2021年6月30日水曜日

今週の黙想文(哀歌3:33)

人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、
それが御心なのではない。
──哀歌3章33節


† † †

哀歌は預言者エレミヤによって書かれたと言われ、無残に滅ぼされつくしたエルサレムの情景に激しい嘆きが続きます。
しかし、エレミヤはこれを神様に背いた罰と捉え、人々に苦しみを与えること自体が神様の本心などではない、と言います。
罰の大きさは背きの大きさのあらわれであり、それゆえに神様への悔い改めを嘆きの中で呼びかけるのです。
最も神様を信じることの難しい現実、深い悲しみの中にありながら、エレミヤはなおも「主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。(32節)」と続けます。

深い苦しみの中にあるとき、多くの人々は神様を呪い、信仰を投げ捨てます。
しかし私たちはそこにこそ神様の御心と憐みが隠されていることを信じたいのです。
その時、自ら私たちの痛みを分かち合ってくださるために十字架へ登られたキリストの愛が、私たちにいっそう深く迫ってくるのです。
「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない(31節)」からです。

(20210627週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2021年6月27日日曜日

聖霊降臨後第5主日礼拝。20210627

本日6月27日は、聖霊降臨後第5主日の礼拝でした。
松本教会では通信礼拝として、長野教会は主日礼拝として行われました。

長野教会側の礼拝設備

松本教会からの奏楽をskypeをつないで長野教会のほうに送り、長野教会では大きなスピーカーから流しています。
通信状況も安定し、まるで長野教会でオルガンが弾かれているくらい綺麗な音で礼拝を守れています。感謝。

礼拝後、長野教会では新式文の学びを行いました。
聖餐の部の学びを終え、いよいよ次回は派遣の部に入ります。
典礼曲の練習は一通り終えることが出来、先んじて導入される予定の聖餐の部の歌を復習しました。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
哀歌3章22-33節〈旧p1289〉
コリントの信徒への手紙二 8章7-15節〈新p334〉
マルコによる福音書5章21-43節〈新p70〉

説教「まことの平安の中へ」

*祈り*

信仰の導き主なる神様。
主よ、今なおこの世界には、人と人との間で、争いや諍いが起こり、差別や妬みに満ちています。
今日のみ言葉の中で語られた彼女もまた、病から救われてなお、私たちと同じように、人との関係の中に様々な悩み苦しみを抱えただろうと思います。
私たちもまた多くの人々の陰に隠れ、自分が手にすることのできる救いだけで満足しようとします。
しかし主よ、あなたはわたしたちを一層深い恵みと平安へと満たすために捜し求め、御言葉をもって呼びかけてくださっています。
私たちが日々の過ごすうちに、あなたから確かに与えられている平安と恵み、救いに繋がる導きを見出すことが出来ますように。

再び長野県で、新型コロナウイルスの感染者が増えつつあります。
感染力の強い変異株が猛威をふるっています。
こうして長く続く忍耐の時に、新型コロナウイルスだけではない、心の病もまた、大きな問題になっています。
主よ、病の中にある人、ぬぐい切れない苦しみの中にある人々に寄り添い、その病を癒してください。
そして、あなたが私たちのために与えてくださる平安の中へと、彼らを導いてください。
私たち一人ひとりが隣人と関わる時には、あなたの救いと平安とを証しする者として立たせて、私たちを通して信仰を与えられるようにその人を導いてください。
私たちの日々のうちに起こるあらゆる出来事を通して私たちがあなたへの信仰を与えられ、あなたの御業のために用いられますように。

そして、あなたによって私たちが送り出される明日からの日々が、あなたからの祝福に満たされ、平安のうちに守られますように。

2021年6月24日木曜日

次回27日・聖霊降臨後第5主日礼拝のご案内。

次週2021年6月27日(日)は聖霊降臨後第5主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「まことの平安の中へ」

