2019年8月29日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」


──ルカ福音書13章22-30節

† † †

1.全ての人は救われない?

「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」とイエス様に問う人がいました。私たちなら、この問いに対してどのように答えるでしょうか。
誰もが「全ての人が救われる」と答えたくなるのではないかと思います。
キリスト教の葬儀では「わたしを信じる者は死んでも生きる」とイエス様が語ってくださっている箇所が多く読まれます。また、たとえ信仰に入らずに天に召された人であっても、信仰告白の言葉にあるように、イエス様は「陰府に降り」福音を告げ知らせてくださった、と私たちは信じているからです。
しかしイエス様は彼の質問に「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」と厳しい答えを返されました。
神の国に入れない人がいる、ということをはっきりと語っておられるのです。

2.投げ出される人々がいる

この戸口とは神の国に入るためのドアであり、家の主人は神様です。
神の国に入れなかった人々は「私たちは御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」と弁明しています。
信仰を持っていない人々であるならまだしも、どうやら彼らはキリストの言葉を聞き、神の国と言う救いを求めて戸口までやってきている信仰者のように見えます。
けれども彼らは神様から「お前たちのことは知らない」と、当時の破門宣告に用いられた言葉を言い渡され、「不義を行う者ども」とすら言われています。
彼らは閉められた戸口の外側で叫んでいます。「外に投げ出された」のです。
神様は、自分の意にそぐわない者を神の国から追い出すようなお方なのでしょうか。神は愛であると聖書が語っていることと、矛盾しているように思えるかもしれません。

3.分裂を乗り越える力

キリストは先週の箇所で、御言葉によってわたしたちに平和ではなく分裂をもたらすために来たと言われました(ルカ12章49-53節)。
それは、私たちの罪が明らかにされ、十字架によって赦され、愛の業へと私たちを押し出していくためでした。
その赦しを受けているからこそ、私たちは罪によって挫折してしまう愛のわざに、従事し続けていくことが出来るのです。
神の国の戸口から外に投げ出された彼らの言葉を見てみましょう。
彼らは、御言葉を受け、キリストと共に過ごしました。しかし、彼らは御言葉に従い、自らの罪に対立し、愛のわざを行ったとは言ってはいないのです。

4.神の国を放棄する罪

私たちがキリストの愛の業を担い続けること、罪を見つめ続けることは誰にとっても最も苦しい十字架の道です。
できることなら誰もそんなことはしたいと思わないでしょう。
したくないけど、救われたいと思う大きな罪が、私たちの中にあるのです。
自らの罪を見つめることなく、愛のわざを行うことなく、自分のみが恵みを受けて救われたような気になっている、そのような人々は、神が差し出した十字架の赦しと愛を受け取ってはいないのです。

5.今、招きに応える

神様が十字架の道の先に、私たちのための救いを用意してくださっていること、滅びではなく復活と永遠の命を約束があることは、全く揺るぎません。
しかし私たちの罪が、その約束を無にし、滅びへと歩ませるのです。
このような神の国への招きは、キリストの御言葉と十字架によって既に私たちに約束され、提示されています。
私たちが自らの罪を悔い改め、愛のわざにチャレンジし続けることこそ、神の国への招きを受けるということなのです。
私たちは今、全ての人を救いたいと願う、神様の愛に満ちたその招きを受けて参りたいと思います。恵みと喜びを分かち合い、赦しと愛をもって接し、キリストと共に生きる、そのような地上の歩みを、今、始めてまいりたいと思います。

2019年8月28日水曜日

次回・9月1日の礼拝案内。

次週9月1日(日)10時半から、聖霊降臨後第12主日の礼拝が行われます。

長野・松本教会では野口和音牧師の説教
「面目丸つぶれのススメ」

と題して、長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られます。
礼拝後、松本教会では60周年記念事業委員会と定例役員会が行われます。
どうぞご自由にご参加ください。
野口和音牧師は松本教会におります。

