2019年10月31日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

──マタイ福音書5章1-6節

† † †

1.塔の体験

マルティン・ルターは「神の義」という聖書の言葉を憎んでいました。
当時カトリック教会の修道士であった彼は、自分が神の義──神様の義しさに適うような人間でないことを誰よりも自覚していたからです。
教会の教えは、悪行を悔い改め、善行によって義しさを積み重ねるようにと勧めていました。
しかしどれだけ懺悔をし、善行を積み重ねても、自分は神の義しさには適わず罰されるしかない存在なのだと、ルターは悩んでいたのです。
ある時ルターは「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。(ローマ1:17)」という聖書の箇所に出会い、日夜考え続けることになりました。
そしてついには、キリストによってその神様の義しさがルターに与えられて「正しい者」とされている、そのことを信仰によって受け止めるからこそ、生かされる、救われるという福音が実現するのだ、とこの箇所を読み解くに至ったのでした。
これこそが「信仰義認」であり、宗教改革の始まりを告げる「塔の体験」と呼ばれる出来事でした。

2.悔い改めの中から

このようにして、信仰によって義とされる、神様の前に義しい者とされるという考え方を柱として、ルターは宗教改革と呼ばれる働きへと立たされていきました。
しかし今日、私たちはその結果だけではなく、ルター自身がそこに至るまでの道のりを思い起こしたいのです。
宗教改革は、彼がもし神様の義しさ、福音について悩まなかったら起こらなかったかもしれません。彼が深い悔い改めと悩みの中にあった時から、それは始まっていたと言えるのではないでしょうか。

3.神の乞食

ルターは悔い改めのことを、自己糾弾、自己憎悪という言葉で定義しました。
ルターがこれを悔い改めの定義としたのは、自分の意志を憎むことを通して、神様に心を向けるとき、私の意志の代わりに神様のご意思が入ってくる、ということを考えていたからです。
ルターは死の間際にこのように書き残しています。
「わたしは神の乞食である」と。
まさに彼が神様が与えてくださる救いに対して、できることなど何もない、神様の恵みを受け取ることしかできないという捉え方から出た言葉です。
善行も、償いもできないほど罪深い私たち──神様の前における貧しさを見つめることこそが救いの道なのであると、ルターは生涯を通して気付かされていったのだと思います。

4.神の御心は私の内に満ちる

今日の聖書箇所をもう一度読んでみたいと思います。
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」
この「国」と訳されている言葉は、「支配」とも訳されるギリシャ語が使われています。天の国とは、神様の御支配、御心そのものであると言えると思います。
ルターが捉えていった通り、悔い改めを通して神の前には全く貧しい者であることを私たちが知る時、まさに「天の国」──「神様の御心」は「私たちのものとなる」のだと、今日の箇所を読むことが出来るのだと思います。

5.極限の貧しさの中にこそ

目に見える豊かさを手に入れたとしても、いつかはそれがすべて失われる日が来ます。いつ何時においても、私たちは神の前において極めて貧しい者であるのです。
しかしルターが「わたしは神の乞食である」と言ったように、深い悔い改めの先に、福音という名の真の豊かさが私達にもプレゼントされていることに気づかされていきたいのです。
私達のために十字架にかかり、復活し、永遠に共に生きて導いてくださるイエス・キリストという名の福音が、私達にプレゼントされているのです。
私達の地上の命が終わるとき、「私もまた神の乞食であった」と言えるような歩みを、日々の悔い改めを通して歩んでまいりたいと思います。

2019年10月30日水曜日

次回・11月3日全聖徒主日の礼拝案内。

次週11月3日(日)10時半から、全聖徒主日の礼拝が行われます。

長野教会では野口和音牧師の説教
「ともなるイエス」

松本教会では高塚郁男牧師の説教
「豊かな実を結ぶ」

と題して、長野教会・松本教会では聖餐礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
牧師は長野教会におります。

† † †

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


──ヨハネ福音書15章1-17節

2019年10月28日月曜日

宗教改革主日・ルターナイツ in まつもと 20191027

27日の日曜日は、宗教改革主日礼拝でした。
長野教会では聖餐礼拝、松本教会では通信礼拝として守られました。


本来関東から先生をお呼びしての礼拝のはずでしたが、特急が翌日月曜からしか開通しなかったため、通信礼拝となりました。
ルターの塔の体験を思い起こしつつ、神の前の貧しさゆえに与えられる豊かさについて分かち合いました。


今週は手に怪我をしてしまったため料理もおぼつかなかったのですが、教会員の皆さまの手料理が大変身に沁みました。感謝。
台風が過ぎ去り、寒くなってきたため、礼拝から今年度初めて暖房をつけました。
昨年に比べると遅いくらいですが、今年の冬も厳しい冷え込みにならないようにと祈るばかりです。

