2020年9月30日水曜日

今週の黙想文(エレミヤ3:13)

ただ、お前の犯した罪を認めよ。
──エレミヤ書3章13節

† † †

旧約は裁きと罰の神、新約は赦しの神とよく言われます。
それゆえ別の神のように見えるかもしれません。
しかし確かに旧約には赦しの神が表されているのです。
キリストは神による罪の赦しを前面に押し出しましたが、罪をなかったことにはせず、悔い改めを人々に語りました。
裁かれ罰されることを思うと、罪を認められる人はほとんどいないからです。
だからこそキリストは、恵みと慈しみのゆえに赦しが先行し、そこから悔い改めを求める神を語ったのです。
しかしそれはキリストが造り出した神観ではありません。旧約聖書の神様の再発見だったのです。
「イスラエルよ、立ち帰れと主は言われる。わたしはお前に怒りの顔を向けない。わたしは慈しみ深く、とこしえに怒り続ける者ではないと主は言われる。(12節)」という言葉に続いて、神様は罪を認めよと言われるからです。
私たちも恵みばかりに目を向けるだけでなく、自らの罪をしっかりと見つめなおす時、真の赦し、神の慈しみと恵みに触れることになるのです。

(20200927週報記載)


……今週の黙想とは……

日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2020年9月27日日曜日

聖霊降臨後第17主日礼拝。20200927

本日9月27日は聖霊降臨後第17主日の礼拝でした。
長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られました。



4週目は松本教会との通信礼拝でした。
今週も通信環境も良く、讃美歌のオルガン伴奏と共に、松本教会の方々の歌う声が長野教会に届きつつ、声を合わせて賛美をすることが出来ました。



礼拝後、月第4週の女性会聖研の時間を使って、長野教会では今月から改訂式文の学びを始めました。
ちょうど礼拝も式文を朗唱する形が当分は続きそう、ということで、まずは聖餐の部から学びつつ、少しずつ親しみ、導入を目指します。
卒業論文で扱った日本福音ルーテル教会の礼拝式文の変遷と共に、新しい聖餐の部の典礼曲を皆で歌う練習をしました。


**本日の使徒書・福音書朗読**
エゼキエル書18章1-4&25-32節〈旧p1321〉
フィリピの信徒への手紙 2章1-13節〈新p362〉
(▶️をクリックすると再生されます)



マタイによる福音書 21章23-32節〈新p41〉



*本日の主日説教「今日、行け」(礼拝中録音)*



*祈り*

愛に満ちたもう父なる神様。
私たちのうちには誰しも自分の正しさにより頼む心があります。
しかし主よ、どうかその正しさが、あなたの正しさに沿うものでありますように。
あなたが私たちに教えてくださった愛に従って、私たちがあらゆる他者に対して配慮し、認め合うことが出来ますように。
そして時に厳しい言葉が私たちに降りかかる時にも、悔い改めの心をもって受け止めることが出来ますように。
私たちの正しさは時としてあなたの御心から離れ、誰かを傷つけたり、正しさを押し付けたりしてしまいますが、そのようなときには、御言葉を通して、あるいは他の人々の口を通して、あなたの御言葉を思い起こさせてください。
あなたは私たちに今日、み言葉を通してあなたへと心を向けること、あなたを信じることを教えてくださいました。
私たちの信仰は、ただあなただけがご存知です。誰かと比べられることもなく、優劣をつけられることもありません。
私たち一人ひとりがただあなたにのみ、私たちの心の全てを打ち明けることができますように。罪を赦され、いっそう私たちがあなたのために働く愛の担い手として、今週も歩むことが出来ますように。

4連休が終わり、新型コロナウイルスの感染拡大も懸念されています。長野においても日に数人ではありますが、未だに感染が収まっていません。
主よ、どうか病の中にある人々には癒しを、不安の中にある人にはあなたの守りと平安をお与えください。
そして、懸命に医療の現場に立って働いておられる人々、特にリスクの高い人々に関わって働く人々に、どうか力をお与えくださいますように。
一人ひとりが愛と赦しをもって関わり合い、助け合って、このコロナ禍の嵐を乗り切ることが出来ますように。

2020年9月25日金曜日

次回27日・聖霊降臨後第17主日礼拝の御案内。

次週9月27日(日)は聖霊降臨後第17主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「今日、行け」

と題して、10時半より
松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として守られます。
牧師は長野教会におります。

また、礼拝後は当ブログにも家庭礼拝の式文と説教音声・礼拝全体の音声を載せます。
ご家庭で祈りの時を持つ際、用いていただければ幸いです。

† † †

◆権威についての問答
イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

◆「二人の息子」のたとえ
「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

──マタイ福音書21章23-32節

2020年9月23日水曜日

今週の黙想文(Iペトロ5:7)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。
神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
──ペトロの手紙 I 5章7節