と題して、
松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として、 両教会10時半から行われます。牧師は長野教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
礼拝後は当ブログにも礼拝全体の動画を載せます。こちらもどうぞご視聴ください。

† † †

イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

──マルコ福音書5章21-43節

2021年6月23日水曜日

今週の黙想文(Iコリ2:4)

わたしの言葉もわたしの宣教も、
知恵にあふれた言葉によらず、
“霊”と力の証明によるものでした。
──コリントの信徒への手紙I 2章4節


† † †

キリストの福音を誰かに伝える時、パウロはそれを”霊”と力の証明によるものだと言っています。
これは、パウロ自身に起こった神様の働きが唯一無二のものであり、それを素直に語ったということです。
私たちのうちに信仰が与えられる出来事は、他の誰とも比較することはできません。
一人ひとりにとってふさわしい形で神様は出会ってくださり、信仰をお与えになるからです。
その唯一無二の信仰体験は、どのような知恵よりも力強く神様を証する基礎となるのです。
神様から与えられているもの、その働きを、私たちは日々の中でどれだけ見つけられているでしょうか。
恵みと導きを与えられ、慰めと励ましを受け、喜びに満たされる神様の働きを見出すとき、それは私たちに生き生きとした信仰を与え、愛に生かし、隣人との関わりと分かち合いへと押し出していくのです。
(20210620週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2021年6月22日火曜日

教会の庭のあんず収穫!

松本教会の庭にあるあんずの木から、実を収穫しました。
昨年は雪にやられましたが、今年は教会から見て右側の木が豊作です!

先週の様子。熟すと実がぽとぽと落ちてきます

とりあえず今日は、ビニール袋に4袋。
牧師がせっせと収穫しています。
傷が入ったり割れてしまった実は、痛んだところを取り除いて冷凍します。




きれいなものは布巾で汚れをとって、まるのまま。冷凍パック4袋になりました。
ジャムとして売り出す予定です!



どうぞお楽しみに。

2021年6月20日日曜日

聖霊降臨後第4主日礼拝。20210620

本日6月20日は、聖霊降臨後第4主日の礼拝でした。
松本教会では主日礼拝として、長野教会は信徒礼拝として行われました。



私たち一人一人の日々の歩みの中に、平安に満ちたキリストがわたしたちと共にいてくださることをみ言葉から聞きました。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
ヨブ記38章1-11節〈旧p826〉
コリントの信徒への手紙二 6章1-13節〈新p331〉
マルコによる福音書4章35-41節〈新p68〉

説教「あなたがいるから大丈夫」

*祈り*

導き主なる神様。
あなたは私たちのすべてを導いておられます。
私たちのうちにある罪は、私たちが生きるただなかにあって、あらゆる困難を引き起こしています。
何があなたの御心かはっきりとは分からない世の中に生きる私たちが、キリストのみ言葉を通して私たちの歩みを振り返り、あなたの導きと大きなご計画の一端に触れることができますように。
そして私たちを絶えず救いへと招いてくださっていることをキリストの言葉を通して聞き取ることができますように。

あなたの御手のわざは、あらゆるものを通して働いておられます。
私たちの予想もつかない偶然にも見える出来事を通して、あるいは誰かとのつながりや関わりを通して、あなたは私たちを導いておられます。
私たちがその導きに気付かされる時、私たちの信仰を新たにしてください。
特に私たちが苦難の中にあって、不安や迷いの中にある時にこそ、あなたのみ言葉とその姿を通して、私たちを励まし、慰め深く支えてください。
あなたは何度も不信仰に陥ってしまう弟子たちを見捨てることなく、み言葉を語り続けてくださいました。
それと同様に、今日を生きる私たちの日々をも、御言葉に聞き続ける歩みとしてください。あらゆることを通してあなたの導きと恵みを見出すことができますように。

