2019年7月31日水曜日

次回・8月4日の礼拝案内。

次週8月4日(日)10時半から、聖霊降臨後第8主日の礼拝が行われます。

長野・松本教会では野口和音牧師の説教
「許さないと赦されないの?」

と題して、長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られます。
礼拝後、松本教会ではこどものためのデイキャンプが行われます。
野口和音牧師は松本教会におります。
どうぞご自由にご参加ください。

† † †

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

──ルカ福音書11章1-13節

2019年7月30日火曜日

聖霊降臨後第7主日礼拝。20190728

28日(日)は聖霊降臨後第7主日礼拝でした。
長野教会では聖餐礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られました。



長野教会では久しぶりに来た方もおられ、最近では一番にぎやかな主日となりました。
マルタとマリアの聖書箇所から、み言葉に立つことから奉仕のわざが始まることを分かち合いました。

4週目の通信礼拝は、長野教会では聖餐礼拝、松本教会では主日礼拝として守られるため、聖餐の部以降はそれぞれの教会で守ります。
松本教会の派遣の部は信徒礼拝として守られました。

集会所での通信礼拝。
ホワイトボードにスカイプの画面を映し出します

派遣の部は信徒が司式を担います

長野教会では昼食後、婦人会が行われました。
秋久牧師の女性会聖研の冊子を用いながら、神様による正しい裁きとゆるしがあることの幸いを分かち合いました。

† † †

この記事をご覧の皆様にも
神様のみ言葉が届き
養いと力になりますように

2019年7月25日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


──ルカ福音書10章25-37節

† † †

1.隣人を選ぶ人

律法の専門家が「わたしの隣人とはだれですか」とイエス様に問いかけています。この問いは律法学者たちの間で長らく答えの出ない問いでありました。
そこに、イエス様はこのようなたとえ話を語られるのです。
ある人が追いはぎに襲われ、倒れているところに、祭司、レビ人、サマリア人の三人がそれぞれ通りかかりました。しかし祭司とレビ人は「道の向こう側を通って」避けて通り過ぎていきました。
当時のイスラエルにおいて、宗教的な儀式は日々のあらゆるものに結び付いていました。
特に祭司やレビ人は人々に律法を語り、律法を遵守する立場にありました。
そのような彼らが「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉を知らなかったはずがありません。それでいて追いはぎに襲われた人を避けて通っていったのは、彼らが「隣人」が誰なのかを、自分で取捨選択していた、ということを表しています。
それは「自分を正当化しようとして」罪人から目をそらし、律法を守っている人々だけを隣人としていた律法の専門家のことであったのです。

2.隣人に選ばれる人

たとえ話の中で、サマリア人だけが追いはぎに襲われた人を助けています。彼は追いはぎに襲われた人を「憐れに思い」、介抱しています。そこにあるのはただの同情ではありません。
この言葉は新約聖書に12回ほど登場しますが、3回がこのようなイエス様のたとえ話、残りの9回がイエス様ご自身が奇跡を起こされるときの思いに使われています。
いてもたってもいられないほどに心を震わせる、神様ご自身の共感によって、彼は手を差し伸べられていくのです。
それゆえ、サマリア人が彼を隣人として選んだのではありません。
追いはぎに襲われた人が、サマリア人を隣人として、選んでいったのです。

3.愛に突き動かされていく

わたしたちにとって、隣人とは誰でしょうか。
もしここで文字通りに近しい人、愛している人や最も親しい人、同じクリスチャンといった枠にとどまっているのだとしたら、私たちはもう一歩、踏み込んで捉えなければならないでしょう。
隣人とは具体的な誰かに留まることがないからです。
身体的にも、霊的にも、助けを求めてあえいでいる人であれば誰であれ、寄り添い、痛みに共感していくことで、私たちはその人の隣人とされていくのです。
なぜ私たちがそのようにしていくのか──その理由は一つしかありません。
そこには助けを求める人々を憐れに思い、いてもたってもいられない、そのような神様がおられるからです。
そのような神様を、私たちが「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、」愛しているからこそ、私たちもその愛に突き動かされていくのです。

4.あなたの隣人は誰か

「隣人を自分のように愛しなさい」という神様の言葉には、私たちが自分を愛していることが前提とされています。
わたしたちがまず愛すべき隣人とは、私たち自身であるのだと思います。私たちが傷つき、誰も愛することが出来ないほどに倒れこんでいるとき、神様は深い愛をもって、手を差し伸べてくださるお方であるのです。
あなたの隣人とは、誰でしょうか。
先週のみ言葉を通して、私たちは神様の思いを私たち自身の思いとすることを聞きました。そして今日の箇所で、イエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われています。
神様が愛をもって私たちに関わってくださっているように、私たちも全ての人のうちに、神様の愛をもって関わってまいりたいと思います。