† † †

神に任せること、つまり委ねるということは大変難しいことです。
何かを任せるということは、相手を信頼し、大きく誤っていない限りはあれこれと口を出さない、ということが求められるからです。
しかし私たちは心配になって様子を窺ったり、自分の思い通りに事が運ぶようにとあれこれと意見を挟んでしまうことはないでしょうか。
私たちの思い煩いは、私たち自身の努力ではどうにもならないものが多くあります。
神はそのことをご存知で、私たちの思いを丸ごと明け渡すことを求めておられます。
その「心にかけていてくださる」神の慈しみを信じ、依り頼みたいのです。
私たちがそれを心から信じ、全てお任せするとき、私たちは初めて重荷から解放され、神の正しさに生き始めるのです。

(20200920週報記載)

……今週の黙想とは……

日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2020年9月20日日曜日

聖霊降臨後第16主日礼拝・敬老祝賀会

本日9月20日は聖霊降臨後第16主日の礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では主日礼拝として守られました。





また、転入式が行われました。松本教会にまた一人、新しい姉妹が迎え入れられました。
心より歓迎いたします。
信仰生活が松本教会においていっそう恵み深く祝福されますように。

毎年9月の3週目は松本教会では敬老祝賀会を行っています。
例年、食事の時を持ちつつの会でしたが、感染対策の面からおひとりおひとりからのメッセージとプレゼントのみとなりました。
それでも、今日までの道のりと、昨年からの1年間が神様によって守られたことの感謝を皆さん述べられていました。
どうぞ主の導きのうちに、長生きされてください。


**本日の礼拝全体の録音**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の主日礼拝の音声となります。


**本日の使徒書・福音書朗読**
ヨナ書 3章10節-4章11節〈旧p1447〉
フィリピの信徒への手紙 1章21-30節〈新p362〉



マタイによる福音書 20章1-16節〈新p38〉



*本日の主日説教「恵みの1デナリオン」(礼拝中録音)*



*祈り*

恵みに満ちたもう主なる神様。
私たちの世界には未だ差別がはびこっています。人が人を自らと同じように尊ぶことが出来ず、自分の思いにばかり囚われてしまっています。それは、あなたがすべての人々にいのちを与え、あなたが恵みと導きをもって一人ひとりを今日まで生かしてくださっていたことを忘れてしまうからです。
愛に満ちたもう主よ、あなたを見失っている人々、それゆえに自分以外を愛することが出来ず、他人も、自分さえも傷つけてしまうような人々がいます。どうかそのような人々に、あなたが絶えず呼びかけてください。あらゆる聖書のみ言葉が、あなたからの救いへの招きであることに気づかせてください。
私たちひとりひとりに人生が、あなたによって今日ここまで守られてきたことを思い起こさせてください。私たちがこれまでに経験した痛みと悲しみは誰かの痛みを知るために、これまでに受けた喜びと恵みは誰かを励まし、分かち合うために与えられたものです。どうかあなたから受けたすべてのものを通して、私たちがあなたの御心に適って、愛に生きることが出来ますように。

新型コロナウイルスが猛威を振るい始めて半年が経ちました。交わりを絶たれ、様々な自由を制限される中にあっても、あなたの御名によって私たちは繋げられている兄弟姉妹であることを思い起こさせてください。それゆえに私たちを力づけ、誰かとの関わりを保ち続けるための愛を私たちにお与えくださいますように。
感染防止とその治療のために働いている医療従事者の方々、不安と不満から起こる心無い事件を防ぎ、治安を保つために働く人々、今日わたしたちが平和に過ごすために働いているすべての方々に感謝するとともに、どうか主よ、あなたが彼らを愛のゆえに力づけ、励まし、これからも報いてくださいますように。

2020年9月18日金曜日

次回20日・聖霊降臨後第16主日礼拝のご案内

次週9月20日(日)は聖霊降臨後第16主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「恵みの1デナリオン」

と題して、10時半より
松本教会では主日礼拝として、長野教会では信徒礼拝として守られます。
牧師は松本教会におります。

また、礼拝後は当ブログにも家庭礼拝の式文と説教音声・礼拝全体の音声を載せます。
ご家庭で祈りの時を持つ際、用いていただければ幸いです。

† † †

◆「ぶどう園の労働者」のたとえ
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

──マタイ福音書20章1-16節

2020年9月16日水曜日

今週の黙想文(詩編23:6)

