2021年9月30日木曜日

次回10月3日・聖霊降臨後第19主日礼拝の御案内。

次週2021年10月3日(日)は聖霊降臨後第19主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「全ての出会いは神の配剤」

と題して、
松本教会では主日礼拝として、長野教会では信徒礼拝として、
10時半から礼拝が行われます。
牧師は松本教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
礼拝を自粛される方のため、当日は当ブログにて礼拝のライブ配信も行います。 礼拝後は音声等を高音質化した礼拝動画を載せます。こちらもどうぞご視聴ください。

† † †

ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

──マルコ福音書10章2-16節

2021年9月29日水曜日

今週の黙想文(マタイ5:16)

あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
──マタイ福音書5章16節


† † †

キリストとそのみ言葉が「塩」に譬えられ、わたしたちのうちに沁みこんで「味付け」されるとマルコ福音書には語られています。
マタイ福音書の並行箇所ではキリストの塩を受け取った私たちが「世の光」として生きることに目を向けています。
一人ひとりがキリストの塩を受けるだけではなく、私たちが「世の塩、世の光」としてキリストに押し出されているのです。
光はその在り方によって周りを照らすように、私たちもその在り方、生き方、ふるまいや関わり方によってキリストを証しする者でありたいものです。
灯を高く上げることで広く照らすこともでき、また近づけて狭い範囲をさらに明るく照らすこともできます。
私たちがキリスト者として証をすることは、具体的にそれを公に語ることばかりでなく、相手が求める明るさに合わせるように、関わり方や立ち位置を決めることも、灯としての働きの一つなのです。

(20210926週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2021年9月26日日曜日

聖霊降臨後第18主日礼拝。20210926

本日9月26日は、聖霊降臨後第18主日の礼拝でした。
松本教会では通信礼拝として、長野教会は主日礼拝として行われました。

ライブ配信にてご参加いただいた方々にも感謝いたします。

本日長野教会でも敬老祝賀会が行われました。
敬老の方のリクエストでアメイジンググレイスを演奏し、プレゼントをお渡ししました。


これからもご健康が守られ、日々が神様と共にあって励まされるようにと祈ります。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
民数記11章4-6,10-16,24-29節〈旧p231〉
ヤコブの手紙5章13-20節〈新p426〉
マルコによる福音書9章38-50節〈新p80〉

説教「心の腐敗は何で止める」

*祈り*

愛と救いの源である神様。
あなたは私たち一人ひとりとの関係のうちに救いのみ言葉を語ってくださり、あなたの御許へと招いてくださっています。
私たちがそれを受け取る時、その喜びに満たされるだけではなく、この地上の歩みをも新しくしてください。
「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」とあなたはキリストを通して仰いました。
私たちが私たち自身の中にある罪に目を向けるということは、その罪が誰かを傷つけてしまうことに気付くことです。
それはわたしたちにとって、大切な片腕や片足を失うほどの苦しみかもしれません。
しかし主よ、私たちがそれを省みる時、あなたは確かに私たちが関わる人々との関係の間で執り成してくださることを信じます。
私たちの罪が完全に取り除かれるその日まで、私たちが日々罪によって起こる心無い言葉やふるまいを悔い改め、誰かを傷つけることがないように、いつも新しくしてください。

様々なストレスと不安のために、私たち一人ひとりから余裕が失われていく時代でもあります。
それによって、誰かとの関係がうまく行かなくなること、すれ違いや傷つけあうことも、私たちに起こるかもしれません。
主よ、私たち一人ひとりが今そのような痛みの中にあるのならば、あなたが十字架の痛みをもって寄り添い、私たちを癒してください。私たちの心を慰めと平安で満たしてください。
そして私たちが再び立ち上がることが出来た時、関係に破れを抱えた人々ともう一度関わるための勇気を与えてください。
私たちの悔い改めの祈りを通してあなたがその関係のうちに執り成してくださり、すべての関わる人との関係が平和のうちに保たれるようにと、私たちを導いてください。


2021年9月24日金曜日

いのち学2021 第4回(最終回)の御案内。

 来月10月4日(月)19時より、松本教会にて

「いのち学~宇宙の中の私たち~」第4回(最終回)が行われます!


いのち学2021、いよいよ最終回です!
今年度のサブタイトルは「宇宙の中の私たち~科学、哲学、神学的視点から~」でお送りしてまいりました。
最終回はそれぞれの専門分野から熱く深く語っていただきます!
もちろん今回からの参加も歓迎いたします。
科学だけではとらえきれない「人のいのち」について、共に考える時を持ってみませんか?