2019年7月24日水曜日

次回・7月28日の礼拝案内。

次週7月28日(日)10時半から、聖霊降臨後第7主日の礼拝が行われます。

長野・松本教会では野口和音牧師の説教
「必要なことはただ一つだけ」

と題して、長野教会では聖餐礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られます。
礼拝後、長野教会では女性会が行われます。
野口和音牧師は長野教会におります。
どうぞご自由にご参加ください。

† † †

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 ──ルカ福音書10章38-42節

2019年7月22日月曜日

聖霊降臨後第6主日礼拝。20190721

先週日曜日、21日は聖霊降臨後第6主日の礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。

本日から、松本教会の集会所(甲信地区センター)に待望の冷房が設置されました。
それに伴い、礼拝も集会所に移動して守られました。

甲信地区センターにて
現在の礼拝堂に改築する際にもこの集会所で礼拝をしていたのだそうです。
そのときに、壁の十字架は設置されたとのこと。
京都アニメーション放火事件をおぼえて祈りを合わせました。

側面に一つ、後部にも一つ。
冷風が十字を切ります。

冷房は本棚横と、会衆席後部に一つずつ。
約35畳をしっかり快適にしてくれました。


礼拝後は少しお茶と、皆様からの持ち寄りのお食事を分かち合いつつ、女性会の集いがありました。
旧約聖書の箇所から当日の日課であるサマリア人の箇所まで幅広く聖書について分かち合いができました。

† † †

わたしたちには赦せない人がいます。
憐みに満ちたもう神様、
わたしたちを怒りと裁きの罪に沈めるのではなく
あなたのみ旨のうちに委ねさせてください。

2019年7月19日金曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。
一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

──ルカ福音書9章51-62節

† † †

1.三人の弟子志願者たち

イエス様の弟子になろうとしてやってきた人々がいました。
しかしその中で、弟子として従った、と記されている人は一人もいません。
たとえば二人目の人はイエス様に招かれながらも「まず、父を葬りに行かせてください」と断り、三人目の人は、従いますと言いながらも「まず、家族にお別れを言わせてください」と言うのです。
ここで彼らにイエス様が語っている言葉はとても厳しいものに聞こえます。
私たちがこのような言葉を聞くとき、イエス様の弟子となるのはなんと難しいことだろうと思われるかもしれません。
現実に当てはめれば、教会外のあらゆることにまさって、教会の働きを優先すべきだ、とも聞こえてしまうからです。
果たしてイエス様はそのようなことを、私たちに臨んでおられるのでしょうか?

2.弟子として従うこと

イエス様は、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」と言われています。しかしイエス様は、親を葬ることをないがしろにされたわけではありません。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と続けておられるからです。
弟子の招きを受けた彼が、父親の葬儀から離れられないことも、イエス様はよくわかっておられたはずです。
ここで彼が、葬儀の準備をほかの人に任せ、父親の魂を愛をもって御国へと招いてくださる神様がおられることを語ることこそ、イエス様の弟子として従う、ということであるのだと言われているのです。

3.「まず、」が私たちを躓かせる

けれども彼はイエス様の招きに応えてはいません。
彼の心境は、三人目の弟子志願者と同じ理由であったのかもしれません。三人目の彼は一度は「従います」と言いながら、家族に別れを告げたいという自分の思いを優先するのです。
イエス様は一人ひとりの日常を否定されたわけではありません。
日々の中で彼らが何かを判断したり、何かを行うとき、そこにおいて「まず、」と神様を二の次にしてしまう、その心の在り方を、厳しく戒められているのです。
弟子たちもまた、そうでした。イエス様の思いよりも、イエス様を受け入れなかったサマリア人たちに滅びを願う、自分の思いを優先しています。
イエス様を拒絶し、反抗する人々をそれでもイエス様が愛されていたことは、十字架に示されています。
しかし、イエス様の思いよりも自分の思いを優先するとき、イエス様の愛はうまく受け取れなくなっていくのです。
三人の弟子志願者たちにとって、イエス様の愛ある招きが、挫折になっていったように。

