2019年9月30日月曜日

聖霊降臨後第16主日礼拝・ルターナイツinまつもと 20190929

昨日29日は聖霊降臨後第16主日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では主日礼拝として守られました。


金持ちとラザロのたとえから、隣人愛に満ちて歩みだすみ言葉を分かち合いました。
礼拝後は昼食はなく、ゆったりとお茶と交わりの時間を取ることができました。

午後6時半からは、松本教会ではルターナイツinまつもとが行われました。


初めにジャズピアノ奏者として、松井徹さんの演奏です。
美しく伸びやかなオリジナルの曲も披露していただきました。
普段はバンドを組んでおられ、松本駅に置かれている公開グランドピアノでも時々演奏しておられるそうです。



中継ぎは牧師の「讃美歌ウラ話」のコーナーです。
今回は誰もが知っている「いつくしみふかき」から、作詞者ジョセフ・M・スクリーヴェンの生涯と、讃美歌歌詞の元となった詩を重ね合わせながら、彼の「祈り」の果てを分かち合いました。


二組目のゲストは、奥原英幸さん・尊子さんで「奥原バンド」のお二人です。
アコースティックギターと歌を披露していただきました。
教会堂の音響も相まって、澄んだ声が響いていました。


ピアノ、ヴァイオリン、ギターと、三人が期せずして「主よ人の望みの喜びよ」を演奏することとなりました。
作曲者バッハもルーテル教会の信徒であったように、恵み深いめぐりあわせに喜びが溢れました。感謝です。


夜の交わりの時も守られました。
教会員の方々が準備してくださったお食事を皆で美味しくいただきました。

† † †

季節の変わり目で体調を崩しやすい時期です。
また、台風の被害から立ち直っておられない千葉の方々のためにも、
主の守りと癒しがありますように。

2019年9月25日水曜日

次回・29日の礼拝案内。

次週9月29日(日)10時半から、聖霊降臨後第16主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教
「門が淵に変わる前に」

と題して、長野教会では信徒礼拝として、松本教会では主日礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
野口和音牧師は松本教会におります。

† † †

 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

──ルカ福音書16章19-31節

2019年9月24日火曜日

聖霊降臨後第15主日礼拝。

22日は聖霊降臨後第15主日礼拝でした。
長野教会では聖餐礼拝として守られました。



みことばを通し、私たちに与えられている多くの恵みを思い起こしました。
昼食は教会員の方が作ってきてくださったごろごろ野菜の肉じゃがや煮物などをいただきました。
野菜のおいしさと共に、これもまた大きな恵みだとかみしめました。



長野教会でも敬老のお祝いと婦人会をしました。
その方から讃美歌のリクエストをお聞きし、皆で371番「いつくしみふかき」をもって讃美を共にしました。

† † †

松本教会では巡回説教者の田中博二牧師をお招きし、主日礼拝を守っていただきました。
お働きに感謝いたします。





三連休に合わせて山登りに来てくださった方が礼拝にも出席してくださったとのことです。
ありがとうございます。またお越しください。

2019年9月19日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」


──ルカ福音書15章1-10節

† † †

1.ずるいじゃないかと彼は言う

「聞く耳のある者だけ聞きなさい(ルカ14:35b)」と言われてイエス様のところにやってきたのは、今日の聖書箇所の冒頭、徴税人や罪人たちでした。
それを見て、イエス様と一緒にいたファリサイ派の人々や律法学者たちは不平を言うのです。どうして彼らを受け入れ、食事まで一緒にするのか、と。
14章を通してイエス様が群衆たちに語ってきたことの中には、自らの罪を見つめ、全てを神様に委ねて十字架を背負ってついてくる者こそ弟子であると語られてきました。
ファリサイ派の人々にとって、自らは律法を遵守し、弟子として不足はないと自負していたのに対し、徴税人たちは律法も守らず、イエス様の言った弟子の条件など到底守ることのできない人々でした。
それなのに、ファリサイ派の人々と同じように徴税人たちをイエス様が受け入れていることが我慢ならなかったのだと思います。