参加費(資料代)は500円。 事前申込は不要です。

新型コロナウイルス感染予防のため、従来のように食事の交流の時はありません。
講義の後、自由な質疑応答の時間がとられます。軽食(市販品を別途販売)もあります。
ご参加の際にはマスクをご着用ください。
また、体調がすぐれない方、2週間以内に感染者多発地域に訪問があった方、また、感染多発地域から来られた方との接触があった方は、ご参加をご遠慮ください。
万が一の場合に備え、受付にてご連絡先をお聞きします。ご了承ください。

10月4日(月)の19時から日本福音ルーテル松本教会にて行われます。
当日お時間のある方はぜひお越しください。
また、お問い合わせは日本福音ルーテル松本教会まで。

†会場の松本教会はこちらです†

2021年9月23日木曜日

次回26日・聖霊降臨後第18主日礼拝の御案内。

次週2021年9月26日(日)は聖霊降臨後第18主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「心の腐敗は何で止める」

と題して、
松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として、
10時半から礼拝が行われます。
牧師は長野教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
礼拝を自粛される方のため、当日は当ブログにて礼拝のライブ配信も行います。 礼拝後は音声等を高音質化した礼拝動画を載せます。こちらもどうぞご視聴ください。

† † †

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 人は皆、火で塩味を付けられる。 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

──マルコ福音書9章38-50節

2021年9月22日水曜日

今週の黙想文(イザヤ29:13)

唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。
──イザヤ書29章13節


† † †

新しい生活様式という言葉をもはや聞かなくなりました。
社会的距離を保ち、マスクと手指消毒をするというルールは私たちの生活の当たり前になったからでしょう。
一方でこれを同調圧力による強制だと感じながら従っている人も少なくありません。
自粛とあわせて多くの人々が不満を募らせ、堪えられなくなって来ている今こそ、何のためのルールであったのかを思い起こす時が来ているように思います。
キリストがイザヤの言葉を引用し、昔の言い伝えを批判したのは、ファリサイ派の人々が律法を強制するだけで、なぜその律法が定められたかを忘れてしまっていたからでした。
新しい生活様式は単なる命令ではなく、自分と、そして関わりを持つ隣人を病と死から守る愛から生まれたものです。
誰かを愛するための行為としてこのルールを受け取る時、私たちの心は、神様の心に適うという喜びのうちに、すすんで従うことが出来るようになるのです。
まだまだコロナ禍は続きそうですが、その中にあってもキリストが教えられた小さな愛の奉仕によって共に乗り越えていきましょう。

(20210919週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2021年9月19日日曜日

聖霊降臨後第17主日礼拝。20210919

本日9月19日は、聖霊降臨後第17主日の礼拝でした。
松本教会では主日礼拝として、長野教会は信徒礼拝として行われました。


ライブ配信にてご参加いただいた方々にも感謝いたします。

本日松本教会では敬老祝賀会が行われました。 出席された8名の方々にプレゼントをお贈りし、また出席できなかった方々のために、皆さまからお手紙を書きました。
一人ひとりが神様によって愛され、生かされて今日を迎えることが出来たことを感謝しつつ、これからの歩みをも神様と共にあって励まされるようにと祈ります。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
エレミヤ書11章18-20節〈旧p1198〉
ヤコブの手紙3章13節-4章3,7-8a節〈新p424〉
マルコによる福音書9章30-37節〈新p79〉

説教「無力の中に佇むキリスト」

*祈り*

慰めと愛に満ちたもう主なる神様。
あなたは一人、十字架への道を歩まれました。
あなたはご自分の十字架の死が全ての人々によって引き起こされることを見つめておられました。
それはキリストに救いを期待しながらも、神様のみ心を理解しようとしなかった人々によって引き起こされました。
あなたは圧倒的な力によって救いを勝ち取るのではなく、むしろ無力さのなかに寄り添われることによって、誰一人見捨てられることのない世界へと私たちを導かれます。
私たち一人ひとりが自分の中にある無力さと弱さを見つめ、受け入れることによって、相手の弱さを認め合い、全ての人に仕えることが出来るようにしてください。
誰一人見捨てることのない関係性に私たちを生かしてください。

