それが御心なのではない。
──哀歌3章33節
† † †
しかし、エレミヤはこれを神様に背いた罰と捉え、人々に苦しみを与えること自体が神様の本心などではない、と言います。
罰の大きさは背きの大きさのあらわれであり、それゆえに神様への悔い改めを嘆きの中で呼びかけるのです。
最も神様を信じることの難しい現実、深い悲しみの中にありながら、エレミヤはなおも「主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。(32節)」と続けます。
深い苦しみの中にあるとき、多くの人々は神様を呪い、信仰を投げ捨てます。
しかし私たちはそこにこそ神様の御心と憐みが隠されていることを信じたいのです。
その時、自ら私たちの痛みを分かち合ってくださるために十字架へ登られたキリストの愛が、私たちにいっそう深く迫ってくるのです。
「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない(31節)」からです。
日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。
あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。