2022年2月27日日曜日

主の変容主日礼拝【礼拝動画】20220227

本日2月27日は、主の変容主日の礼拝でした。
10時半より、松本教会は通信礼拝として、長野教会は主日礼拝として守られました。
それぞれの場所において祈りを合わせてくださった方々に感謝いたします。


長野教会でも会堂に集っての礼拝を再開できたこと、うれしく思います。
会堂での礼拝中止の間、雪が降り積もる日も多くありましたが、今日はほとんど溶けてしまいました。
明後日には3月、最高気温が二桁になる日もちらほらと見えます。
コロナ禍にありつつも、皆様一人ひとりの健康が守られ、聖書の言葉に支えられて日々を歩めますよう、祈っています。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
出エジプト記34章29-35節〈旧p152〉
コリントの信徒への手紙 二 3章12節-4章2節〈新p328〉
ルカによる福音書9章28-36節〈新p123〉

説教「旅立ち」

*祈り*

罪の贖い主なる神様。
あなたはイエス・キリストの十字架を通して、私たちのすべての罪を明らかにし、またその罪のすべてを赦してくださいました。
私たちが日々過ごす中にあって、なお罪の中にあり、あなたの御心に従って歩むことのできない日があります。
そのようなときにこそ、あなたによってえらばれ、あなたによって導かれ、あなたによって立たされたキリストの歩みとそのみ言葉に、悔い改めをもって聞き入ることが出来ますように。

長く続くコロナ禍の脅威に加え、世界情勢もまた不安定になっています。
先日から報道されているロシアによるウクライナへの侵攻により、市民を巻き込みながら多くの死者が出ています。
戦争を望まない多くの人々の叫びが上がっています。
誰一人傷つかないように、平和で安全に皆が生きることを望んでいてなお、自分勝手な平和のために、他者を悪とし、傷つけることを正当化する人々がいます。
主よ、あなたはすべての人を愛し、すべての人の平和のために、十字架において罪を赦し、敵意を取り除かれました。
その愛と憐みのゆえに、平和を奪い、自分の利益と幸福のために他者を虐げるすべての罪に対して抗うことができますように、私たちを強めてください。
平和を願う一人ひとりを通して、どうかこの危機を乗り越えさせてくださいますように。

私たちに与えられた一人ひとりのいのちが、あなたによって造られ、あなたによって生まれさせ、あなたによって導かれた尊いいのちであることに、わたしたちは目を向けます。
どうか一人でも多くの人々のいのちと心の平安が守られますように。
わたしたち一人ひとりが歩みだす今日からの一日一日が、私たちに与えられたかけがえのない一日であり、あなたの愛に立たされて生きる一日として、歩みだすことが出来ますように。



2022年2月23日水曜日

今週の黙想文(使28:27)

『わたしは彼らをいやさない。』
──使徒言行録28章27節


† † †

神学生の頃、聖研の場で「自分の子どもが教会から離れてしまった、どうすれば教会に戻ってくるだろうか」という質問を受けました。
この問いに正しい答えはありませんが、そのように教会から離れている時でさえ、神様の御手の内にあることを聖書は語っています。
イザヤが預言し、パウロがユダヤ人たちに語ったこの言葉は、神が時に人の心を悔い改めさせないようにすることもある、ということを伝えています。
それは徹底的に荒廃するまで続くとさえ言われるのです。
しかし彼らの心が荒廃し尽くした様子を切り倒された木にたとえる神は「それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。(イザ6:13)」と続けるのです。
神様は一人ひとりに最もふさわしい時に、本当にその人がキリストを求める時を備えてくださっています。
そのために、しばらくの時、神様から心を離す時をお与えになることもあるのだと思います。
その御心のうちに私たちが用いられるように信じて待つこと、そして聖なる種子たるイエス・キリストとの出会いが一人ひとりにとって必要な時に備えられるようにと、私たちは委ねて祈りたいのです。

(20220220週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年2月20日日曜日

顕現後第7主日礼拝【礼拝動画】20220220

本日2月20日は、顕現後第7主日の礼拝でした。
10時半より、松本教会は主日礼拝として、長野教会は家庭礼拝として守られました。
それぞれの場所において祈りを合わせてくださった方々に感謝いたします。





