2020年3月29日日曜日

四旬節第5主日礼拝。20200329

本日29日は四旬節第5主日でした。
長野教会では家庭礼拝として、松本教会では主日礼拝として守られました。



もう4月も間近であるというのに、今冬一番の大雪が降りました。
足首まで悠々と沈むほどでした。
それでも松本教会では礼拝が守られたこと、感謝いたします。


**本日の日課・福音書(ヨハネ11章1-45節)**


**本日の主日説教**


*祈り*

主よ、全世界であなたに捧げられている祈りを、どうか聞き届けてください。
新型コロナウイルスによって天に召された多くの方々、今なお病の中にあって苦しむ人々の上に、あなたの深い慰めがそれぞれに与えられますように。あなたが死の先に切り開いてくださった永遠の命への道に、ひとりひとりを導いてください。
四旬節の季節を、あなたのみ言葉と共に歩んでまいりました。
あなたは悪魔の誘惑に打ち勝たれました。それは私たちの日々のなかに多くの欲望と誘惑があるからです。
あなたはニコデモを通して新しいいのちへの道を教えてくださいました。私たちが自分の力により頼むことばかりに、行き詰ってしまうことがあるからです。
あなたはサマリアの女性を通して、彼女が持つ負い目と救いとを明らかにされました。それは、私たちもまた彼女のように罪をあなたの御前で告白し、あなたによって受け止められるためです。
あなたは盲目の人の目を開かれました。それは彼の生涯を通して成し遂げられる神様の御業を示されるためでした。私たちのこれまでと、これからの先においても、途切れることなく働き続けておられる神様を私たちが思い起こすためです。
そして今日、あなたは私たちの生の歩みの中に起こるあらゆる悲しみ、特に死に対する深い悲しみに寄り添い、その死を打ち砕いてくださいました。わたしたちは神様の御許における永遠の命を待ち望んでいます。死の先に与えられるからこそ、私たちの今を生きるいのちが、あなたと共にあって、あなたによって豊かにされますように。
全国で、また特に関東圏においては、教会の礼拝が中止され、集うことができない寂しさを抱える方々、またそのために心を尽くしている牧師たちがいます。
どうか主よ、一人でも多くの耳に、あなたの福音を響かせてください。
わたしたちが今目の前にある困難に対して共に祈り、あなたに委ねて生き、いつでも共におられるあなたを感じ取りながら、今日からの一週間を歩み始めることができますように。


2020年3月27日金曜日

「教皇フランシスコとともにCOVID-19の犠牲者のために祈る時間」のお知らせ

教皇フランシスコとともにCOVID-19の犠牲者のために祈る時間のお知らせです。

カトリック司教協議会より、新型コロナウイルス(COVID-19)の犠牲者のために祈る時について、ご案内いたします。
┼ 主の平和

 皆様には祈りのうちに主のご受難の黙想の時を迎えていらっしゃることでしょう。 
 また、地域によっては新型コロナウイルス感染が拡大傾向にあり、皆様方におかれましても、対応に苦慮しておられることと拝察いたします。
 さて、フランシスコ教皇が、本日(3月27日(金))のローマ時間18時(日本時間28日午前2時)に、聖ペトロ大聖堂正面のバルコニーにおきまして、パンデミックと認定されたCOVID-19の犠牲者、感染者、医療従事者、為政者、その他直接間接かかわりのあるすべての方々のため、また一刻も早い終息のために祈りをささげます。
 教皇は、全世界のカトリック信者のみならず、キリスト教諸教会の方々にも共に祈ってくださるよう呼びかけておられます。
 日本時間では真夜中ですので、日本からリアルタイムの参加は難しいと思いますが、ご意向だけでも全世界のキリスト信者とこころを合わせて教皇の祈りに参加してくださいますなら、大変幸いでございます。
 なお、カトリック中央協議会のウエブサイト(https://www.cbcj.catholic.jp/)では、同時刻にライブ配信を予定しておりますので、合わせてご活用ください。
 まことに急なお願いですが、ご高配のほどよろしくお願い申し上げます。
祈りのうちに

日本カトリック司教協議会

詳細はカトリック中央協議会のホームページをご覧ください。
カトリック教会は2018年には宗教改革500年をおぼえ、長崎にて平和の祈りを共にした仲間です。
また、長野県においては、北信キリスト教協議会・松本キリスト教協議会(MCC)としてのつながる教会の一つでもあります。
午前2時という夜遅い時間ではありますが、共に祈りを合わせていただければ幸いです。