命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
──詩編23章6節

† † † 

この詩編を読んで、そのとおりだと頷ける人は多くないことでしょう。
むしろこの詩編の作者がダビデのものだと知るなら、彼だからこそ言えたことだと思うかもしれません。
彼がイスラエル王国が最も繁栄した時期の王様であり、圧倒的な武力を誇った英雄だというイメージを持っているなら尚更です。
しかし、実際にはダビデもまた常に他国の脅威にさらされ、大きな繁栄の裏では身内から幾度となく裏切られ、命の危険にさらされることがありました。
時にはダビデ自身が部下の妻を我が物にするという罪を犯すのです。
ダビデもまた、私たちと同じように日々の思い煩いや、欲望に流されるような一人の人間だったのです。
しかし彼はそのような生の中に、神からの「恵みと慈しみ」を見出していきました。
私たちも今、多くの不安と思い煩いに悩まされているかもしれません。
孤独と、先の見えない明日に恐れを抱えているかもしれません。
それでも詩編23篇は私たちを励ましてくれます。
「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。(4節)」
この信仰に立つとき、たとえ深い絶望の中にあろうとも、そこに神の恵みと慈しみがあることを知らされるのです。

(20200913週報記載)

……今週の黙想とは……

日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2020年9月13日日曜日

聖霊降臨後第15主日礼拝。20200913

本日9月13日は聖霊降臨後第15主日の礼拝でした。
長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られました。

朝から雷が鳴り響き、通信状況も少し心配でしたが、礼拝自体は滞りなく守られてよかったです。
松本教会と長野教会の2教会で祈りを合わせることが出来ました。
コロナ禍においても両教会が礼拝が続けられていることに感謝しつつ、いち早い終息を祈り続けています。


**本日の礼拝全体の録音**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の主日礼拝の音声となります。


**本日の使徒書・福音書朗読**
創世記50章15-21節〈旧p92〉
ローマの信徒への手紙14章1-12節〈新p293〉


マタイによる福音書18章21-35節〈新p35〉



*本日の主日説教「赦しは誰を救うのか」(礼拝中録音)*



*祈り*

赦しと救いの神様。
今、多くの人々が、自分さえよければよいという思いに囚われているように感じています。誰かが傷つくこと、不安でいることを気にも留めず、自分の思いにだけ心を寄せて生きている、そういう人々が多くいます。
主よ、どうかそのような人々の心に寄り添ってください。自分のことだけで精一杯になって、より一層弱くなっている人々の心を、あなたが支えてください。
あなたはたった一人で、すべての人の救いのために、十字架の道のりを歩まれました。あなたはたくさんのみ言葉を通して、私たちの弱さを浮き彫りにしていきます。
しかしそれは、あなたが私たちの弱さに寄り添ってくださり、他の誰かの弱さに気付けるようにするための導きであるのだと思います。
いつでもあなたにより頼み、あなたの慈しみと憐み、祝福と恵みとに私たちを満たしてください。そして、それらを互いに分かち合うことができますように。
教会の中だけでなく、私たち一人ひとりをその器として立たせ、より多くの人々があなたの憐みの心に満たされて、関わりあうことが出来ますように。

今なお新型コロナウイルスのために最前線で働いておられる医療従事者や介護の職を担う人々を、あなたが守り、力づけてください。
疲れには休息と平安をお与えください。あなたこそが私たちの救い主であるということを心の柱として、日々を過ごしていくことが出来ますように。

2020年9月11日金曜日

次回13日・聖霊降臨後第15主日礼拝のご案内。

次週9月13日(日)は聖霊降臨後第15主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「赦しは誰を救うのか」

と題して、10時半より
松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として守られます。
牧師は長野教会におります。

また、礼拝後は当ブログにも家庭礼拝の式文と説教音声・礼拝全体の音声を載せます。
ご家庭で祈りの時を持つ際、用いていただければ幸いです。

† † †

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

──マタイ福音書18章21-35節

2020年9月10日木曜日

結婚祝福の祈り 20200910

本日10日(木)、松本教会にて信徒の方の結婚祝福式が行われました。



最初のお話ではお二人での式の予定でしたが、直前になってお話が広がり、駆けつけてくださった他の方々も一緒に式を行うことが出来ました。

ご家庭の平和と幸せが、神様によって末永く守られますように。


2020年9月9日水曜日

今週の黙想文(IIコリ5:9)

ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
──コリントの信徒への手紙II 5章9節

† † †

パウロは信仰的な生き方についてコリントの教会に教えています。
私たちが地上で生きている限り様々な問題や重荷が降りかかってきますし、時には神様の思いから離れるようなこともあります。
しかしそれを自ら知り、悔い改めることができるのは信仰が与えられているからなのです。
問題や重荷が目の前にあるとき、それに対して私たちは何ができて、何ができないかという目先のことに囚われることが多くありますが、その場しのぎでは何の解決にもならないことを私たちは知っているはずです。
信仰生活においても同じです。
私たちの歩みの先に揺らぐことのない神様からの救いが約束されています。そして私たちはそれを受けるにふさわしい者とされているのです。
様々な問題や重荷によって、不信仰や迷いの中にしばしば陥ってしまう私たちであろうとも、神様の約束は揺るがないのです。
だからこそパウロが主に喜ばれる者で「ありたい」という願いは、何度罪に陥ろうとも神から差し出されている救いを懸命に受け取ろうとする、悔い改めの宣言なのです。
私たちが今日を歩むための指針として、この言葉を受け取ってまいりましょう。