松本教会では報告事項を短縮する形ではありましたが、無事定期総会を行うことが出来ました。
長野県では蔓延防止等重点措置(緊急事態宣言)が3月6日まで延長となりました。
なかなか第6波が収まらない中ではありますが、どうか皆様一人ひとりの心と体の健康が守られますように。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
創世記45章3-11,15節〈旧p81〉
コリントの信徒への手紙 一 15章35-38,42-50節〈新p321〉
ルカによる福音書6章27-38節〈新p113〉

説教「主の采配に生かされる」

*祈り*

ゆるしの源である主なる神様。
あなたは私たちの誰もが抱える苦しみをイエス・キリストご自身の歩みを通して受け止められました。
わたしたちが絶えず罪の中にあり、そこから逃れることのできないことを知っておられるからこそ、十字架によって私たちを罪のままに受け入れてくださいました。
主よ、争いといさかい、不安と貧しさの中にある私たち一人ひとりが、どうかあなたの御心に触れることが出来ますように。
あなたが私たちをどれだけ愛し、どれだけ他者との関わりのうちに起こる不和とストレスから救い出そうとしておられるか、祈りを通して教えてください。
そのために、あえてあなたは私たちを罪との戦いの場に引き出されることがあります。
しかしあなたは確かに神の国における揺らぐことのない平和と平安、罪に対する勝利を見通しておられ、その采配を振るっておられます。
わたしたちもまた、あなたの救いの導きがあることに力づけられて過ごしていくことが出来ますように。

主よ、コロナ禍を通して、わたしたちの罪が明らかにされることがありました。
不安に苛まれる人、余裕をなくす人、他者への配慮を忘れる人、自分の思いを優先しようとする人、心無い言葉で誰かを傷つけてしまう人……様々な罪が浮き彫りにされてきました。
しかしそれすらもあなたの導きのうちにあり、わたしたちへの悔い改めへの招きとして、一人ひとりが受け止めることが出来ますように。
そして一層あなたの憐みによって生かされている幸いを、そこから思い起こさせてください。
毎週何千人も病の床に臥せる人々がいます。
懸命に看病に当たる人々、リスクを負いながら社会を維持している人々がいます。
その働きをどうかあなたが愛と憐みのうちに守り導いてください。
そしてどうかその働きをねぎらってくださいますように。
今日ここに集うことのできなかった方々、感染対策のためにそれぞれの場所で祈りに覚えておられる方々の上にも、あなたの豊かな導きと憐みとがありますように。



2022年2月16日水曜日

今週の黙想文(サム上16:7)

「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
──サムエル記上16章7節


† † †

弟子トマスが主の復活に関して「この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない(ヨハネ20:25)」と言った通り、私たちはどうしても目に見えるものを重視しがちです。
それはつまり「わかりやすさ」の重視と言えるでしょう。
時代と共に技術革新が起こり、どんな情報でも昔よりもずっと速く、簡単に手に入るようになってしまいました。
その結果私たちは、「わかりにくい」「目に見えない」ものを時間をかけて理解することを昔よりも避けるようになってしまってはいないでしょうか。
その「目に見えない」「わかりにくい」ものの筆頭は、私たちの本質、心です。
私たちの心を、誰よりも理解しようとしてくださった方こそ、神様ご自身、主イエス・キリストでした。
キリストと関わりを持った人々は、自らの心を引き出され、心と心の深い交わりへと招かれていきました。
神様が私たちの心をご存知であるのは、私たちが自らの心を見つめられるように、それゆえに隣人の心に寄り添えるように、忍耐強い関わりへと生かすためであるのです。

(20220213週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年2月13日日曜日

顕現後第6主日礼拝【礼拝動画】20220213

本日2月13日は、顕現後第6主日の礼拝でした。
10時半より、長野教会・松本教会共に、ライブ配信のみの礼拝として守られました。
それぞれの場所において祈りを合わせてくださった方々に感謝いたします。


松本教会では来週から会堂での礼拝を再開しますが、分散礼拝・礼拝前後の換気・礼拝式文の短縮など、感染対策を強化しつつ守られます。
各自で防寒対策をしつつ、お越しください。
また、感染防止等の必要の為、ご家庭にて礼拝を守られる方々のために、ライブ配信は今後も継続いたします。
祈りを絶やすことなく、主の御名によって一つとされていることに力づけられながら、この一週間を過ごせますように。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
エレミヤ書17章5-10節〈旧p1208〉
コリントの信徒への手紙 一 15章12-20節〈新p320〉
ルカによる福音書6章17-26節〈新p112〉