日本福音ルーテル松本教会・長野教会
牧師 野口和音





2020年3月26日木曜日

次回29日・四旬節第5主日礼拝のご案内。

次週3月29日(日)は四旬節第5主日の礼拝です。

長野教会、松本教会では
「いたむ神」

と題して、
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では主日礼拝として守られます。
3月いっぱいまで、両教会の昼食・すべての集会は中止とします。
また、礼拝中の聖餐も自粛いたします。
健康に気を付けてお越しください。

また、3月いっぱいまで、説教音声をブログでも配信いたします。
体調等ご不安の方など、ご家庭で祈りの時を持つ際、用いていただければ幸いです。

† † †

ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

──ヨハネ福音書11章1-45節

2020年3月25日水曜日

今週の黙想文(マルコ9:24)

その子の父親はすぐに叫んだ。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
──マルコ9章24節

初対面の方とお話をしていたら、息子さんがあるキリスト教会の信徒だということで盛り上がりました。
「息子の教会の皆さんや先生が本当にお優しくて……神様を信じる方は皆、お人ができていらっしゃるのね」とその方は言われていましたが、信仰者の本当の姿は、今日のみ言葉を叫んだ父親の方が近いのではないでしょうか。
キリストの救いを信じていても、実際に苦難や悩みの中にある時には、誰もが隠されていた不信仰を露わにされるのです。
ノルウェーの伝道者H.N.ハウゲは、「信じるとは、罪のままでキリストのみもとに行くことだ」と言いました。
キリストはこの不信仰な父親の願いを聞き入れられ、息子をいやされました。
私たちのまことの信仰とは、私たちの不信仰をキリストの前で覆い隠すことなく、お委ねすることから始まるのです。
この父親の告白の言葉を、私たちも日々叫ぼうではありませんか。

(20200322週報記載)


……今週の黙想とは……

日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れていただく機会として用いてくだされば幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2020年3月22日日曜日

四旬節第4主日礼拝。20200322

本日22日は、四旬節第4主日礼拝でした。
長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られました。



マスクでの礼拝で、月一回の聖餐はお休みとなりました。
また、松本教会とはSkypeにて通信が繋がっています。


共に祈りを合わせることができました。


長野教会の庭に咲く桜の樹が、小さなつぼみを付けていました。
こちらはまだまだ寒いですが、イースターに向けて、春の訪れを感じています。
一日でも早い新型コロナウイルスの終息が訪れますように。

**本日の日課・福音書(ヨハネ9章1-41節)**


**本日の主日説教**


2020年3月19日木曜日

次回22日・四旬節第4主日礼拝のご案内。

次週3月22日(日)は四旬節第4主日の礼拝です。

長野教会、松本教会では
「神の足跡をたどる」

と題して、
長野教会では主日礼拝礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られます。
3月いっぱいまで、両教会の昼食・すべての集会は中止とします。また、礼拝中の聖餐も自粛いたします。
健康に気を付けてお越しください。

また、3月いっぱいまで、説教音声をブログでも配信いたします。
体調等ご不安の方など、ご家庭で祈りの時を持つ際、用いていただければ幸いです。

† † †

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。
 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

──ヨハネ福音書9章1-41節

2020年3月18日水曜日

今週の黙想文(ルカ22:32)

しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。
──ルカ福音書22章32節

† † †

最期の夜、ペトロが裏切ることを見抜いておられたキリストはペトロに言います。
「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。(31節)」
悪魔の誘惑は決してファンタジーな出来事ではありません。
私たちが自分の安心のために、他の誰かに配慮しないことがあるなら、それは既に悪魔の誘惑に陥り、キリストの愛を忘れています。
この世にはあらゆる不安で満ちています。
特にコロナウイルスが引き起こす不安は、単なるウイルスによる病だけでなく、愛の欠如たる罪の病をあらわにしています。
しかしそのような私たちのために、キリストが祈ってくださっていることを思い起こしたいのです。
キリストの祈りは必ず聞かれます。
再び立ち上がらされたペトロのように、私たちもキリストの言葉にもう一度耳を傾けましょう。
キリストはペトロに、今日のみ言葉に続けて言われるのです。
「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

(20200315週報記載)

