2022年4月27日水曜日

今週の黙想文(ルカ5:32)

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、
罪人を招いて悔い改めさせるためである。
──ルカによる福音書5章32節


† † †

預言者は自分のことを「遣わされた」と表現しますが、イエスはそれに加え「来た」という表現を使います。
この言葉からは、キリストが神から送り出されるだけの存在ではなく、自ら「来た」という自覚を強く持っていたことがうかがえます。
キリストが私たちに模範を示された信仰者の歩みとは、神様からの導きをただ受け取るだけでなく、自ら神様の思いを追い求め、それに応えていくという自発性が大切であることもまた、教えているのです。
なぜならそのようなわたしたちを通してこそ、神様は、私たちをいっそう恵み深く導き、用いることができるようになるからです。

(20220424週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年4月24日日曜日

復活節第2主日礼拝礼拝【礼拝動画】

本日4月24日は、復活節第2主日の礼拝でした。
長野教会は主日礼拝として、松本教会は通信礼拝として、10時半から守られました。
ライブ配信において祈りを合わせてくださった方々にも感謝いたします。

まだまだ寒暖差の激しい日が続きますね。
短かった桜の季節が終わり、昼は梅雨と初夏の足音が聞こえてきそうな天気でした。
思い煩うことの多い日々のなかにあってなお、復活のキリストが一人ひとりと共にあって、皆様の生活と信仰を支えてくださいますように。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
使徒言行録5章27-32節〈新p222〉
ヨハネの黙示録1章4-8節〈新p452〉
ヨハネによる福音書20章19-31節〈新p210〉


説教「99%の疑いと1%の希望」

*祈り*

大いなる赦しと愛に満ちたもう主なる神様。
わたしたちの信仰の旅路の中で、私たちが予想もつかない道へとあなたは導かれることがあります。
何があなたの御心で、何が悪魔の誘惑なのかと迷いを抱える時もあります。
そしてこの地上の命の歩みの中で、私たち自身が抱える罪のゆえに、あなたへの信仰が揺らいでしまうことが多くあることを、あなたはご存知です。

しかし主よ、あなたはキリストを通して、そのようなわたしたちの迷いすらも、あなたへの信仰を増し加えるための糧として用いてくださいます。
パウロも言う通り、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」ということを私たちは信じます。
そしてその希望こそが、わたしたちをあなたと結びつける真の信仰の種であることをおぼえ、わたしたちが絶えずあなたの御心を探し求めるための力としてください。
私たちの目の前には、あなたの愛と赦しを見出すことが出来ないほどに乱れ切った世界が広がっているように見えます。
人と人とが傷つけあい、裁きあう罪の姿は、わたしたち一人ひとりの間においても、また世界中においても、同じように広がっています。
主よ、あなたは、力に対して、より大きな力をもってねじ伏せようとするのではなく、キリストの十字架を通して、むしろ弱さに寄り添う悔い改めを呼びかけられました。
私たちを支配する罪の力がいかに大きくとも、誰一人として、傷つけあうこと、仲違いをすることを望んでいる人はいません。
私たち一人ひとりが誰しも弱さを抱えていることを知らされ、それゆえに愛によって赦しあう関係へと導かれるよう、キリストを通して語られた悔い改めの御言葉を、これからも絶えず語り続けてください。
そのような現実の中にあって、わたしたち一人ひとりがあなたと共に「平和があるように」と祈りつづける者として、立つことができますように。




2022年4月20日水曜日

今週の黙想文(ルカ24:30)

一緒に食事の席に着いたとき、
イエスはパンを取り、
賛美の祈りを唱え、
パンを裂いてお渡しになった。
──ルカによる福音書24章30節


† † †

エマオへの途上の中で、同行していた人が復活のキリストと気付かされたのは、パン割きの出来事を通してでした。
聖餐を受けることで弟子たちは目が開け、「イエスだとわかったが、その姿は見えなくなった」と続けて語られます。
キリストの働きの多くは、私たちの目に見えるかたちで起こることがあります。
例えば関わりあう相手を通して、燃えるほどの信仰を呼び起こす交わりや、いのちを養う食卓の場を共に囲むという恵みとして与えられます。
その他者のうちにキリストの働きを見出す時、初めて私たちはその他者を「キリストが引き合わせてくださった相手」として見ることが出来るようになるのです。
だからこそキリストが姿を消されたのは、今や相手を通してキリストと再び出会うことを終え、自分がキリストと共に生きる者とされたことが表されているのです。
そして、その歩みは聖餐という出来事を境にしています。
聖餐とは私たちがキリストと再び出会う場所であり、キリストがわたしたちのうちに永遠に生きるいのちになってくださるという出来事です。
そしてそれは洗礼の想起でもあります。
私たち一人ひとりの信仰の出発点を思い起こすことから、キリストと共なる、愛に満ちた歩みへと踏み出してまいりましょう。