† † †

松本教会で18時半よりルターナイツinまつもとが行われました。
上半期になかなか行えなかったため、2か月に一度のところを、9月に続いて10月、11月と3か月連続開催です。
教会員の方々が礼拝後に残って、お料理を準備してくださっていたそうです。
ありがとうございます。


ルターナイツ9月は、ウクレレ弾き語りの方をお二方お招きしました。
初めは伊藤寛人さん。ウクレレの一般的なイメージからは予想できない表現豊かな歌を披露していただきました。


今回の牧師のコーナー・讃美歌物語は「大きな古時計」のウラ話。
作詞作曲者のヘンリー・C・ワークの生涯を通して、大きな古時計の元歌詞の考察をしてみました。


トリはJUNEさんです。
柔らかな歌声で、特にお子さんとご主人のために歌われたオリジナル曲「birthday」がジンと心に染みました。


今回も多くのご参加に感謝いたします。
また是非日曜日の礼拝にもご参加ください。お待ちしています。


次回ルターナイツinまつもとは、11月24日を予定しております。

2019年10月24日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

──ルカ福音書18章1-8節

† † †

1.やもめと裁判官

本日の福音書の中でイエス様が弟子たちに裁判官とやもめのたとえを語っておられます。
裁判官に対して、やもめは「相手を裁いて、私を守ってください」と求めています。
もしかしたら彼女は誰かに財産をだまし取られたのかもしれません。
彼女はやもめ、未亡人でした。もはや身寄りのない彼女が生きるための唯一の希望は裁判官であり、裁判によって奪われた財産を取り戻すことにありました。
対して裁判官は神を畏れず、人を人とも思わない人であったがために、しばらくやもめの願いをはねのけていました。
しかし彼女があまりにも「ひっきりなしにやってきて」「うるさくてかなわない」からとしぶしぶ彼女の願いを取り上げることにしたのでした。

2.絶えず祈ること

このたとえは「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」という意図をもって語られました。
それゆえ私達は、この箇所を“何度も”祈るという回数についての勧めのように読んでしまうかもしれません。
この世の裁判官ですらやもめの「うるさくてかなわない」ほど“しつような”願いに動かされるのだから、私たちも“しつよう”に、何度でも、祈り続けるべきである、という風にです。
しかし、本当にイエス様はそのようなことを伝えるためにこのたとえ話を語られたのでしょうか。

3.信仰から祈りは生まれる

私たちが諦めずに祈ることは確かに大切だと思います。
しかしイエス様はこのように言われているのです。「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」
すべてが私たちの目に見えなくとも、速やかにさばいてくださる神様がおられるのならば、私たちはそもそも、「何度も祈る」必要は初めから無いのだ、ということにはならないでしょうか。
ここでイエス様が弟子たちに伝えたかった祈りの極意とは、回数を重ねることではないのだと思います。
この勧めは、私たちの祈りを速やかに聞き届けてくださる神様がおられることを信じ、ひと時も忘れないようにしなさいという祈りの前提、信仰についての勧めでもあるのです。
イエス様は他の箇所で、祈りについてこのように言われています。
「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。(マルコ11:24)」
私達が、神様は祈りを必ず聞き届けてくださると信じることから、私達の祈りは生まれるのです。

4.祈りとされる範囲

祈りは、必ずしも言葉や心が整っていなければならないわけではありません。
重い皮膚病を患っていた人々はイエス様に叫んでいます。
「主よ、憐れんでください(ルカ17:13)」
その一言の叫びすら、祈りとしてイエス様は受け止めていかれました。
私達と神様との関係も、同じです。私達が目の前の現実を見て、祈りの言葉が見つからず、嘆きや悲しみ、うめきの中にあったとしても、神様は決してそのような私たちの叫びを、ほおってはおかれないのです。
必ず、祈りとして聞き届けてくださるのです。

5.信仰に立たされて祈る

最後に、イエス様は今日のたとえ話をこのように締めくくっておられます。
「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
これは祈り続ける私たちに対する永遠の問いかけであるように思います。
祈りは、その回数を積み重ねて満足するようなものになってはいけないのだと思います。
わたしたちがそのような罪に陥らないように、神様は祈りを必ず聞き届けてくださると信じる信仰によって立たされてまいりましょう。
わたしたちがどのような状況の中にあろうとも、時に困難や不安のなかに立たされたとしても、私達を決して“ほっとかない神様”がおられます。
そのことを信じて祈る時、私達の祈りは、必ず、聞き届けられるのです。

2019年10月23日水曜日

次回・27日の礼拝案内。

次週10月27日(日)10時半から、宗教改革主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「極限の貧しさの中にこそ」