4.中心に神様を置く

私たちが主の弟子として生き、イエス様に従っていくこととは、私たちが自分の日常を犠牲にして、教会の働きだけに尽くすことではありません。
私たちが日々の中にいつでも神様を中心に置くことです。
神様なら、イエス様なら、どう思い、どのようにしていくだろうかと、いつでも神様の思い、神様の愛を私たちの中心に置き続けることこそが、私たちに求められていることであるのだと思います。
教会は、イエス様は、私たち一人一人の日常を否定しません。むしろ教会は、日々の中に生きておられる神様を思い起こし、神様を証しする場所だからです。

5.主の弟子として

それでも、神様が二の次になってしまう私たちであることを、神様はよくご存じです。だから、私たちは聖書を開くたびに、私たちの中心に神様を置きましょう。神様が、イエス様がどのように人々と関わられたのかということを、私たちは聖書から聞いてまいりましょう。
そしてわたしたちも同じように、愛の行いへと押し出されていきたいのです。
それが、主の弟子として歩むことの第一歩であるからです。

2019年7月17日水曜日

いのち学。第3回

7月15日、月曜日は、松本教会にていのち学が行われました。



折り返しの第三回。
先日フランスの学会で発表されたがん治療に関する研究の発表を簡単に説明していただくところから始まりました。
CERNの写真と紹介にロマンが溢れ、また参加者からのご質問も活発な会となりました。
次回も是非、教会へお越しください。

† † †

次回いのち学は、9月16日(敬老の日)を予定しています。
どなたでもご自由にお越しください。

次週・21日の礼拝案内。

次週7月21日(日)10時半から、聖霊降臨後第6主日の礼拝が行われます。

長野・松本教会では野口和音牧師の説教
「あなたの隣人は誰か」

と題して、長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られます。
礼拝後、松本教会では女性会が行われます。
野口和音牧師は松本教会におります。
どうぞご自由にご参加ください。

† † †

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

──ルカ福音書10章25-37節

2019年7月15日月曜日

聖霊降臨後第5主日礼拝 20190714

昨日14日、日曜日は聖霊降臨後第5主日礼拝でした。
松本教会は通信礼拝として、長野教会は主日礼拝として守られました。


久しぶりに来られた方や、巡回説教でお世話になった先生ご家族の方々など来てくださり、いつもよりにぎやかな日になりました。
み言葉を通して、いつでも神様を私たちの中心に置くことの大切さを分かち合いました。

昼食の後、長野教会でも5月末のアメリカ訪問報告をすることが出来ました。
とてもよい学びでした。教会を守ってくださった方々に改めて感謝いたします。



† † †

この記事をご覧の皆さまにも
迷いの時に
神様が導いてくださいますように

2019年7月12日金曜日

長野手仕事会

本日12日は長野教会にて手仕事会が行われました。
長野教会では今年3回目となりますが、今回は牧師も参加させていただきました。
10時半から集まり、初めに讃美歌を歌って、今日の聖書日課に選ばれている箇所からみことばを聞きあいました。
お昼は皆様が持ち寄ったハヤシライスなどをお昼にいただきました。


午後からはクリスマスに向けてスパンコールを皆で作りました。
ビーズなどを糸で通して一つ一つ手作りです。



小さいころは牧師も裁縫に凝っていた時期があり、皆真剣に作っていました。
二つのフェルトの間にはポプリを入れる予定です。
皆さん素敵なデザインを作られていました。
クリスマスの時期には甲信地区の集まりなどで販売する予定です。
完成が今から楽しみです。

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。


──ルカ福音書9章18-26節

† † †

1.最も短い信仰告白

今日の箇所の中でイエス様が「わたしを何者だと思うか」と問われたことに対して、ペトロは「神からのメシアです。」と返しています。
メシアという言葉は元はヘブライ語で、ギリシャ語の原文ではキリストという言葉が使われています。どちらも「救い主」という意味の言葉です。
ですから「イエス・キリスト」という言葉は本来、それだけで「イエス様は救い主です」という信仰告白の言葉であるのです。
人々はイエス様のことを預言者やエリヤの再来であると見ていましたが、ペトロはまさにここで、正しい信仰告白の言葉を選んだのです。
しかしイエス様はそれを「戒め、このことをだれにも話さないように命じ」ました。

2.ダビデ王の再来

ペトロの信仰告白は全てのキリスト者が信仰告白をする言葉と何も変わりません。
彼は確かにイエス様を信じていました。
しかしこのときの彼にとってイエス様とは何者であるかというと、イスラエル王国が最も栄えたダビデ王の再来を見ていたのだと思います。
だからこそ弟子たちは再三にわたる死と復活の予告を受け入れず、それどころか「誰が一番偉いのか」というイエス様の後継者を議論している(9:46-)のです。