2.たとえあなたが罪深くても

見失った一匹の羊は、他の羊よりも価値の高い羊であったわけではありません。もう一つのたとえ話のなかで失われているのが、価値の等しい銀貨10枚のうち一枚であることからも明らかです。
さらに言えば、一匹の羊が逃げ出さなければ、九十九匹の羊は野原に残されず、危険にさらされることもありませんでした。それでも羊飼いは、そのたった一匹の羊のために、探しに出かけるのです。
羊飼いである神様は、神様から離れてしまった罪人ですら、等しくかけがえのない存在として探し求めてくださるお方であることを、イエス様はたとえを用いて語っておられるのです。

3.罪深いからこそ

聞く耳を持つ者だけが聞きなさい、という厳しい言葉で締めくくられたイエス様の御言葉を受けてなお、従おうとした人々がいました。
それが罪人であろうとも彼らを等しく迎え入れたいという神様の思いを、イエス様はここで語っておられます。
さらに言えば、神様が彼らを等しく迎え入れようとするとき、自分には罪がないと思っているファリサイ派の人々よりも、自らの深い罪を自覚しながら、なお従おうと近づいてきた罪人や徴税人たちのほうがより多くの喜びを受けることになったのだと思います。
その喜びは、たとえの中で神様ご自身の喜びでもあることが語られています。
神様から遠く離れてしまった罪人を見つけるからこそ、人々を呼び集めて一緒に喜んでくださいと言わずにはいられない大きな喜びが生まれていく、という逆転が起こるのです。

4.共に喜ぼう

自分から神様から離れた罪深いわたしを、神様がわざわざ見つけてくれるはずがない。一匹だけはぐれてしまった罪深い羊──イエス様のところにやってきた罪人たちは、以前はきっとそう思っていたことでしょう。
しかし彼らは「聞く耳のある者は聞きなさい」という羊飼いの捜しまわる声に応えていきました。
罪に沈み、罪に迷う私たちを探し求めてくださるほどに、神様は私たちを愛してくださっています。なによりもそんな私たちを赦すために、神様は自分の独り子ですら犠牲にしてくださいました。
私たちはそのことを共に喜びたいと思うのです。

5.喜びの第一歩

イエス様は繰り返し、私たちの罪を明らかにされます。自分の十字架を背負って従いなさいと言われます。
けれどもそれは、私たちが正しい者かどうかを振り分けるためのものではありません。
神様の前に誰一人正しい者はいません。わたしたちはこれからも、何度でも罪に迷い、罪に沈むことがあるでしょう。
しかしそのようなあなたを見つけ出し、怒り裁くのではなく、喜んで連れ帰ってくださる神様がおられます。
だから私たちは、安心して迷いましょう。何度だって神様によって再び立たされ、絶え間ない罪との戦いへと踏み出してまいりましょう。
それこそが主の弟子として歩む、信仰の旅路であるのです。

2019年9月18日水曜日

次回・22日の礼拝案内。

次週9月22日(日)10時半から、聖霊降臨後第15主日の礼拝が行われます。

長野教会では野口和音牧師の説教
「不正にまみれたこの世の歩きかた」

松本教会では田中博二牧師の説教
「永遠の住まいを仰いで」

と題して、長野教会では聖餐礼拝として、松本教会では主日礼拝として守られます。
礼拝後、長野教会では敬老のお祝い会が行われます。
どうぞご自由にご参加ください。
野口和音牧師は長野教会におります。

† † †

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

──ルカ福音書16章1-13節

2019年9月17日火曜日

聖霊降臨後第14主日礼拝・いのち学

15日(日)は聖霊降臨後第14主日礼拝でした。
長野教会は信徒礼拝として、松本教会は聖餐礼拝として守られました。
松本教会では、今週から集会室から礼拝堂に戻っての礼拝が行われました。
まだ少し暑かったですが、来週からは最高気温が20℃代に落ち着くとのことです。
今年も無事、夏を越せたことに感謝です。
また、事故により長らく聖餐のパンとぶどう酒が食べれなかった方が、今週は共に与れるという喜びもありました。