と題して、
長野教会では聖餐礼拝、松本教会では通信礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
牧師は長野教会におります。

† † †

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

──マタイ福音書5章1-6節

2019年10月22日火曜日

聖霊降臨後第19主日礼拝・教会バザー

20日は聖霊降臨後第19主日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では主日礼拝として守られました。


やもめと裁判官のたとえから、祈りは必ず聞き届けられるという信仰から祈りが生まれることを分かち合いました。
また、台風19号の被害によって天に召された方々、また苦難と悲しみのなかにある人を覚え、慰めと励ましが与えられるようにと祈りを合わせました。

軽い昼食の後、教会バザーが始まりました。


お昼時ということもあり、日用品や手作り菓子などのブースだけでなく、食堂スペースにもたくさんの人が来てくださいました。

食堂は満員御礼!

入口案内

あっという間に食堂のカレーが完売しました。
外では炭火焼きでさんまや焼きおにぎりなどがあり、また具沢山の味噌汁などもふるまわれました。

焼きおにぎりをレクチャーする牧師
また、子どものクラフトコーナーでも予想以上の子どもたちが来てくださいました。
やりたい子どもたちが多すぎて待ち人が出るほどでした。


多くの方にご来場いただき、感謝いたします。
12月の1週目には、アドベントバザーを予定しています。
そちらにもぜひお越しください。

† † †

未だ台風の被害によって避難生活をしている方々に、
一日でも早く平安が訪れますように
また行方不明の方々が見つかりますように。
様々な苦難の中にある人に、
寄り添ってくださる主がおられます。

2019年10月17日木曜日

次回・20日の礼拝案内。

次週10月20日(日)10時半から、聖霊降臨後第19主日の礼拝が行われます。

長野教会、松本教会では野口和音牧師の説教
「ほっとかない神様」

と題して、
長野教会では信徒礼拝、松本教会では主日礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
礼拝後、12時から14時まで、松本教会ではバザーが行われます。


こちらにもぜひお越しください。

† † †

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」


──ルカ福音書18章1-8節

10月・ルターナイツinまつもとのご案内。

10月27日(日)の18時30分から、
松本教会にてルターナイツ in まつもとが行われます!


今回のプログラムは
伊藤寛人さん・JUNEさんをお招きして、
ウクレレ弾き語りです!
今回も野口和音牧師のヴァイオリンと、”讃美歌のウラ話”もあるカモ?

参加費は軽食込みで500円、事前申し込みは不要です。
日曜日の夜を、ちょっとトクベツな時間にしませんか?

皆様どうぞご参加ください。お待ちしています。

†会場の松本教会はこちらです†

2019年10月10日木曜日

いのち学・第5回の御案内。

教会バザーの翌日、10月21日(月)19時より、松本教会にて
「いのち学~素粒子・生命・人間・宇宙の不思議~」が行われます!


いのち学、今年度のテーマは「素粒子・生命・人間・宇宙の不思議」です。
わたしたちを取り囲むこの世界について、また生命科学としての「命」について、
そしてその枠を超えたわたしたちの「いのち」について──。
信州大学特任教授の谷口俊一郎先生を講師として、共に考える時を持ってみませんか?

前回までの内容も振り返りながらですので、今回からの参加でも大丈夫です!
参加費は500円。 事前申込は不要です。

10月21日(月)の19時から日本福音ルーテル松本教会にて行われます。
当日お時間のある方はぜひお越しください。
また、お問い合わせは日本福音ルーテル松本教会まで。

†会場の松本教会はこちらです†

次回・13日の礼拝案内。

次週10月13日(日)10時半から、聖霊降臨後第18主日の礼拝が行われます。


長野教会では信徒の祈りとして、
松本教会では田中良浩牧師の説教
「賛美しつつ、感謝しつつ」

と題して、主日礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。



† † †

 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」


──ルカ福音書17章11-19節

2019年10月8日火曜日

松本教会・秋のバザーのご案内。

再来週、10月20日は松本教会にて教会バザーが開かれます


12時から14時まで、教会バザーが開かれています。
また、同日午前10時からは、礼拝もあります。どうぞこちらにもお越しください。

バザーでは、
★物品(日用雑貨)やとれたて産直野菜の販売
★ルーテル食堂(さんまの炭火焼き!カレーなど)
★焼き菓子・フリマがあります!
また、こどもクラフトコーナーもあるので、お子様とご一緒でも歓迎いたします。