† † †

イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

──ルカ福音書14章7-14節

2019年8月27日火曜日

聖霊降臨後第11主日礼拝・教会バーベキュー。20190825

25日(日)は聖霊降臨後第11主日礼拝でした。
長野教会では聖餐礼拝として、松本教会は通信礼拝として守られました。



4週目が通信礼拝の時は、奉献の部以降は長野教会では聖餐の部として、松本教会では信徒礼拝として守られています。
先週から厳しいみ言葉が続く日課ですが、そのうちに神様の愛を聞き取りつつ、守られました。

長野教会では昼食後、プチ修養会の時間を取り、「キリスト教葬儀の概略」として学びをしました。
キリスト教の葬儀の流れ、具体的な式文の内容、自分の葬儀のために準備することや、ご家族のためのガイドリストなどをまとめたレジュメをお配りしました。
また、やむなくご参加できなかった方もいらっしゃるため、次回(未定)に簡単にまとめつつお話をしたいと思います。

松本教会では17時半より、教会バーベキューが行われました。



教会員のご家族や、ご近所の方、また最近教会に来てくださった方々などでにぎわいました。
お天気にも恵まれ、美味しいひと時となりました。
準備や調理のためにお手伝いいただいた方に感謝いたします。

だんだん秋の足音が聞こえてまいりました。
まだまだ日中は暑いですが、寒暖差にお気をつけください。
体調が守られますようにお祈りいたします。


2019年8月22日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」


──ルカ福音書12章49-53節

† † †

1.平和ではなく分裂を

柔和で、愛に満ちた平和の君であるイエス様が「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」と厳しい言葉を語られていることに、私たちは驚くかもしれません。
その分裂を引き起こすのは「火を投ずる」ことによってです。
火のイメージは、使徒言行録の聖霊降臨の出来事を思い起こしますが、神様の言葉が火のイメージで表されていますから、神様の言葉によって分裂が引き起こされる、とここでイエス様は語っておられるのです。

2.7割の人々の間で

文化庁が行った日本の宗教観についてアンケートの中で、「あなたは何の宗教を信じていますか」という質問に対して、七割以上の人々が信仰を持っていない、信じていないと回答していました。
そのような人々とキリスト者が関わるとき、祈ることや神様を公に語ることがためらわれる、ということも多くあるのではないでしょうか。
その結果、私たちは彼らに流され、キリストの言葉とは正反対の考えや行動をしてしまうこともあるのではないでしょうか。

3.キリスト者同士においても

これはキリスト者同士においても起こりうることです。現実としてキリストの言葉をすべて守っていられないとしたら、個々人の「出来る限り」、守るべき御言葉がチョイスされていくことになります。
それは、個々人が定める「正しい信仰」をめぐって分裂をもたらすのです。
私たちのだれもが、ほかの誰かとの分裂を避けられないし、それは神様との関係も断絶してしまうことになる、ということを、イエス様は語ってくださっているのです。

4.分裂をもたらす罪と鍛錬

隣人を、敵すらも愛すること、赦すこと、受け入れること……イエス様は、私たちが到底守れない理想として、様々な掟を語られたわけではないはずです。
しかし私たちがその掟をなかなか守ることができないのは、罪が私たちの中に巣食っており、他者との関係へと向かわせる神様の言葉よりも、自分勝手に生きようとささやいてくるからなのです。
ヘブライ人への手紙には「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。(12:4)」と主の鍛錬について語られています。
私たちは私たちの罪と対立しなければなりません。それは神様から与えられた鍛錬であるからです。
そこには失敗も迷いもあってよいのだということを、直弟子であるペトロたちの姿から見ることが出来ます。
ペトロはキリストの十字架を前にして裏切り、赦されて再び立たされてなお、罪の誘惑から異邦人たちと共に食事をすることを躊躇い、パウロに諭されているからです(ガラテヤ2:11以下)。
それでもペトロはその後もキリストの言葉を語り、キリスト者として生きることをやめませんでした。
その姿は私たちがキリスト者として生きるということに勇気を与えてくれると思います。