……今週の黙想とは……

日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れていただく機会として用いてくだされば幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2020年3月15日日曜日

四旬節第3主日礼拝。20200315

本日15日は四旬節第3主日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では主日礼拝として守られました。
松本教会では3週間ぶりに礼拝が再開され、皆で祈りを合わせることの喜びに満たされました。
また、LWFから送られてきた新型コロナウイルス撲滅のための祈りも両教会で祈りました。

あんずの花が咲きそうです
ここ数日、春のような陽気と冬日が交互にやってきています。
昨日は雪で、今週末は春のような気温とのことで、春の訪れを感じています。
未だにコロナウイルスの終息の目度が立たないままの再開ですが、体調不良や風邪症状がある方はご遠慮なく礼拝をお休みください。
なお、3月いっぱいまで、長野・松本両教会で礼拝時の聖餐および昼食・集会を中止しています。


**本日の福音書朗読(ヨハネ4:5-42)**


**主日説教音声**





2020年3月12日木曜日

次回15日・四旬節第3主日礼拝のご案内

次週3月15日(日)は四旬節第3主日の礼拝です。

長野教会、松本教会では
「あなたに出会うたった一つのやり方」

と題して、
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では主日礼拝として行われます。
ただし、3月いっぱいまで昼食・集会は中止となります。
また、体調・外出にご不安な方のため、礼拝後、説教音声をこちらにもアップします。
ご家庭で祈りの時を持つ際、用いていただければ幸いです。

† † †

それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」


──ヨハネ福音書4章5-42節

2020年3月11日水曜日

今週の黙想(マルコ9:19)

なんと信仰のない時代なのか。
──マルコ福音書9章19節

† † †

キリストから力を与えられたにも関わらず弟子たちが子どもを癒すことができなかったのは、その力を自分の栄光のために使おうとしてしまったからなのだと思います。
私たちは神様から何を与えられているのでしょうか。
私たちがもし自分の手には何もないと思っているのであれば、あなたに今日も新しい一日が与えられていることを思い起こしましょう。
「墓場で一番の金持ちになることは私には重要ではない。夜眠るとき、我々は素晴らしいことをしたと言えること、それが重要だ。」と故スティーブ・ジョブズは言いました。
この言葉が指し示す素晴らしいこととは、与えられた一日を誰かのために生きるということなのだと思います。
キリストは、私たちのために生き、私たちのために語り、私たちのために十字架にかかってくださいました。
キリストのように私たちもまた中心に神様を据え、誰かに関わりあうことを通して神様のために生きる、そのような一日を歩みだしてみませんか。

(20200308週報記載)

……今週の黙想とは……
日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れていただく機会として用いてくだされば幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2020年3月8日日曜日

3月8日四旬節第2主日 家庭礼拝用式文・音声

3月8日・四旬節第1主日の家庭礼拝用式文です。
讃美歌・聖書朗読・説教音声等と一緒に用いていただければ幸いです。
♪が付いているところは、音声が流せます。

1 初めのことば
 主よ、わたしの唇を開いてください。この口はあなたの讃美を歌います。
 神よ、速やかにわたしを救い出し、主よ、わたしを助けてください。
 父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン

2 特別の祈り
私たちを強くしてくださる主なる神様、善と悪との戦いは、私たちの内と外にあり、悪魔とあらゆる勢力が空しい約束で私たちを誘惑し、あなたに挑んでいます。私たちを御言葉に固く立たせ、罪に落ちても再び立ち上がらせてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

3 讃美歌♪
み言葉の歌 教会讃美歌313番


4 聖書朗読
創世記12章1-4a節〈旧p15〉 ローマの信徒への手紙4章1-5&13-17節〈新p278〉


ヨハネによる福音書3章1-17節〈新p167〉

5 説教♪

6 讃美歌♪
感謝の歌 教会讃美歌246番


7 信仰告白 使徒信条
天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン

8 交唱 
 神に向かってわたしは声をあげ、
     助けを求めて叫びます。
 主の慈しみは決して絶えない。
     主の憐れみは決して尽きない。
 それは朝ごとに新たになる。
     あなたのまことはそれほど深い。
 わたしの罪にみ顔を向けず、
     咎をことごとくぬぐってください。
 神よ、わたしのうちに清い心を創造し、
     揺るがぬ霊を、わたしのうちに新しくしてください。
 わたしをあなたのみ前から捨てず、
     あなたの聖なる霊をわたしから取り上げないでください。
 あなたの救いの喜びをわたしに返し、
     喜び仕える霊を与えて、わたしを支えてください。
 主よ、この日も、
     わたしたちを罪から守ってください。
 主よ、憐れんでください。
     わたしたちを憐れんでください。
 主よ、わたしたちの祈りを聞いてください。
     わたしたちの叫びの声をみ前に至らせてください。
 父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、
     初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン

9 祈 り
祈りましょう。
主よ、新型コロナウイルスの流行により、私たちはそれぞれの場所であなたに祈りを捧げます。教会に集うことができず、さびしさを抱えておられる方々がおられます。どうか主よ、そのような方々一人ひとりと共にあなたがおられ、祈りを通して励ましを与えてくださいますように。
あなたは私たちの救いのため、自らの御子のいのちすらも捧げてくださいました。私たちはこの四旬節を通し、あなたにすべて委ねることのできない私たちの罪を悔い改めます。しかし主よ、あなたは私たちを罪の重さによって打ちのめすためではなく、滅びから永遠の命へ、裁きではなく救いへと導いてくださるために、御子イエス・キリストを遣わされました。
悔い改めた私たちが、キリストの言葉を通して、日々のあらゆることをあなたにお委ねすることをおぼえさせてください。
私たち一人ひとりのいのちは全て、あなたから与えられたものです。あなたは愛のゆえに、わたしたちの誰一人として傷つくことなく、裁かれることなく、失われることを良しとされません。病の中にある人々には癒しをお与えください。また不安の中にある多くの人々、一人ひとりのいのちを尊ぶことができるようにしてください。
今こそわたしたちを新しいいのちへと生まれさせてください。不安に満ち溢れる今この時であるからこそ、私たちがあなたによって生かされ、愛と平安に満ちて生きるようにと導かれていることを思い起こさせてくださいますように。 

(※そのほか各家庭における祈りの課題を自由にお祈りください。)

すべてをあなたにお委ねいたします。この祈りを尊き主、イエスキリストの御名を通し、御前にお捧げいたします。アーメン

10主の祈り
  天の父よ。
  み名があがめられますように。
  み国が来ますように。
  み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。
  私たちに今日もこの日の糧をお与えください。
  私たちに罪を犯した者を赦しましたから、
  私たちの犯した罪をお赦しください。
  私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。
  み国も力も栄光も とこしえにあなたのものだからです。 アーメン

11 祝 福
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、
 あなたがたと共にあるように。アーメン


2020年3月4日水曜日

次回8日・四旬節第2主日のご案内

次週3月8日(日)は四旬節第2主日です。
長野教会では、主日礼拝のみ行います。
(昼食は中止ですが、役員会は行われます。)


新型コロナウイルス予防のため、
松本教会では
8日の礼拝は中止となりました。

(教会員の方々には説教等をお送りいたします)
新型コロナウイルスの感染者が松本市で出たことを受け、現時点ではこのような判断となりました。
今後の感染状況により、延期・または再開が早まる可能性もあります。
このブログでも情報配信していきたいと思いますので、随時ご確認いただければ幸いです。

また、当日の家庭礼拝用式文・音声はこちらにも、3月8日(日)10時半から掲載いたします。
ご家庭での祈りに用いていただければ幸いです。

† † †

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。


──ヨハネ福音書3章1-17節

今週の黙想文(ヨハネ11:28)

先生がいらして、あなたをお呼びです。
──ヨハネ福音書11章28節

† † †

兄弟ラザロが病のために死に、マリアは悲嘆にくれていたと思います。
病をいやしていただこうと願ったのに、キリストはすぐには来てくださらなかったからです。
マルタは来られたキリストを迎えにいきましたが、マリアはマルタを通して「あなたをお呼びです」と聞くまで立ち上がりませんでした。
ここに、マリアの葛藤が表れているのだと思います。
私たちが願うとおりには神様が動いてくださらないことに、私たちはしばしば複雑な思いを抱えます。
願いを叶えてくれない神様なんて必要ないという思いが首をもたげ、しかし必ずより善い道を示してくださるはずだと信じようとします。
この不信仰と信仰心の狭間の中で、キリストはマリアを呼んだように、私たちを呼んでおられます。
何を祈ればいいのかと悩む必要はありません。ただ思いの丈を素直に言葉にすることが、祈りとなるからです。
すべてを受け止めてくださるキリストは、今日あなたのもとに来られ、あなたを呼んでおられるのです。