説教「不幸は幸福への道しるべ」

*祈り*

永遠の命の源である神様。
あなたはキリストを信じる者を永遠の命に生かすと約束してくださいました。
それは、あなたを信じて天に召された全ての人々と共なる関わりのうちに私たちを迎え入れてくださるということです。
すべてがあなたのご支配のうちにあり、あなたの御心の通りに生きることのできる幸いがどのようなものであるかを、あらゆることを通して私たちに教えてください。
私たちの生涯のうちに起こることは決して良いことばかりではありません。
いつでもあなたの目と御心を通して物事を受け取るための信仰を、私たちにお与えください。
神の国においてこの世の論理が逆転されるように、私たちの貧しさを通してあなたの幸いが知らされ、私たちの満足を通してあなたの愛を忘れないための悔い改めを呼び起こさせてください。
おさまることのない新型コロナウイルスの現実の中にあって、なお感染拡大を食い止め、病の中にある人の命をつなぎとめようと懸命に働いておられる医療従事者の方々や、感染リスクの高い人々を守る施設で働いておられる方々がおられます。
主よ、私たちの目に見えないところで社会を支えておられる方々を顧み、その人々の働きのために私たちが祈りを合わせることが出来ますように。
病の中にある人には一日も早い癒しをお与えください。
そして天に召された方の魂が、どうかあなたの御許において平安に満たされますように。
そして私たちの誰もが、互いに支えあって今日を生かされていることに、いつも心を配ることが出来ますように。
喜びも悲しみも共に分かち合うことのできる関わりを、あなたがわたしたちのうちに保ち、この苦難の時を乗り越えさせてくださいますように。




2022年2月9日水曜日

今週の黙想文(ルカ19:9)

「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
──ルカによる福音書19章9節


† † †

キリストと出会ったザアカイの態度は劇的なものでした。
彼はローマに雇われた徴税人でした。
敵国のために人々からお金を巻き上げるという働きは、救いを自ら投げ捨てる行為にも匹敵するものでした。
それゆえ人々は彼を「罪深い男」と蔑んでいるのです。
しかしザアカイ自身もまたそのような立場に苦しめられていたのです。
彼が金持ちであったのは、もしかしたら自暴自棄の成れの果てだったのかもしれません。
しかし、キリストは大勢の人々の中から隠されたザアカイの痛みに目を留められたのです。
キリストがザアカイに救いを確言されたのは、ザアカイが財産を施すことを決めたからではありません。
キリストを通して顕された神の憐みを、ザアカイが喜んで受け入れたからです。
その喜びのゆえに、ザアカイは心では望んでいなかったこれまでの自分を捨て、財産のすべてを施すことを決めたのでした。
今日「あなたの家に泊まりたい」と神様に言われたとしたら、果たして私たちはザアカイのように、取り繕うことなくその場で喜んで神様を迎えることが出来るでしょうか?

(20220206週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年2月7日月曜日

牧師エッセイ(2022年2月)


2月と言えばバレンタインですが、バレンタインにはチョコレートを贈るという慣習は日本独特のもので、百貨店の広告から始まったものだと言われています。
世界的には恋人同士が愛を誓いあう日として知られているのですが、このバレンタインの起源は、ヴァレンティヌスというキリスト者のエピソードに基づいていると言われています。

恋人の守護者とも言われるようになった聖ヴァレンティヌスは、カトリック教会の司祭でした。
3世紀当時、当時のローマ皇帝クラディウス2世は、「若者が戦争に行きたがらないのは、故郷に残る恋人や家族がいるからだ」と、結婚を禁じたのです。
結婚もできないままに戦地へと送られていく彼らを不憫に思った司祭ヴァレンティヌスはこの皇帝の命令に逆らい、若い兵士たちの結婚式を執り行いました。
その罪で処刑されることになっても、彼は結婚式を行うべきだという意見を曲げなかったそうです。

絶大な権力を持つ皇帝に対して、自らの死をも厭わず愛のわざを貫いたその姿は、イエス・キリストの姿に重なります。
結婚式でも「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(1コリ13:13)」という聖書の言葉が読まれることがありますが、彼の信仰と愛、そして彼によって結ばれた人々の愛と希望は確かにバレンタインという日としていつまでも残り続けています。
バレンタインは若者だけのイベントではありません。
自分の大切な人々と愛を分かち合う──感謝と喜びを伝え合う日として、過ごしてはいかがでしょうか?