(20220417週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年4月17日日曜日

復活祭(イースター)礼拝【礼拝動画】20220417

本日4月17日は、主の復活日・イースターの礼拝でした。
長野教会は10時半から、松本教会は15時から、両教会主日礼拝として守られました。
ライブ配信において祈りを合わせてくださった方々に感謝いたします。
県内の新型コロナウイルス陽性者数が高止まりする中、やむなく聖餐を断念しましたが、それでも皆さまと共に御言葉に与ることのできた幸いに感謝したいと思います 。

今年も松本教会では、前日の教会学校イースターで子どもたちが花の十字架を作ってくれました。



春の息吹を感じる季節です。主の復活の喜びと新しい命の息吹を様々なところに感じつつ、日々が過ごせますように。


**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
イザヤ書65章17-25節〈旧p1168〉
使徒言行録10章34-43節〈新p233〉
ヨハネによる福音書20章1-18節〈新p209〉


説教「神はあなたの名前を呼ぶ」

*祈り*

復活の主なる神様。
あなたはキリストを十字架にかけ、キリストを復活させられることによって、わたしたちに福音を示してくださいました。
キリストは、私たちが自らの深い罪のゆえに傷つき悲しんでいようとも、それでも私たちを赦し、その心に寄り添ってくださいました。
そしてその悲しみが永遠には続かないこと、私たちを決してお見捨てにならないことを、キリストの復活と、マリアとの関わりを通して証してくださいました。
先行きの見えない現実の中で、あなただけが未来に輝く灯として輝いています。
あなたがマリアを通して告げ知らせてくださった復活の福音は、どのような時にもわたしたちのいのちが、一人の存在として、尊いひとつのいのちとして見られることの大切さを、私たちに教えます。
神の愛から生まれるその思いを、この世のおいてわたしたち一人ひとりが心に留め、分かち合うことが出来ますように。
愛するわが子の名前を呼ぶ、その深い愛を私たち一人ひとりのうちに保ち、御心に適う関わりと働きへと押し出してくださいますように。

今日あなたの復活を祝うこの時が守られたことに感謝いたします。
なお猛威を振るい続ける新型コロナウイルスの現実の中で、病の中にある人、彼らを助けるために全力を尽くしておられる医療関係者、リスクの高い人々を守る働きを担っている施設関係者、私たちの生活を維持するエッセンシャルワーカーの方々がおられます。
その一つ一つの働きのゆえに、私たち皆が今日も生きることが出来ていることをおぼえることができますように。
主よ、どうかそれぞれの場所で尊い働きに用いられている人々を支えてください。
病の中にある人々に癒しをお与えください。
そして今日健康が守られている私たちが、これからも愛と配慮をもって、他の誰かを危険にさらすことのないように、あなたの愛に満ちた関わりによって、支え合い助け合うことができるように、導いてください。




2022年4月13日水曜日

今週の黙想文(ヨハネ13:30)

ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。
夜であった。
──ヨハネによる福音書13章30節


† † †

聖水曜日の日課は、キリストが最後の晩餐の際に、弟子たちの間に裏切者がいると告げる場面が選ばれています。
その際、キリストからパンを受け取った時に「サタンが彼の中に入った(27節)」とユダについて福音書は告げています。
キリストはこのユダを止めようとはなさいませんでした。
ここにはユダへの悔い改めへの隠された機会が与えられていました。
しかしユダはキリストを銀貨三十枚で売り渡し、誰からも許されない立場に立たされたとき、彼はその罪の暗闇から一歩も動けないまま、自らで自らを罰するように、命を絶ってしまったのです。
彼がもし、キリストの言葉を、復活の予告とキリストの愛を思い起こすことが出来ていたなら、ペトロと同じように赦されていたかもしれません。
全ての直弟子たちが十字架を前にして逃げ去ったように、すべてのキリスト者に襲い掛かる夜があります。
とんでもない失敗をし、誰かを傷つけることがあります。
しかしその深い罪の暗闇の中にすら、十字架の死をもって踏み込んで下さるお方こそ、イエス・キリストです。
このキリストの御言葉を思い起こして悔い改めるところに、罪の夜を抜け出す光、復活と赦しの光が、私たちの心に差し込むことになるのです。