お昼は敬老祝賀会となりました。
女性会の方々が作ってくださったチラシ寿司や煮物など、皆で美味しく頂きました。
食事の後は御年80歳を越えられた方々からお話をいただき、リクエストされた讃美歌を皆で歌いました。
教会を支えてくださる方々に感謝し、これからの信仰の歩みがより一層豊かに守られるように祈ります。



† † †

翌日16日(月)は19時からいのち学が行われました。


7月ぶりのいのち学。新しい方を2名迎えての第4回目となりました。



残念ながら牧師は参加できませんでしたが、良き学びと交わりの時となったようで、良かったです。
それぞれのプログラムが多くの方にとって、教会を知り、教会へとつながる場として用いられますように。

2019年9月12日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

──ルカ14章25-33節

† † †

1.わたしの弟子ではありえない

弟子にしてもらおうとやってきた大勢の群衆に対して、イエス様は「~でなければわたしの弟子ではありえない」、と条件を三つ、語られました。
これから洗礼を受けてイエス様の弟子として歩みだそうと思っている人、あるいはすでに洗礼を受けてみ言葉を聞く人にとっても、この言葉は心に突き刺さってくるように聞こえるのではないでしょうか。
いったい誰が条件を満たし、弟子足りえる存在であり得るだろうかと思うかもしれません。

2.神様の思いが一番

一つ目の条件を見てみると、家族と自分の命を憎まないなら、わたしの弟子ではありえない、とイエス様は言っています。
家族を憎むという条件は、分け隔てなく等しく愛を行われるイエス様の姿とは相反するように思えます。
「命」という言葉に訳されているのは、原典では魂とも訳せる言葉です。魂とは私を私たらしめるものですから、実際には私たちの心や思いを指しています。
以前三人の弟子志願者たちが登場しましたが(ルカ9:57以下)、彼らは自分の思いを優先し、弟子になることは二の次に置いていました。
ここで家族と自分の命ですらも憎め、と言われることは、イエス様が彼らに言ったことと同じ意味を持っています。
それは、自分の思いよりも神様の思いを一番に考える、ということです。

3.罪の赦しとしての洗礼

神様の思いを一番に置くと、私たちの世界は変わります。
私たち自身がいかに神様の思いや愛に生きることの難しさ、神様の言葉の通りに生きられない苦しみがやってくるからです。
それを聖書では罪、と呼んでいます。
そして洗礼は、キリストが十字架にかかってくださったことで、私たちの罪が赦されたことを信じることを通して、キリストの弟子となる儀式です。
ここでイエス様が「自分の十字架を背負ってくる者でなければ」と二つ目の条件をあげられたのは、罪赦されても、私たちのうちに蔓延る罪がなくなるわけではないからです。
宗教改革者ルターは「キリスト者の生涯は絶えざる悔い改めである」と述べています。
私たちが神様の思いに挫折する、けれども悔い改めて従おうとする──十字架を背負って歩こうとするときにこそ、キリストの十字架によって成し遂げられた罪の赦しは、挫折した私たちを立ち上がらせる力になるのです。
それは、痛みには癒しを、苦しみには慰めを、対立には和解を、絶望には希望を与え、支え、信じ、愛し合う関係が、その先に約束されていることをイエス・キリストが示してくださったからです。

4.パートタイムの弟子ではいられない

主の弟子としての歩みを始める前に「まず、腰を据えて考える」ことをイエス様は二つのたとえを通して語られました。
洗礼は、一度受けたら取り消すことはできません。
塔を建てようとする彼は全財産を勘定することを求められます。それは、塔を建て始めれば後戻りはできないからです。
私たちも同じです。都合のいい時だけ、パートタイムのように弟子であることはできないのです。
あなたがこれから洗礼を受けようとするなら、あなたの罪についてじっと見つめる時があってよいと思います。
そうすれば、あなたに神様がどのように関わり、赦されて生きる喜びがあることに気づかされるからです。
そして恵み深くも既に主の弟子としての歩みを始めているのなら、必ず信仰的に挫折してしまうその時にこそ、再び歩み始めるときの道しるべとなる言葉でとなるのです。
どちらにせよ、私たちは弟子として歩むことについて、常に考え続けることになります。主の弟子としての私たちの歩みは、最期の条件にあるように、私たちに属しているもの──財産だけではない、心も、思いも、いのちも、すべて神様に明け渡すことからから、始まるからです。