5.分裂の先へ歩みだす

私たちも、罪人なのだからキリストの言葉は守れない、とあきらめるのではなく、何度できないことがあろうとも、絶えず誰かを赦し、愛し、助け、共に生きていくということをチャレンジし続けることこそ、キリストの言葉に従って生きる、ということではないでしょうか。
キリストの言葉は、分裂を通して私たちの罪を明らかにします。自分の弱さや見たくもない本当の自分が明らかになるかもしれません。
そのような私たちの罪を、幾度となく起こる挫折を、キリストは十字架によって赦してくださっているのです。
私たちはそれを信じているからこそ、分裂を恐れず、罪に立ち向かうことを恐れず、話し合い、理解しあい、赦しあい、愛し合うための一歩を、何度だって踏み出していけるのです。

2019年8月21日水曜日

次週・25日の礼拝案内。

次週8月25日(日)10時半から、聖霊降臨後第11主日の礼拝が行われます。

長野・松本教会では野口和音牧師の説教
「招きの声に今、応える」

と題して、長野教会では聖餐礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られます。
礼拝後、長野教会では「キリスト教葬儀概略」の学びがあります。
また、松本教会では17時半から教会バーベキューがあります。
どうぞご自由にご参加ください。
野口和音牧師は長野教会におります。

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イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

──ルカ福音書13章22-30節

2019年8月19日月曜日

聖霊降臨後第10主日礼拝。20190818

日曜日8月18日は、聖霊降臨後第10主日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。



台風が過ぎ去り、日曜日はまた蒸し暑い日になりました。
初めての方も、夏休みで遊びに来てくださった教会員のお孫さんも一緒に、礼拝が守られました。
8月は女性会も休会ということで、礼拝後はお茶菓子や教会員の方が作ってきてくださったサラダなどをいただきながら、皆様とお茶のひと時をいただきました。

まだまだお昼は暑い日差しが続いています。
熱中症にはお気を付けください。

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この記事をご覧の皆さまも
安全と健康が守られますように

2019年8月16日金曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」


──ルカ福音書12章13-21節

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1.愚かな金持ち

労せず多くの収穫を得た金持ちは、どうしよう、とうれしい悲鳴をあげています。しかし彼の考えの中には、一切の他者が登場していません。それを自分のものだけにしてしまうのです。
日本語訳では省略されてしまっていますが、この金持ちの言葉には、しつこいほど「わたしの」という言葉が繰り返されています。
「わたしの作物」をしまっておく場所がない。
「わたしの倉」を壊して新しくし、「わたしの穀物や財産」をみなしまい、
「わたしの魂」に言ってやるのだ、というふうにです。
自分、というのも、わたしの魂、という言葉であります。
そうして自分の力によって自分だけを快楽のままに生かそうとする彼は、他者と共に忘れ去られていた神様から言われるのです。
「今夜、お前の魂は取り上げられる」のであると。

2.「わたしの」

兄弟から遺産を分けてもらえなかった男は、このたとえ話をどのように聴いたのでしょう。初めは金持ちを、兄弟に重ね合わせていたかもしれません。
しかし神様が金持ちに言った言葉を聞いて、他人事ではないと思わされたと思います。
どんなに多くの財産を手に入れたとしても、明日にでも主が命を取られるかもしれないという恐れがあっては、金持ちのように安心して「一休みして」「楽しむ」ことなどできはしないということを知ったからです。
このたとえ話は、同じように私たちにも問いかけられています。
自分の手の中にあり、自分の思い通りに動かせるものが多ければ多いほど、私たちは安心するからです。しかしそれは、偽りの安心です。
果てもなく求めてしまい、得たものを失うことや奪われることに対する不安も付きまといます。それらは、「わたしの」ものにしたいという貪欲から起こってくるものなのです。