3.日々、継続

イエス様が救い主となるためには、十字架の死と復活が不可欠でした。だからイエス様は、従う弟子たちに対してもこのように言われたのです。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
一見すると、弟子として従うことは「イエス様と同じように十字架で命を捨てる」ことだ、と捉えられるかもしれません。
しかしルカだけはここで、「日々」という言葉を入れています。
これによって、十字架を背負って従うこととは、日々継続してイエス様に従い続けることであると語られているのです。

4.十字架を背負う

私たちの十字架とは何でしょうか。十字架とは罪を犯した者がかかる極刑です。
私たちがそれを背負うこととは、私たち自身の罪を、日々、考え続けることを意味しています。
イエス様はどのようなことがあろうとも、全ての人を愛し抜いていかれました。イエス様に反抗する人々をも、神の愛に導こうとしておられました。
私たちはそのように誰かを愛することが出来るでしょうか。
自分の思いを捨て、誰かのために動くことが出来ているでしょうか。
できない私たちがいるのだとしたら、その罪を見つめ、神様にそのことを告白することが、出来ているでしょうか。
このようにして日々、私たちは罪の告白と、愛の行いとに、イエス様に従い続けることができているでしょうか。

5.イエス・キリスト

あなたはわたしを何者だというのか、という問いに対する答えは、私たちにも問いかけられています。
その答えは、私たちがイエス様をどのように見ているのか、ということが答えであります。
私たちもペトロのように、私たちをただ全肯定してくれる都合のいいイエス様を作り上げては、いないでしょうか。
だからこそ神様はイエス・キリストの十字架を通して、そのような私たちの罪を赦してくださいました。
そしてなおも罪のゆえに私たちが抱えきれないほど重い十字架を、共に担ってくださっているのです。
私たちが自らの罪を、十字架を思い起こすときにこそ、本当の意味での「イエス・キリスト」十字架と復活によって私たちの救い主となられた、イエス様が見えてくるのです。

2019年7月10日水曜日

いのち学、第3回の御案内。

7月15日(月)19時より、松本教会にて
「いのち学~素粒子・生命・人間・宇宙の不思議~」が行われます。


いのち学、今年度のテーマは「素粒子・生命・人間・宇宙の不思議」です。
わたしたちを取り囲むこの世界について、また生命科学としての「命」について、
そしてその枠を超えたわたしたちの「いのち」について──。
信州大学特任教授の谷口俊一郎先生を講師として、共に考える時を持ってみませんか?

前回までの内容も振り返りながらですので、今回からの参加でも大丈夫です!
参加費は500円。 事前申込は不要です。

7月15日の19時から日本福音ルーテル松本教会にて行われます。
当日お時間のある方はぜひお越しください。
また、お問い合わせは日本福音ルーテル松本教会まで。

†会場の松本教会はこちらです†

次回・7月14日の礼拝案内。

次週7月14日(日)10時半から、聖霊降臨後第5主日の礼拝が行われます。

長野・松本教会では野口和音牧師の説教
「『まず、』の罠」

と題して、長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られます。
野口和音牧師は長野教会におります。
どうぞご自由にご参加ください。

† † †

イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。
一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

──ルカ福音書9章51-62節

2019年7月9日火曜日

聖霊降臨後第4主日礼拝。20190707

7月7日は聖霊降臨後第4主日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。

主日の初めは教会学校から。
礼拝の後、分級の時間を使ってみんなでトーンチャイムをやりました。




10時半からの礼拝にもたくさんの方が参加してくださいました。感謝です。


私たちは誰かを愛すること──誰かを受け入れ、ゆるし、誰かのために動いていくことが、出来ているでしょうか。
それができない私たちのために十字架にかかってくださったイエス様がいるからこそ、私たちもまた、その”できない”十字架を日々背負って歩んでいくことができることを、共に分かち合いました。