2019年9月11日水曜日

次回・15日の礼拝案内。

次週9月15日(日)10時半から、聖霊降臨後第14主日の礼拝が行われます。

長野・松本教会では野口和音牧師の説教
「共に喜ぼう」

と題して、長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られます。
礼拝後、松本教会では敬老祝賀会が行われます。
どうぞご自由にご参加ください。
野口和音牧師は松本教会におります。

† † †

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

──ルカ福音書15章1-10節

2019年9月10日火曜日

9月・ルターナイツ in まつもとの御案内。

9月29日(日)の18時30分から、
松本教会にてルターナイツ in まつもとが行われます!


今回のプログラムは……
・松井 徹さん(ジャズピアノ)
・奥原英幸さん・尊子さんの奥原バンド

です!
今回も野口和音牧師のヴァイオリンと、”讃美歌のウラ話”もあるカモ?

参加費は軽食込みで500円、事前申し込みは不要です。
日曜日の夜を、ちょっとトクベツな時間にしませんか?

皆様どうぞご参加ください。お待ちしています。

†会場の松本教会はこちらです†

2019年9月9日月曜日

いのち学・第4回の御案内。

9月16日(月)19時より、松本教会にて
「いのち学~素粒子・生命・人間・宇宙の不思議~」が行われます!


いのち学、今年度のテーマは「素粒子・生命・人間・宇宙の不思議」です。
わたしたちを取り囲むこの世界について、また生命科学としての「命」について、
そしてその枠を超えたわたしたちの「いのち」について──。
信州大学特任教授の谷口俊一郎先生を講師として、共に考える時を持ってみませんか?

前回までの内容も振り返りながらですので、今回からの参加でも大丈夫です!
参加費は500円。 事前申込は不要です。

9月16日の19時から日本福音ルーテル松本教会にて行われます。
当日お時間のある方はぜひお越しください。
また、お問い合わせは日本福音ルーテル松本教会まで。

†会場の松本教会はこちらです†

聖霊降臨後第13主日礼拝。20190908

8日(日)は聖霊降臨後第13主日礼拝でした。
長野教会では主日礼拝として、松本教会は通信礼拝として守られました。



9月に入っても残暑が続き、冷房なしには過ごせない主日となりました。
日差しに当たるとじっとりと汗がにじみます。
市議会選挙が始まったようで、長野教会へと入る道にある事務所がにぎわっていました。
市政に善き人が選ばれますように。
み言葉を通して主の弟子としての歩みについて、両教会共に聞き、み言葉を分かち合いました。



松本教会では通信礼拝として守られました。
奏楽と聖書朗読は松本教会の音声を用いて礼拝が守られています。
来週には暑さも落ち着き、礼拝堂に戻れればと思っています。

台風を直撃した首都圏で交通機関のマヒと、被害が相次いでいるようです。
このような日にもお仕事に行かなければならない方々の道のりが守られますように。
また被害にあわれた方には、必要な助けが与えられますように。
皆様の安全が守られますようにお祈りいたします。

2019年9月5日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」


──ルカ福音書14章7-14節

† † †

1.あなたは誰を招くのか

当時のイスラエルにおいて、食事の席は一種の社会的な地位を表すものであったと言われています。
人々はお金持ちや高い地位にいる人々におもねり、食事に招きました。彼らとの関係を良く保ち、利益を得るためです。
当たり前に行われていたこのような行為は、同時に貧しい人々や給仕をする奴隷たちに対しての差別を生んでいただろうと思います。
イエス様は食事に招かれた人々に、すすんで末席に座ることによって、同席する人々の間で面目を施すほうがよいのであると言われます。
しかしイエス様はここで、差別的な社会の中でうまくやっていくためのノウハウを語っておられるのではありません。
なぜなら人々を招く側の人々に向けて「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」と言われているからです。

