固く信じていたのだと思います。そしてそれゆえに、部下は癒されていきました。
ルターもまた、この世に光があるのは、神が今もなお聖書を通して「光あれ」と言ってくださっているからだと語っています。
聖書を通して、神様はその言葉を今なお語り続けてくださっているのです。
5.その悲しみに憐れみを
私たちも大きな悲しみや不安にさいなまれるとき、心が疲れ果て、一歩も動けず、神様に祈ることすらもできなくなる時があるかもしれません。しかしそのようなときにも、神様はきっと、今日の御言葉を私たちに向けて語ってくださっているのだと思うのです。
「もう泣かなくともよい」のだと。
そのように憐れみをもって私たち一人ひとりに心をかけてくださる神様が、聖書のみ言葉を通して私たちのところにも、訪れてくださっています。
私たちの生きる中に神様が語ってくださっている御言葉を、いつでも聖書の中から聞き取ってまいりたいと思います。