長野県では新型コロナウイルスが徐々に落ち着きを取り戻す中にあって、今日までワクチンの接種のために働いておられる医療従事者の方々、また特に介護職に就いておられる方々の労を、あなたが顧みてください。
一人として亡くなってよい魂はないことを私たち一人ひとりが心に留め、心を一つにして、この困難に満ちた時代を乗り越えることが出来ますように。
私たちをあなたの御心のうちに歩ませてください。

2021年6月17日木曜日

次回20日・聖霊降臨後第4主日礼拝のご案内。

次週2021年6月20日(日)は聖霊降臨後第4主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「あなたがいるから大丈夫」

と題して、
松本教会では主日礼拝として、長野教会では信徒礼拝として、 両教会10時半から行われます。牧師は松本教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
礼拝後は当ブログにも礼拝全体の動画を載せます。こちらもどうぞご視聴ください。

† † †

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

──マルコ福音書4章35-41節

2021年6月16日水曜日

今週の黙想文(出3:12)

神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。
このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。
──出エジプト記3章12節


† † †

モーセの生い立ちを辿ると、本来は生まれてすぐ殺されるはずだったヘブライ人でありながら、王族の養子とされ、同胞のヘブライ人を守ろうとするあまりに不慮の事故でエジプト人を殺してしまった過去を持っています。
ミディアンに逃れた時の彼の心には、ヘブライ人の中にもエジプト人の中にも居ることのできない孤独を抱えていたはずです。
しかし神様はヘブライ人──イスラエルの人々を率いてエジプトを脱出するリーダーとして彼を選びました。
出エジプトはイスラエルの人々を救い出すと同時に、モーセ自身が生きる場所を回復されていく出来事でもあったのではないでしょうか。
そして神様はいつも彼と共におられたのです。
神様は私たちにおいても生きるべき場所を与え、人との関わりを与え、そして必要な働きへと送り出してくださっています。
その歩みが共にある神様によって導かれ、自分にとって必要なものとして与えられていることを心に留めたいと思います。

(20210613週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2021年6月13日日曜日

聖霊降臨後第3主日礼拝。20210613

本日6月13日は、聖霊降臨後第3主日の礼拝でした。
松本教会では通信礼拝として、長野教会は主日礼拝として行われました。


神の国のたとえから、私たち一人ひとりを通して見えない神様の働きがあること、それを信じて委ねることを分かち合いました。


**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
エゼキエル書17章22-24節〈旧p1320〉
コリントの信徒への手紙 二 5章6-17節〈新p330〉
マルコによる福音書4章26-34節〈新p68〉

説教「その種は必ず芽吹く」

*祈り*

日々の導き主なる神様。
あなたは何千年もの時間をかけ、数え切れないほどの人々を救いへと導き、そしてあらゆる関わりを通して、今日も私たち一人ひとりと出会ってくださいます。
あなたの御心とご計画は私たちの想像を超えて計り知れませんが、あなたがキリストの十字架を通して示してくださった愛がその中心にあることを、私たちは信じます。
どうかキリストを通して示されたあなたの愛を、私たちのうちにも注いでください。
わたしたちがいつも誰かの小さなキリストとして歩むことが出来るように、あなたのみ言葉を心に刻んでください。

あなたがいつ、どのようにして信仰の種を蒔いてくださるかは私たちの目には見えません。しかしそうして蒔かれた信仰の種が必ず芽吹くことを約束してくださいました。
豊かな実を付けることを信じて種を蒔く人のように、私たちもたゆまずあなたへの信仰に生かされ、キリストのように誰かと愛をもって関わりあう歩みへと導いてください。

このコロナ禍の中で、日々の中でも、教会でも、多くのことができなくなってしまったり、制限した形になってしまったと感じていました。
しかし主よ、それでもなおあなたの働きは妨げられることなく、今なお神の国、あなたのご支配は広がり続けていることを信じます。
私たちの心からの祈りを聞き届けてください。
あなたの御名があがめられますように、御国が来ますように、み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。
どうかこの忍耐の時を乗り越えた先で、あなたが人知れず蒔かれた種が芽吹き、一人でも多くの人があなたのみ言葉によって救いを受け取ることが出来ますように。
そのために信仰者として立たされたわたしたちのすべてを用いてください。
そして今日ここに集うことが出来なかった方々においても、それぞれの場所であなたの働きのために用いてください。
そして来るべき日には再会の喜びを分かち合うことが出来ますように。