(20200906週報記載)

……今週の黙想とは……

日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2020年9月6日日曜日

聖霊降臨後第14主日礼拝。20200906

本日9月6日は聖霊降臨後第14主日の礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では主日礼拝として守られました。




松本教会では密を避け、礼拝堂と集会室の2室での分散礼拝を継続しています。
Skypeで2室を繋げ、礼拝堂には通常の通信礼拝のように聖壇を映し出し、ほぼ同時進行で礼拝を守ることが出来ました。
だんだんと涼しさが増し、秋が近づいてきました。
季節の変わり目に体調を崩された方もいらっしゃいました。
どうぞ気を付けて日々をお過ごしください。


**本日の礼拝全体の録音**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の主日礼拝の音声となります。


**本日の使徒書・福音書朗読**
エゼキエル書33章7-11節〈旧p1350〉
ローマの信徒への手紙13章8-14節〈新p293〉


マタイによる福音書18章15-20節〈新p35〉



*本日の主日説教「神からの戒めとして受ける」(礼拝中録音)*



*祈り*

いのちの与え主なる神様。

あなたは私たちにいのちを与えられ、今日ここまで生かしてくださいました。私たちに多くの知識と経験を与え、今日の私たちを形作ってくださいました。私たちが何歳になろうとも、あなたの子どもとして素直に御言葉に聞くことができるようにしてください。
あなたが聖書のみ言葉だけでなく、私たちの周りを取り囲む多くの人々を通して導いてくださっていることに感謝しつつ、日々を歩むことが出来ますように。
その反面で、あなたの御心に叶わない人々、罪の中にあって、自分のことだけで精いっぱいな人々がいます。相手のことを思えず、自分の思いだけを優先してしまう人々がいます。
そのような人々にこそ、あなたが憐れみをもって語り掛けてください。滅びを前にしなければ悔い改めなかったイスラエルの人々ですら「どうして死んでよいだろうか」と見捨てることのなかったあなたの大きな愛でその人を包み込んでください。
そしてどうかあなたとの出会いの中で、悔い改めて、兄弟姉妹の一人として、私たちと共に生きていくことが出来ますように。互いに祈りあい、整えあう、そのような共同体として、わたしたちの教会に連なる一人ひとりを用いてくださいますように。

今日の西日本、特に九州には大型の台風が上陸しています。
先日の人吉の豪雨に続き、再びの大雨が予想されています。
主よ、どうか被害が大きくなりませんように。危険な区域に居る人々が無事に避難することができ、明日からの生活においても、助けあって生きることが出来ますように。
あなたが人々を守り導いてください。

2020年9月4日金曜日

次回9月6日・聖霊降臨後第14主日の礼拝案内。

次週9月6日(日)は聖霊降臨後第14主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「神からの戒めとして受ける」

と題して、10時半より
松本教会では主日礼拝として、長野教会では信徒礼拝として守られます。
牧師は松本教会におります。

また、礼拝後は当ブログにも家庭礼拝の式文と説教音声・礼拝全体の音声を載せます。
ご家庭で祈りの時を持つ際、用いていただければ幸いです。

† † †

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

──マタイ福音書18章15-20節

2020年9月2日水曜日

今週の黙想文(Iコリ12:24b)

神は、見劣りする部分をいっそう引き立たせて、
体を組み立てられました。
──コリントの信徒への手紙 I 12章24b節

† † † 

私たちにとって苦手なこと、欠けていると感じている部分は何でしょうか。
キリスト教では個人に授けられたものを神様からの「賜物」という言葉で表現することがありますが、そこには実は私たちにとって苦手な部分、欠けもまた含んでいるのです。
弱さや欠けは人々との関係を崩すものだとして公にしたくないと思われがちですが、私たちが教会──神様の御前に集うとき、その弱さがいっそう引き立たせられるのは「各部分が配慮しあう」ことによる平和を私たちに教えるためなのです。
先日ニュースで、「新型コロナウイルスに感染したら他の人に言いますか」という質問に、多くの人が「言わない」と答えていました。
この答えからは、互いに配慮が失われると共に、人々の関係における平和も失われているように思います。
他者の弱さを自分のもののように配慮することによって与えられる平和の関係を、まず私たち一人ひとりから始めてまいりましょう。

(20200830週報記載)

……今週の黙想とは……

日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。