特にこのコロナ禍の中で、私たちは自分のことで精いっぱいになることがあります。
余裕をなくし、一言の失言が徹底的に非難にさらされる時代です。
どうか主よ、このような大変な時だからこそ、私たちに互いに弱さを認め合う心を教えてください。
弱さの中にある人、苦しむ人の姿の中に、十字架によって寄り添っておられるキリストを見出し、私たちもまた愛と配慮をもって、関わりあうことが出来ますように。
裁きあうのではなく支えあい、赦しあう関係に生かしてください。
様々な理由から今日この礼拝に集うことのできなかった方々に、心を注ぐことが出来ますように。
病の中にある人、不安の中にある人、人とのつながりが失われ、孤独の中にある人のために、祈ります。
どうか主よ、私たちがそのような人々のために心を配ることができますように。
また私たち一人ひとりがどのようなときにも誰かによって支えられ、育まれて、今日を迎えることが出来たことをおぼえ、感謝します。
私たちひとりひとりができることはわずかですが、どうぞあなたの御心に適った働きが出来ますように、清めて用いてください。
わたしたちの生涯の全てをあなたの御心に委ねます。


2021年9月16日木曜日

次回19日・聖霊降臨後第17主日礼拝の御案内。

次週2021年9月19日(日)は聖霊降臨後第17主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「無力の中に佇むキリスト」

と題して、
松本教会では主日礼拝として、長野教会では信徒礼拝として、
10時半から礼拝が行われます。
牧師は松本教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
礼拝を自粛される方のため、当日は当ブログにて礼拝のライブ配信も行います。 礼拝後は音声等を高音質化した礼拝動画を載せます。こちらもどうぞご視聴ください。

† † †

一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

──マルコによる福音書9章30-37節

2021年9月15日水曜日

今週の黙想文(マタイ7:11)

あなたがたの天の父は、
求める者に良い物をくださるにちがいない。
──マタイによる福音書7章11節


† † †

「求めなさい。そうすれば、与えられる(7節)」から始まる勧めはよく誤解されています。
私たちが神様に何かを求めて祈る時、特にそうです。
求めれば与えられる「良い物」は、必ずしも私たちの求める「良い物」ではないことがあるからです。
キリストは何を求めるかについて触れてはおられません。
なぜならここで勧められているのは、私たちが願うものを求めるのではなく、神様の御心を求めることだからです。
私たちが望んでいるものは本当に神様の御心に適った願いなのだろうか?と自分自身に問いかけることをキリストはまず私たちに求めておられます。
その時「わたしの恵みはあなたに十分である(Iコリ12:9)」とパウロが言うように、何も持っていないと思っていた私たちに神様から多くのものが与えられていることに気付かされるのです。
その気付きこそが神様から与えられる最も良い物の一つでしょう。
その気付きのゆえに、私たちは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。(12節)」という御心に適った分かち合いへと押し出されていくのです。

(20210919週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2021年9月12日日曜日

聖霊降臨後第16主日礼拝。 20210912

本日9月12日は、聖霊降臨後第16主日の礼拝でした。
松本教会では通信礼拝として、長野教会は主日礼拝として行われました。


ライブ配信にてご参加いただいた方々にも感謝いたします。
skypeで松本教会とつなぎ、奏楽・聖書朗読などは松本教会から音声が届いています。

設定を見直し、動画がコマ落ちにならないようにしました。

コロナ禍において、不安と恐怖、多くの苦しみの中にある人々にキリストが寄り添ってくださり、慰めが与えられますよう祈ります。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
イザヤ書50章4-9a節〈旧p1145〉
ヤコブの手紙3章1-12節〈新p424〉
マルコによる福音書8章27-38節〈新p77〉