今週の信州は涼しい一週間となりそうです。
暑さの揺り戻しに備えて、教会にも冷房設置計画を進めているところです。
皆さまの体調が今夏も守られますように。

† † †

この記事をご覧の皆さまの日々にも
神様が私たちの弱さを共に担ってくださいますように


2019年7月5日金曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。


──ルカ福音書7章36-50節

† † †

1.とんでもないこと

罪深い女と呼ばれている女性が、イエス様の足を涙で濡らし、髪をほどいてその足をぬぐい、香油を塗っています。当時のイスラエルにおいて女性がそのような行為をすることは、男性を誘惑する行為と取られてもおかしくないものでありました。また彼女が「罪深い女」と呼ばれていることからも、彼女が遊女のような仕事をしていたことがほのめかされています。
律法を守ることが第一だと考えていたファリサイ派の人々にとって、彼女のふるまいはとんでもないことであったに違いありません。律法は彼女を罪と定めているからです。それゆえ、彼女のするがままにしておられるイエスもまた、預言者ではないとシモンは心の中で断定していったのでした。

2.罪の赦しを信じる信仰

彼女が遊女であったのだとしたら、生きるために罪を犯さなければならず、そして自らの罪を彼女自身が一番よく理解をしていたはずです。そしてその彼女を、律法のゆえに蔑むことはあれど、誰も助けることはしなかったのだと思います。
しかしそこに、イエス様がやってこられました。
イエス様が罪人と共に食事をし、また中風の人の罪を赦したお方であることは、彼女も知っていたことでしょう。唯一自分の罪を赦し、ありのままの自分を受け入れてくださると信じられる方、それが、彼女にとってのイエス様であったのです。
罪の赦しに対する喜びから行われた、彼女の愛に溢れたもてなしを、イエス様が拒まれるはずがありませんでした。
それゆえ、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」という言葉には、罪の赦しと、その愛の関わりとがはっきりと示されていくのです。

3.愛へと導くために

ファリサイ派のシモンにとって、この言葉はどのように響いたのでしょうか。
きっと彼はこれまで、罪深い女と呼ばれた彼女とは真逆に、出来る限り罪を犯さず正しく生きることを努力してきたのかもしれません。自分が間違うことが少ないために、他者の間違いをゆるすことができなくなって、ついには神様ですら自分の正しさに照らして、断罪をしてしまうのです。
イエス様のこの言葉は、シモン自身にも自分の罪を見つめ、それが赦されていることを知ってほしい、そしてそれゆえに愛に生きてほしいという願いのゆえに「あなたに言いたいことがある」と語り始められたのだと思うのです。

4.すべてを受け止めてくださる

イエス様はシモンをゆるしと愛に導きこそすれ、裁くことはなさいませんでした。それは、罪人と呼ばれていた彼女と同じように、シモンをも愛しておられたからだと思います。
わたしたちもまた、もしかしたら罪人と呼ばれた彼女のように、他者との関係がうまくいかず、誰からも認められない立場に追いやられることがあるかもしれません。逆にシモンのように、自分の正しさのゆえに、誰かを悪に定めて蔑んでしまうことがあるかもしれません。
だからこそイエス様は、そのような私たちの罪が思い起こされること、そのような私たちの全てを受け止めてくださる神様がおられることを、聖書を通して語ってくださるのだと思います。

5.安心していきなさい

最後にイエス様は彼女に言っています。
「あなたの罪は赦された」
「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。
私たちが罪の赦しを信じる時、そこに赦しは与えられていくのです。だからこそ彼女はイエス様と出会ったときすでに赦され、香油の入った壺を用意し、愛のもてなしのためにイエス様のところへやってきているのです。
そのような愛のゆえに、赦される喜びはより一層与えられていくのです。
私たちもそのような神様との関わりによって与えられた喜びと愛を携え、平安のうちに過ごしてまいりたいと思います。

2019年7月3日水曜日

次回・7月7日の礼拝の御案内。

次週7月7日(日)10時半から、聖霊降臨後第4主日の礼拝が行われます。

長野・松本教会では野口和音牧師の説教
「日々、継続」

と題して、長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られます。
野口和音牧師は松本教会におります。
どうぞご自由にご参加ください。

† † †

イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。


──ルカ福音書9章18-26節

2019年7月2日火曜日

聖霊降臨後第3主日礼拝・長野墓前礼拝 20190630

6月30日(日)は聖霊降臨後第3主日礼拝でした。
長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られました。


お昼ご飯はカレーを皆さんでいただきました。
手作りのケーキも焼いてきてくださいました。
皆さんで美味しくいただきました。



長野教会では本日、墓前礼拝も行われました。
教会としては何年かぶりの墓前礼拝となりました。
天に召された方々を思い起こしつつ、復活の約束を分かち合う時となりました。


紫陽花苑、という区域に墓地が設置されており、墓地の周りにはきれいな紫陽花が咲いていました。



松本教会では通信礼拝として無事守られました。
準備などをご奉仕していただいた方々に感謝いたします。