2021年6月10日木曜日

次回13日・聖霊降臨後第3主日礼拝のご案内。

次週2021年6月13日(日)は聖霊降臨後第3主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「その種は必ず芽吹く」

と題して、
松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として、 両教会10時半から行われます。牧師は長野教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
礼拝後は当ブログにも礼拝全体の動画を載せます。こちらもどうぞご視聴ください。

† † †

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

──マルコ福音書4章26-34節

2021年6月9日水曜日

いのち学2021 第1回が行われました。

6月7日(月)は松本教会で19時から、いのち学2021第1回が行われました。




今年のいのち学は「宇宙の中の私たち」と題して、「科学、哲学、神学的視点からわたしたちのいのちについて考えてみよう」というテーマで始まりました。
今回はゲストスピーカーをお呼びし、科学と神学だけではなく、哲学の始まりについてのお話もいただきました。
わたしたちがいのちを考えるとき、そこには様々な道があり、学べば学ぶほどに奥深いものだと感じるひと時となりました。

今年度も全四回を予定しております。
次回は7月5日(月)を予定しています。どうぞご自由にご参加ください。

今週の黙想文(ロマ13:14)

主イエス・キリストを身にまといなさい。
──ローマの信徒への手紙13章14節


† † †

パウロはキリスト者が従う掟を「隣人を自分のように愛しなさい」に要約し、具体的なわざに結びつけています(ロマ12:9-21)。
この具体的な姿は全てキリストの姿に重なります。
パウロ自身、このような愛のわざに生きることの難しさを知っていました。
だからこそ自らの力だけにより頼むのではなく「キリストを着る」という表現を使うのです。
例えばどんなに私たちが仕事に行きたくないと思っても、生きるためには働かなければなりません。
キリストに生きること──キリスト者にとっての愛の行いもそれと同じです。
私たちの心が相手を愛せなくとも、私たちが着るキリストがその人を愛しておられるからこそ、私たちは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)」という人知を超えた神の愛に生かされていくのです。
それは、キリストが山上で語ったみ言葉の通りです。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)」
(202106週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2021年6月7日月曜日

牧師エッセイ(2021年6月)

あるゲーム好きのライターが「最近好きなゲームでもすぐ飽きてしまう」ことについて記事を書いていました。
小さい頃は何時間でもゲームに没頭できたのに、三十路をこえた今、遊んだ傍からやめたくなってしまう。これは老化だろうか?という問いかけから始まったその記事は、最後には「ゲームへの熱量、愛着が減った一方で、植木とか、天候とか、いわゆる『花鳥風月』に興味が移るようになった。(中略)しかもその楽しさは年々強まっている。」と締めくくられていました。
いつもはゲームを熱く語っている方であるにも関わらず、あまりの変わりように笑ってしまいました。

しかし同時に、私自身も最近特にその『花鳥風月』に心惹かれることが多くなったなと思い返しています。
朝のさわやかに吹くそよ風や、静かに降る雨の音に心が癒されたり、道端のコンクリートから根性強く生えてくる一輪の花に励まされたりします。
それはきっと根源的な、神様が造られた私たちの「いのち」が感じているものなのかもしれません。

旧約の人々は宇宙や自然の美しさに神様の御業を見出しました(詩編8篇)。
その祈りは神様への悔い改めと賛美に繋がっていきます。
私たちの周りには人間が作り出した多くのテクノロジーが溢れていますが、その中において神様が創造なさったものに心惹かれるとき、そこでわたしたちのいのちは神様との関わりを求めているのだと思います。
日々のあらゆるところに神様の恵みを見出すことのできる心を保ちたいものです。