3.「わたしの」ものは何一つない

私たちが持っているもののなかで、いったい何が初めから私たちのものなのでしょうか?
私たちが持ち合わせている才能や長所も、生まれるときに神様から与えられたものです。わたしたちのいのちそのものは、私たちが努力や対価を払って手に入れたものではありません。
そのように生かされている私たちだからこそ、あらゆるものを自分で手に入れたかのように思い「わたしの」と考え始めた瞬間に、わたしたちの心は不安に満たされ、貪欲へと転がり落ちていくのです。
だからこそコロサイの信徒への手紙には、貪欲を捨て去るようにと語ります(3:5)。その代わりに身に着けるべきものは、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、他者への赦し、そして愛です。
これらのものは、他者がいなければ何の意味も持ちません。
なぜなら私たちのすべては、神様と言う他者から与えられたものだからです。

4.「わたしの」にこだわらない

本当の豊かさ、神の前の豊かさとは、私たちが持っているものを他者と共に分かち合うことから始まります。全ての人々は皆、一人ひとりの他者である神様によって造られ、全てのものを与えられているからです。
それはたった一度の笑顔かもしれません。その笑顔は誰かを笑顔にするでしょう。
それはたった一言の慰めの言葉かもしれません。その言葉は誰かを救うかもしれません。
私たちはそのような関わりを通して、再び誰かと分かち合おうとする思いが強められるのです。
なにより、私たちはそれらを既に、イエス・キリストの言葉から憐れみと愛と赦しを通して与えられています。
そのようなキリストとの関わりのゆえに、わたしたちも他の人々と、全てを分かち合ってまいりたいと思います。

2019年8月14日水曜日

次回・18日の礼拝案内。

次週8月18日(日)10時半から、聖霊降臨後第10主日の礼拝が行われます。

長野・松本教会では野口和音牧師の説教
「分裂の先へ歩み出す」

と題して、長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られます。
野口和音牧師は松本教会におります。
どうぞご自由にご参加ください。

† † †

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」

──ルカ福音書12章49-53節

2019年8月12日月曜日

聖霊降臨後第9主日礼拝。20190811

11日(日)は聖霊降臨後第9主日の礼拝でした。
松本教会は通信礼拝として、長野教会は主日礼拝として守られました。


大変暑い季節がやってまいりました。
牧師も一週間熱中症か夏バテのような体調不良に悩まされながらの一週間を過ごしました。
礼拝では、8日から10日まで参加してきた聖公会と合同のエキュメニカルキャンプについて触れつつ、与えられているものを共に分かち合うことをみ言葉から聞きました。

お昼は夏恒例、オープンランチと題して、皆で焼きそばづくりをしました。
教会員のお孫さんも来てくださり、にぎやかな昼食となりました。
特製焼きそばの作り方を伝授されつつ、皆で食事を分かち合うことができました。


手巻き寿司もお手製!とってもおいしかったです。

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暑い日が続きます。
台風も近づいています。
どうかこの記事をご覧の皆様の安全と、
健康が守られますように。

2019年8月7日水曜日

次回・11日の礼拝案内。

次週8月11日(日)10時半から、聖霊降臨後第9主日の礼拝が行われます。

長野・松本教会では野口和音牧師の説教
「わたしの、にこだわらない生き方」

と題して、長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られます。
野口和音牧師は長野教会におります。
どうぞご自由にご参加ください。

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群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

──ルカ福音書12章13-21節

2019年8月5日月曜日

聖霊降臨後第8主日礼拝・こどもデイキャンプ 20190804

昨日4日(日)は聖霊降臨後第8主日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。

先々週から冷房付きの集会所にて
礼拝をしています

例年8月の1週目は平和の主日として守ってきましたが、聖霊降臨後の日課ではルカ福音書主の祈りについての箇所だったため、そちらを選びました。
キリストの平和のために赦しあうことについて、皆でみ言葉から分かち合いました。

松本教会では食事ののち、こどものためのデイキャンプの始まりです!
初めにこどもたちと共に礼拝から。
去年のクリスマスにもプレゼントした手作りみ言葉カードを見ながら、神様のお話を聞きます。


礼拝の後は、いつもCSの分級をしてくださっている先生から、ハトのクラフトを教えていただきました。
聖書においてはキリストの平和とそこへと導く聖霊として登場するハト。
皆夢中で作っていました。