2.面目丸つぶれのイエス様

ルカだけでなくマタイやマルコの福音書でも、ファリサイ派の人々から「なぜあなたは罪びとと一緒に食事をするのか」と言われるイエス様が記されています。
この問いかけは、多くの人々にとっても同様の疑問であったに違いありません。
罪人や社会からのけ者にされている人々と共に食事をするイエス様は“面目丸つぶれ”の人であったでしょう。
しかしイエス様はそんな人々に対する面目など、ちっとも惜しくはなかったのだと思います。
今日の箇所で、人々からもらう面目よりも、神様から報いを受けることのほうが大事であると語っておられるからです。

3.それは誰の面目か

「面目」と訳されているギリシャ語は「栄光」とも訳される言葉です。
イエス様が言っておられる「面目」は、人々に対する面目ではなく、神様の「栄光」のことです。
その栄光を人々の間にあらわし、報いを受けるようにと勧めておられるのです。
返礼もできないような貧しい人々の地位まで自らへりくだる謙虚さは、神様の御心がかなうようにと願う心から生まれるものなのです。
そしてそのような人に、神様は正しい者が復活するときの報い──神の国へと招き入れてくださるのです。

4.関係の中へと押し出すみ言葉

神様のみ言葉はいつだって、私たちを他者との関係の中に押し出していきます。
他者は、神様かもしれませんし、私たちのすぐ隣にいる人かもしれません。
その人との関係のうちに、神の国は来るのです。なぜならイエス様は「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ(ルカ17:21)」と言っておられるからです。
「神の国の福音を告げ知らせなければならない(ルカ4:43)」、と言ってキリストは宣教を始められました。
神の国は、私たちの死後まで来ないわけではありません。私たちが生きて関わる今ここに、くるかもしれないのです。

5.神の国への招きのわざ

私たちはこの数週間のみ言葉を通して、愛のわざへと押し出そうとされる御心を聞きとったのではないでしょうか。
神様はみ言葉を聞き押し出されていく私たちの愛のわざを、神様のみ心をあらわすものとして、そして神の国への招きのわざとして、用いてくださるのです。
すべての人を等しく、神様はわたしたちを食卓へと招いてくださいます。
そこには差別はありません。愛があります。私たちはそのことを知っています。私たちは招きを受け、また招きを担う者として、一人でも多くの人々に、この福音を告げ知らせてまいりたいと思います。
その福音、イエス・キリストは、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方(ヘブライ13:8)」であるのです。



2019年9月4日水曜日

次回・8日の礼拝案内。

次週9月8日(日)10時半から、聖霊降臨後第13主日の礼拝が行われます。

長野・松本教会では野口和音牧師の説教
「パートタイムの弟子ではいられない」

と題して、長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られます。
礼拝後、長野教会では定例役員会が行われます。
どうぞご自由にご参加ください。
野口和音牧師は長野教会におります。

† † †

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

──ルカ福音書14章25-33節

2019年9月2日月曜日

聖霊降臨後第12主日礼拝。

昨日9月1日は聖霊降臨後第12主日礼拝でした。
長野教会は信徒礼拝として、松本教会は聖餐礼拝として守られました。



9月に入り、かなり気温が落ち着いてきました。
昼に比べると朝晩は寒いくらいです。
昼間に31℃という予報を聞いていたので、来週あたりまでは松本教会は冷房のある集会室での礼拝になりそうです。


新潟から二年ぶりに尋ねてきてくれた(サプライズで!)友人と共に礼拝が守れたことも思わぬ恵みでした。

食事の後は60周年記念事業委員会と役員会でした。


記念誌の原稿を打ち出す作業が始まっています。
記念誌に載せる写真は10月頃から教会員全員で選定予定。
皆様から教会の歴史を知る大切なひとときになりそうです。
今年度中の発送を目指して奮闘中。皆様のお力をお借りします。

† † †

季節の変わり目、仕事も学校も新しい区切りの時期です。
この記事をご覧の皆様も
体調が守られると共に、
恵みに満ちた日々となりますように。