(20200301週報記載)

……今週の黙想とは……
日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れていただく機会として用いてくだされば幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2020年3月1日日曜日

3月1日四旬節第1主日・家庭礼拝用式文/音声

3月1日・四旬節第1主日の家庭礼拝用式文です。
讃美歌・聖書朗読・説教音声等と一緒に用いていただければ幸いです。
♪が付いているところは、音声が流せます。

1 初めのことば
 主よ、わたしの唇を開いてください。この口はあなたの讃美を歌います。
 神よ、速やかにわたしを救い出し、主よ、わたしを助けてください。
 父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン

2 特別の祈り
私たちを強くしてくださる主なる神様、善と悪との戦いは、私たちの内と外にあり、悪魔とあらゆる勢力が空しい約束で私たちを誘惑し、あなたに挑んでいます。私たちを御言葉に固く立たせ、罪に落ちても再び立ち上がらせてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

3 讃美歌♪
み言葉の歌 教会讃美歌240番

4 聖書朗読
創世記2:15-17;&3:1-7、ローマ5:12-19、

マタイ4:1-11

5 説教♪

6 讃美歌♪
感謝の歌 教会讃美歌450番

7 信仰告白 使徒信条
天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン

8 交唱 
 神に向かってわたしは声をあげ、
     助けを求めて叫びます。
 主の慈しみは決して絶えない。
     主の憐れみは決して尽きない。
 それは朝ごとに新たになる。
     あなたのまことはそれほど深い。
 わたしの罪にみ顔を向けず、
     咎をことごとくぬぐってください。
 神よ、わたしのうちに清い心を創造し、
     揺るがぬ霊を、わたしのうちに新しくしてください。
 わたしをあなたのみ前から捨てず、
     あなたの聖なる霊をわたしから取り上げないでください。
 あなたの救いの喜びをわたしに返し、
     喜び仕える霊を与えて、わたしを支えてください。
 主よ、この日も、
     わたしたちを罪から守ってください。
 主よ、憐れんでください。
     わたしたちを憐れんでください。
 主よ、わたしたちの祈りを聞いてください。
     わたしたちの叫びの声をみ前に至らせてください。
 父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、
     初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン

9 祈 り
祈りましょう。
主よ、新型コロナウイルスの流行により、私たちはそれぞれの場所であなたに祈りを捧げます。教会に集うことができず、さびしさを抱えておられる方々がおられます。どうか主よ、その様な方々と共にあなたがおられ、祈りを通して励ましを与えてくださいますように。
あなたの十字架を通して私たちの罪を思い起こし、悔い改める四旬節がやってまいりました。あなたが荒れ野で40日間の断食により空腹を覚えられたように、私たちの信仰はあなたのみ言葉に飢えています。悪魔の誘惑は私たちを揺さぶり、あなたが命を懸けて示してくださった愛を忘れさせようとしてきます。この悔い改めの季節を歩む中で、私たち一人一人があなたへの信仰を捉えなおし、また絶えずあなたのみ言葉にこそより頼む、祈りの日々を続けることができますように。
日々刻々と感染者が増えるなかで、不眠不休の看病に従事しておられる人々がいます。主よ、その働きをかえりみると共に、彼らに十分な休息をお与えください。不安があおられ、嘘が蔓延し、混乱する社会のいたるところで人が人を非難しあう息苦しさがあります。このようなときだからこそ、あなたがみ言葉を通して語ってくださった愛を為す者として私たちを立たせ、一人ひとりに出来ることを教えてください。
どうか一人でも多くの人々の命が癒され、慰めのうちにありますように。一日も早い終息が与えられますように。

(※そのほか各家庭における祈りの課題を自由にお祈りください。)

すべてをあなたにお委ねいたします。この祈りを尊き主、イエスキリストの御名を通し、御前にお捧げいたします。アーメン

10主の祈り
  天の父よ。
  み名があがめられますように。
  み国が来ますように。
  み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。
  私たちに今日もこの日の糧をお与えください。
  私たちに罪を犯した者を赦しましたから、
  私たちの犯した罪をお赦しください。
  私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。
  み国も力も栄光も とこしえにあなたのものだからです。 アーメン

11 祝 福
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、
 あなたがたと共にあるように。アーメン