説教「苦難を苦難で終わらせない」

*祈り*

救いの導き手なる神様。
弟子たちがそうであったように、あなたは私たちの不信仰と無理解をよくご存じです。
私たちがあなたを正しく捉えようとしても、私たちの罪はあなたの御心を歪め、ついには悪魔の誘惑にも負けてしまうことがあります。
罪の中に沈む私たちを、御言葉によって救い出し、あなたの御心をいつも尋ね求めることが出来るようにしてください。
あなたの姿を見つけることのできない現実を目の当たりにしているときにも、キリストの十字架の先に与えられた復活の出来事を通して私たちの信仰を強くし、私たちのうちから救いの希望が揺らぐことのないようにしてください。
明日のことも見通すことのできない私たちの手をあなたが取ってくださり、何が起ころうともあなたが共におられて、必ず救いへと導いてくださっていると信じて歩むことが出来ますように。
長く続くコロナ禍の中、私たちは迷いの中にあります。
多くの人々が自分のことしか考えず、また積み重なるストレスや悩みの中で、誰かを傷つけてしまったり、あるいは自分自身を責める人々が相次いでいます。
誰かを非難することで自分の価値を見出そうとする人々もいます。
主よ、私たちが愛し合うために造られたことを思い起こさせてください。
怒りや憎しみ、傷つけあうことによって関わろうとすることのないようにしてください。
一人ひとりが罪に向き合い、あなたによって互いにその罪を赦されている者としての関わりができるように、悔い改めの心を私たちの中に保ってください。
今日、この礼拝堂で祈る私たちと共に、それぞれの場所で祈りを合わせておられる方々のためにも、あなたが顧みてください。
病の中にある人、不安と孤独の中にある人、忙しさの中にある人、様々な理由から来たくても来ることのできない人がおられます。
どうか一人ひとりの祈りをこの祈りに合わせ、聞き届けてくださいますように。


2021年9月9日木曜日

次回12日・聖霊降臨後第16主日礼拝の御案内。

次週2021年9月12日(日)は聖霊降臨後第16主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「苦難を苦難で終わらせない」

と題して、
松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として、
10時半から礼拝が行われます。
牧師は長野教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
礼拝を自粛される方のため、当日は当ブログにて礼拝のライブ配信も行います。 礼拝後は音声等を高音質化した礼拝動画を載せます。こちらもどうぞご視聴ください。

† † †

イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

──マルコ福音書8章27-38節

2021年9月8日水曜日

今週の黙想文(マタイ 6:11)

わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
──マタイ福音書6章11節

† † †

主の祈りは、それは神様のための祈りと私たちのための祈りに分けられます。
神の御名、御国と御国の実現についての祈りの後、キリストは私たちにとって最も必要な祈りを、私たちのための祈りの最初に入れてくださいました。
それが「必要な糧」についての祈りです。
この糧は単に日々の食事のことだけを指しているのではありません。
神様は私たちの身体を養うだけでなく、魂をも配慮してくださるお方です。
先に祈った神様の御心によって私たちに与えられる導きや恵みを受け取ることも、私たちの魂にとって「必要な糧」であるからです。
そしてそれを受けて生きる時、続く他者への赦し、そして誘惑を避ける信仰者の歩みへと踏み出すことができると教えておられるのです。
この祈りが神様と私たちを結びつける一節であるとも言えます。
人が神様からついつい心を離してしまう罪の中に生きていることをキリストは十分にご存知でした。
だからこそ私たちにその糧を「今日」あるいは「毎日(ルカ11:3)」求めるようにと教えられました。
感謝と悔い改めをもって、日々これを祈り求めることから始めましょう。

(20210905週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2021年9月6日月曜日

牧師エッセイ(2021年9月)

パラリンピックの「パラ」はどんな意味が込められているのでしょうか。
パラリンピックの原点は第二次世界大戦後、脊髄を負傷した兵士たちの治療と社会復帰を目的にした脊髄損傷科が設立され、
ルードウィッヒ・グットマン医師が患者のリハビリのためにアーチェリー大会を開いたのが始まりとされています。
それゆえ、初めは「Paraplegic(対麻痺者の)Olympic」と呼ばれていました。

ここから様々な障がい者が加わって競技性の高いスポーツ大会を望むようになり、この名称をギリシャ語の「Para(παρά)+Olympic」と解釈しなおしたそうです。
このπαράはギリシャ語の接頭辞で、「~に沿って、~のそばで(場所)」や「~から」という意味を付けるものです。
オリンピックの「そばで」開催されたことが理由だと思いますが、もう一方の「~から」という意味で読むのも興味深いものです。

元々オリンピックはフランスの教育者ピエール・ド・クーベルタン男爵が「スポーツを通じて平和な世界の実現に寄与する」ものとして始めたのがきっかけだと言われています。
そしてパラリンピックを始めたグットマン卿は、元々ナチスのユダヤ人迫害から亡命した医師でもありました。
戦争によって身体も心も傷つけられた人々の「そばに」彼が寄り添い、
オリンピック「から」分かち合われる平和を、障がい者となった彼らにもそれを与える大会としてパラリンピックが始められたことは、オリンピックの起源と響きあうように思うのです。