2021年6月6日日曜日

聖霊降臨後第2主日礼拝。20210606

本日6月6日は、聖霊降臨後第2主日の礼拝でした。
松本教会では主日礼拝として、長野教会は信徒礼拝として行われました。
1週目ということもあり、松本教会は別室での分散礼拝で守られました。

また、礼拝後には新しい改訂式文の学びを行いました。
典礼歌の練習を続けていますが、今回で式文1セットのすべての歌を練習し終わりました。
反応は様々ですが、少しずつ親しんでいってもらえればと願っています。


**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
創世記3章8-15節〈旧p4〉
コリントの信徒への手紙 二 4章13節-5章1節〈新p329〉
マルコによる福音書3章20-35節〈新p66〉

説教「捉えきれない神様」

*祈り*

赦しと招きの主なる神様。
あなたは幾千年も前から、人々に福音を語り続けてくださいました。
あなたが立てられた王や預言者を通して、愛をもって導き続けてくださいました。
そしてついには人間イエスとして肉をまとい、私たちに寄り添う者として多くのしるしを示し、共に生きる者としてみ言葉を語ってくださいました。
十字架の死を復活によって乗り越え、その先に私たち一人ひとりに聖霊を送られました。
これらすべての道のりに、絶えざる赦しと招きがあったことを、私たちはみ言葉から聞きます。
私たちがみ言葉から福音を聞くとき、どのようなみ言葉の中にもあなたの愛が溢れています。
あなたが赦しをもって私たちを悔い改めへと導き、み言葉を聞き続ける者として私たちが招かれていることをおぼえ、祈ります。
どうか私たちの心があなたから離れることがありませんように。
主日を迎えるたびにあなたの言葉に耳を傾ける私たちに、今日必要なみ言葉を語ってください。
私たちの信仰が新たにされていく福音を聞き取ることが出来るように、私たちの心を開き、清めてください。

新型コロナウイルスの猛威は未だに続きつつあります。
ワクチン接種が進む中、感染力の強い変異種の台頭が起こりつつあります。
多くの人々がストレスを抱える中で、なんとかこの時を乗り越えようと力を振り絞っています。
主よ、懸命に働いておられる方々一人ひとりの健康を守ってください。
今日様々な理由からここに集うことのできなかった方々の信仰の旅路をも、あなたが豊かに守り導いてください。

2021年6月3日木曜日

次回6月6日・聖霊降臨後第2主日礼拝のご案内。

次週2021年6月6日(日)は聖霊降臨後第2主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「捉えられない神様」

と題して、
松本教会では主日礼拝として、長野教会では信徒礼拝として、 
両教会10時半から行われます。牧師は松本教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
礼拝後は当ブログにも礼拝全体の動画を載せます。こちらもどうぞご視聴ください。

† † †

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

──マルコ福音書3章20-35節

2021年6月2日水曜日

今週の黙想文(ローマ10:6)

「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」
──ローマの信徒への手紙10章6節


† † †

累計6000件もの悩み相談を受けていた方の記事に「人の悩みはすべて人間関係からくる」と綴られていました。
一見人間関係に関係ないような悩みもすべて、他人の目を気にしたり、自分と誰かを比べたりすることから生まれる、と続けられていて、その通りだなと思います。
聖書における救いについても同様に、私たちは他人と自分を比べ、目に見える行いの良し悪しから、救われるか滅びるかを判断しようとすることはないでしょうか。
パウロはこの問題について厳しく戒めています。
信仰は目に見えるものではなく、誰が救われるかを決められるのは神様だけです。
「独り子を信じる者が一人も滅びないで(ヨハネ3:16)」救われることを願い、この世にキリストをお送りになった神様の愛のわざを、私たちが誰かを滅びに定めるための理由に使うことこそもっとも罪深いことであると、心に留めたいと思うのです。
(20210530週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。