恒例のみずあそびも大賑わいでした。
教会の庭にプールを置いて、全力で水かけっこをします。
牧師も水着必須で参加しました。
中学生になった子どもたちには今年からは水かけ役のほうに回って手伝ってもらいました。
また、スイカ割りもしました。立派なスイカをみんなでがんばって割りました。


〆のプログラムはおやつ作りです。
みんなで割ったスイカと一緒に、てづくりクレープを食べました。
子どもたちが自分で好きな具を包み、ほおばっている姿を見て笑顔になりました。


今年もお昼から怒涛の勢いで駆け抜けたデイキャンプでした。
日中とても暑く、熱中症も心配でしたが、教会員の皆様の細やかな準備と配慮のおかげで、ケガも病気もなく過ごすことができました。感謝です。

松本教会では、毎年8月の1週目はこどものためのデイキャンプを行っています。
来年もぜひ、またお越しください。
当日3日前までのお申込みになっています。お忘れなく!

この案内が目印です!(今年のもの)

2019年8月1日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

──ルカ福音書10章38-42節


† † †

1.マルタとマリア

イエス様はマルタという女性の家に迎え入れられています。
何と言ってもあのイエス様が来てくださる、ということで、マルタは全身全霊をかけておもてなしをしよう、と意気込んでいたかもしれません。
それは、「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」姿に現れています。
マルタにはマリアという姉妹がいました。せわしく働くマルタに対し、マリアは弟子たちと共に、イエス様の足元に座って話を聞いています。
そのようなマリアのふるまいは、イエス様を招いた側としてはふさわしいと言えなかったでしょう。
また、マリアは女性でした。男の弟子たちと一緒の場所に座ることも、当時のイスラエルでは憚られることでした。
マルタはそのようなマリアの姿を見て、悶々と思いを募らせていたのかもしれません。ついにはもてなしの手を止め、イエス様に言うのです。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

2.もてなしの心が失われる

自分ばかりが準備に追われ、イエス様の御言葉を聞くことが出来ないという不満。男である弟子たちの間に座るマリアに対して、家族として恥ずかしく思う気持ちもあったかもしれません。
忙しい、という言葉は、心をうしなうと書くと言います。
マルタは、はじめはイエス様のために出来る限りのおもてなしをしようと思っていたはずでした。しかしマルタの中にあった「もてなし」の心は、そのようなマリアへの不満と怒りによってうしなわれてしまったのです。
そのことをご存知であったイエス様は、マリアにこう答えられるのです。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

3.主を愛することから生まれるもの

もてなし、と訳されている言葉は、「奉仕」とも訳される言葉です。
この御言葉を聞くとき、わたしたちは奉仕を投げ捨ててでも御言葉への集中が優先されるべきことだということを受け取るかもしれません。
先週のみ言葉において「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』」という御言葉が上げられていました。
マルタの奉仕をイエス様は否定されませんでした。ただ、「心を乱している」ことを指摘されただけでした。
なぜならマリアが「良い方を選んだ」とされているのは、先週のみ言葉の通りに全身全霊で「主を愛していた」結果として、御言葉を聞いていたからです。
けれどもマルタは心を煩わされ、神様への奉仕よりも自分の思いを優先してしまいました。
だからイエス様は「必要なことはただ一つだけである。」と、あなたのもてなしの心を生んだ、神様を愛する心こそが大事なのだよ、言っておられるのです。

4.必要なことはただ一つだけ

私たちが生きる中で、欠くべきことのできない多くの働き、奉仕のわざがあります。それは教会においても存在します。
しかし、誰しもいつかは、それを一つずつ手放さなければならない時が来ます。疲れのため、老いのため、病のため、不条理な不幸によってかもしれません。
けれどもどのようなときにおいても、私たちから最期まで奪い取られることのない奉仕のわざがあります。
それが神様を愛し、その御言葉に聞くということなのだと、イエス様は今日の箇所で語ってくださっています。
それこそが、私たち一人ひとりをどうしても救いたいと願っておられる神様への、私たちの最大の奉仕であるのです。