お問い合わせは日本福音ルーテル松本教会までどうぞ!
皆様どうぞご参加ください。お待ちしています。

†会場の松本教会はこちらです†



2019年10月7日月曜日

聖霊降臨後第17主日礼拝。

先週6日は聖霊降臨後第17主日でした。
長野教会は信徒礼拝、松本教会は聖餐礼拝として守られました。

松本教会ではCSから始まりました。
教会学校の先生がお休みのため、分級では急遽皆でトーンチャイムをしました。



主日礼拝では、改めて私たちの信仰についての問いかけを御言葉から分かち合いました。また、「世界ベンゾ注意喚起の日」設立し、呼びかけをしているウェイン・ダグラス氏からのお話も聞きながら、ベンゾジアゼピン系薬の使用法についての危険性を分かち合うことが出来ました。
詳しくはウェイン・ダグラス氏のホームページをご参照ください。→ http://w-bad.org/japan/




写真にもチラリと映っていますが、
再来週10月20日松本教会にて教会バザーです
時間は12時から14時の予定ですが、午前10時から礼拝も行っています。
どうぞご自由にお越しください。


† † †

苦しみの中にある声なき声のために
慰めと癒しがあるように
祈りたいと思います


2019年10月3日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

──ルカ福音書16章19-31節

† † †

1.金持ちとラザロ

ある金持ちと、ラザロと言う貧しい人が登場しています。
金持ちは、衣服やその振舞いからも裕福さがはっきりと表れています。
それに対してラザロは、金持ちの家の門前に横たわり、食卓から落ちる物でお腹を満たしたいと願うほどに貧しさの極みにありました。
ラザロと金持ちの境遇は、死を境目にして逆転していきます。
金持ちは最も苦しい陰府の炎に苛まれ、ラザロは至福の場所だと考えられていたアブラハムのふところに迎え入れられるのです。
そして二人の間は深い淵によってさえぎられ、もはやアブラハムでさえも彼を救うことが出来なくなってしまうのです。

2.欠けた隣人愛

金持ちはなぜ、陰府の炎に焼かれなければならなかったのでしょうか。
ラザロに施しをしていれば、彼は助かったのでしょうか。
きっとそうではありません。ラザロがそうであったように、善い行いが救いの条件になっているわけではないからです。
彼の心は、死してなお彼の語る言葉に現れています。──「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」。
金持ちは、死してなおラザロのことを、自分の必要のために自由に動かせる召使くらいにしか思っていないのです。
アブラハムは金持ちとその兄弟たちに「モーセと預言者に聞け」と言われました。それはモーセが「貧しい同胞に対して心を頑なにせず、物惜しみをするな(申命記15:7)」と言っているからです。
モーセが語っている心とは、イエス様において拡張されていった「隣人愛」の心です。
金持ちはすぐ近くに横たわっているラザロを自分の隣人として見ることなく、関わることもしませんでした。
隣人愛の欠けた彼の心こそが、彼を陰府の炎の苦しみ、淵の向こう側へと追いやってしまったのです。

3.信仰の友を作るために

私たちにとって、隣人とは──ラザロとはいったい誰のことでしょうか。
ラザロに必要であったのは、ひとかけらのパンであったかもしれません。
その身を温める毛布も、雨風をしのぐ家も、できものを治す医者も必要だったかもしれません。
私たちはそのすべてを与えることはできません。しかし私たちは、私たちと彼の間にある門を越えることができるのではないでしょうか。
直前のたとえのなかで、イエス様は言われました。「不正にまみれた富で友達を作りなさい(ルカ16:9)」
この世で私たちに与えられたものを分かち合うことで信仰の友を作ること、それは隣人愛と結びついているのです。

4.分かち合う

私たちが彼と分かち合えるものは、わずかなものかもしれません。
それはひとかけらのパンだけ、一枚の毛布だけかもしれません。
しかし何も与えることができなくとも、そばにいて、共にいる時間を分かち合うことができます。
金持ちが陰府に落とされていったのは、溢れんばかりの恵みと富を神様から与えられながら、それを分かち合う愛がなかったからです。
私たちも考え続けていきたいのです。
私たちは、神様からどれだけのものを受けているのでしょうか。
神様のためにどれだけのものを、誰かと分かち合えるでしょうか。
その人を愛し、神様のもとへと招くために、私たちはいったい何ができるのでしょうか。
たとえ私たちが何もできなくとも、何も持っていなくても、分かち合えるものはきっとあります。それを生み出すものは、アブラハムが、イエスが聖書において語ったように「隣人愛」であるのです。
私たちとすべての隣人との間にある門が淵に変わる前に、その境目を越えて、この愛と、恵みと、この福音とを、分かち合ってまいりたいと思うのです。

2019年10月2日水曜日

次回・10月6日の礼拝案内。

次週10月6日(日)10時半から、聖霊降臨後第17主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教
「信仰の力」

と題して、長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
野口和音牧師は松本教会におります。

† † †

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

──ルカ福音書17章1-10節