平和は誰かと共に生きる中に与えられるものです。
キリストが語った「まことの平和」は、スポーツ精神の中心──誰もが同じ土俵で互いを認め合い高め合う、そのような関係にも見られます。
だからこそオリンピックの中で競い合う彼らの姿は、福音と同じように私たちの心を打つのかもしれません。

2021年9月5日日曜日

聖霊降臨後第15主日礼拝。20210905

本日9月5日は、聖霊降臨後第15主日の礼拝でした。
松本教会では主日礼拝として、長野教会は信徒礼拝として行われました。


ライブ配信にてご参加いただいた方々にも感謝いたします。
松本教会では感染対策のためさらに席数を制限し、礼拝堂と集会室の2室で礼拝を守りました。
ライブ配信とSkypeの同時配信の為、動画がコマ落ちしてしまっていますがご了承ください(音声は大丈夫です)。

長く続くコロナ禍において、不安と恐怖、多くの苦しみの中にある方々に、み言葉を通して慰めが与えられますよう祈ります。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
イザヤ書35章4-7a節〈旧p1116〉
ヤコブの手紙2章1-17節〈新p422〉
マルコによる福音書7章24-37節〈新p75〉

説教「恐れの中にある人へ」

*祈り*

私たちの癒し主なる神様。
あなたはキリストを通して、
救いを求める人々に応える方であることをお示しになりました。
私たちの祈りを聞き届けてください。
多くの人々が不安をぬぐえずに日々を過ごしています。
恐れの中にあって、教会に来ることのできない方がおられます。
新型コロナウイルスだけではなく、様々な病を抱えている方々がおられます。
そして今にもあなたの御許に召されようとしている方もおられます。
どうかそのような痛みと苦しみを抱える一人ひとりに、あなたが寄り添ってください。
その御手をもって、心と体から痛みを取り除き、その魂を平安の中に満たしてください。
できることなら、私たちを心おののく人々のもとへと遣わしてください。
私たちが決して一人では生きていけないことを、あなたはお教えになりました。
助け合い、支えあい、手を取り合ってこの苦難の時を乗り越えることができますように、私たちに悔い改めをもって、キリストの働きを担う者としてください。

私たちの心からの言葉をかけること、その手を握り、祈りあうこと、
そして一緒に御言葉を通してあなたの福音を受け止めていくこと、
そこにこそあなたが確かに働いてくださることを信じ、祈りを一つにします。
日々の祈りの中に、あなたが備えてくださる恵みと導きを見出すことができますように。
病の中にある人には癒しを、不安と恐怖の中にある人々には慰めと勇気をお与えください。
明日からの日々が少しでもあなたの平安に満たされ、誰かに配慮する心をもって、愛に満ちた言葉をかけることができるように、私たちを新しくしてください。


2021年9月2日木曜日

次回9月5日・聖霊降臨後第15主日礼拝の御案内。

次週2021年9月5日(日)は聖霊降臨後第15主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「恐れの中にある人へ」

と題して、
松本教会では主日礼拝として、長野教会では信徒礼拝として、
10時半から礼拝が行われます。
牧師は松本教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
礼拝を自粛される方のため、当日は当ブログにて礼拝のライブ配信も行います。 礼拝後は音声等を高音質化した礼拝動画を載せます。こちらもどうぞご視聴ください。

† † †

イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

──マルコ福音書7章24-37節

2021年9月1日水曜日

今週の黙想文(詩86:11)

主よ、あなたの道をお教えください。
──詩編86篇11節


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神様は私たち一人一人のために計画を持って道を備えてくださっています。
しかし、その道の上では私たちの都合のいいことばかりが起こるわけではありません。
むしろ、神様が備えてくださっているにもかかわらずどうしてこんなことばかり起こるのだろうと嘆きたくなるような時もあるかもしれません。
様々な不幸が私たちに降りかかるとき、私たちは原因を探ります。
しかし、私たちの力ではどうしようもないことが原因であることがほとんどなのです。
すると、今度は自分自身を呪い始める人がいます。
あるいは誰かほかの人に対して、言葉であれ態度であれ攻撃的になる人もいます。
そのような時、この詩編の祈りを思い起こしたいのです。
目の前の状況が幸福であろうと不幸であろうと、そこに神様が備えてくださっている道を見いだせるように神様に相談し委ねていくこと。
「あなたの道をお教えください」という祈りは、私たちの祈りのうち最も篤い祈りの一つとなるからです。
だからこそ詩編の祈り手はこのように続けるのです。
「……わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください。(同11節)」

(20210829週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。