2022年2月6日日曜日

顕現後第5主日礼拝【礼拝動画】20220206

本日2月6日は、顕現後第5主日の礼拝でした。
10時半より、長野教会・松本教会共に、会堂での礼拝を中止し、ライブ配信のみの礼拝として守られました。
それぞれの場所において祈りを合わせてくださった方々に感謝いたします。
また、教会まで献金をお送りくださった方々に御礼申し上げます。


一日でも早い第6波の収束と、またその不安と不満のために傷つく人が一人でも少なくなりますように。
私たちが関わり合う相手の中にキリストを見出し、キリストと関わるように相手と愛をもって関わりあうことができますように。
また、病の中にある人々には癒しを、このような状況の中でも懸命に働いておられる方々一人ひとりの健康が守られますように祈ります。


**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
イザヤ書6章1-13節〈旧p1069〉
コリントの信徒への手紙 一 15章1-11節〈新p320〉
ルカによる福音書5章1-11節〈新p109〉

説教「神はあなたの目の前に」

*祈り*

私たちの導き主なる神様。
主よ、私たちは目の前に見える出来事と世界に囚われ、そこにあなたが絶えず働きかけておられることを忘れてしまうことがあります。
ペトロがキリストを先生と誤解していたように、私たちの目の前にあなたがおられ、私たちの求めを満たすためにあらゆる出来事を整えておられることを私たちは信じます。
私たちの日々が決して当たり前のものではなく、あなたの絶えざる導きのうちにあることをおぼえさせてください。
苦難の時にあってなお、私たちをひとりにすることなく、支え合うための関わりを保ってくださっていることを感謝いたします。
教会に集って祈りを合わせることが出来ずとも、あなたの御名が私たちを一つしてくださるという信仰によって私たちを強め、日々のうちに送り出してください。

未だおさまることのない新型コロナウイルスの流行の中で、苦難の中に置かれている人々が大勢います。
集団感染などによって何百人もの人々が病の中にあって、日々の生活と関わりとが制限されています。
また、様々な病の床に臥せておられる方々、入院している方々との関わりも難しくなっています。
ひとりひとりが関わりを断たれていく苦難の中にあって、主よ、どうかみ言葉と信仰とによって私たちをつなぎとめてください。
信仰に関わらず生きて働かれる主が一人ひとりに寄り添ってくださり、その病を癒し、関係を回復させてくださいますように。
今日もまた、場所と時間は違えども、私たちは共に祈りを合わせています。
どうかあなたへの信仰のゆえに、私たちの心をキリストの愛に満たし、御心に適った関わり合いへと押し出してください。
不安とストレス、多くのものが私たちの心を苛んでいますが、どうかこの苦難の時を耐え抜くための忍耐と、励ましの言葉を互いに分かち合うことが出来ますように。
そしてそのような関わりを通して一層私たちの信仰を強め、悔い改めをもってあなたのみ言葉に聞き入る者としてくださいますように。




2022年2月2日水曜日

今週の黙想文(イザヤ6:5)

「わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。」
──イザヤ書6章5節


† † †

私たちが神からの赦しを信じ、それを受け取っても、悔い改めて生きることにはなかなか結びつかないものです。
神の赦しは確かに「ありのままのあなたを神は赦し、受け入れてくださる」という恵みですが、その恵みだけを享受して安心してしまいがちだからです。
神の前に立たされたイザヤは自らの罪を知っていたからこそ「私は滅ぼされる」と恐れおののいています。
神様の前に立たされた時、わたしたちはどれだけ身の潔白を表明できるでしょうか。
罪のゆえに滅ぼされると感じたことはあるでしょうか。
進んで誰かを傷つけようとする人はほとんどいません。
しかし良かれと思ってかけた言葉が相手を傷つけ、重荷を負わせることがあります。
一方的な思いを押し付けてしまうこともあります。
そのような罪は何一つないと言える人は誰一人いないのです。
自らの罪を見つめるからこそ、そこに神の赦しが与えられた時、預言者イザヤが「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。(8節)」と応えたように、またキリストに招かれたペトロのように、悔い改めて「すべてを捨てて従う(ルカ5:11)」新しい生き方へと導かれていくのです。

(20220130週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。