(20220410週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年4月10日日曜日

主の受難日礼拝【礼拝動画】20220410

本日4月10日は、主の受難日の礼拝でした。
10時半より、松本教会は通信礼拝として、長野教会は主日礼拝として守られました。
それぞれの場所において祈りを合わせてくださった方々に感謝いたします。


今日の昼は26℃まで気温が上がり、朝は2分咲きくらいだった長野教会の庭の桜が、礼拝後にはほとんど満開に近く花開きました。
いよいよ今週の受難週を超え、来週は復活祭(イースター)を迎えます。
皆さまも神様からのいのちの息吹を感じつつ、日々を過ごすことが出来ますように。


**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
イザヤ書50章4-9節a 〈旧p1145〉
フィリピの信徒への手紙2章5-11節〈新p363〉
ルカによる福音書23章1-49節〈新p157〉


説教「黙するキリストは何を見る」

*祈り*

赦しの主なる神様。
あなたがイエス・キリストを地上に送られたあの日から、今日にいたるまでわたしたちの罪は変わることなく私たちのうちにあり、様々な争いやいさかい、不寛容や分裂を引き起こしています。
あなたがイエス・キリストを通して語られたのは、地上に一つの正義があるということではなく、寛容さをもって多様性を認め合い、等しく神様から与えられたいのちを尊びあいながら共に生きることが出来るようにという、愛による赦しの関係性でした。
そしてその関係性から外れてしまう罪を抱える私たちのために、十字架による永遠の赦しが示されていることを、キリストの受難を通して、悔い改めをもって受け取ることが出来ますように。
暴力やデモ、戦争や犯罪、あらゆる人と人との関わりの中で、あなたは今日、この世界に生きる一人ひとりが傷つけられることを望んではおられません。
もし私たちが信じることによって誰かを傷つけ、仲違いをするようなことがあるなら、どうか悔い改めへと導いてください。
あなたを信じる信仰を持ちながらあなたの御心から離れるようなことをしている罪に気付かせてください。

コロナウイルスが蔓延する中にあって、また世界情勢が乱れるなかにあって、心の拠るべのない人々が支えとなるものを探し求めている時代です。
どうかそのようなときにあって、あなたがその生涯において示された寛容と赦し、揺らぐことのない他者への愛に生きたキリストへの信仰を、一人ひとりにとっての心の支えとしてお与えください。
その信仰に立たされた私たちを、平和をもたらすための働きへと用いてください。
あなたはご自身を十字架につけた人々のために神様からの赦しを祈られました。
私たちもまた誰かと赦しあう心を、祈りによってあなたから受け取ることが出来ますように。




2022年4月6日水曜日

今週の黙想文(マタイ21:7)

ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、
イエスはそれにお乗りになった。
──マタイによる福音書21章7節


† † †

キリストが都エルサレムに入るとき、人々は彼をイスラエルを解放する軍事的な王として迎えました。
その思いを知っていたからこそ、キリストはこの世の王が乗るような立派な出で立ちを避け、弱弱しい子ロバにお乗りになったのです。
そこには、目に見える人の力によって争いあい、人の間で支配する側とされる側を奪い合うような関係の中には、永遠に平和がもたらされないというメッセージが込められていたのです。
最も弱い者に目を向け、共存のために何が出来るかを考えることが、神様のみ心でした。
誰よりも強い神の力を委ねられたキリストご自身がその模範となるために、ロバにのった救世主は、最期には人の最も弱い部分、死をも顕わにしながら十字架へとかけられていったのです。
キリストは決して力を否定したわけではありません。人々を救うためには御言葉と奇跡の力を惜しみなく用いられたからです。
大切な点は、その力を用いる理由を、キリストのようにまず神様のみ心に尋ねているか、ということにあるのです。

(20220403週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年4月4日月曜日

牧師エッセイ(2022年4月)

ラファエロ・サンティ
《キリストの復活》

2018年に日本で上映された『リメンバー・ミー』という映画があります。
主人公の少年ミゲルが「死者の日」を境に死者の国をさまよい、自分の家族の先祖に出会っていくというストーリーになっています。
家族の絆を感動的に描いたこの作品は、実は脚本の初期段階では全く違うストーリーであったことが明かされています。

劇中の「死者の日」着想の基となっているのはメキシコの伝統行事であり、監督は現地にて徹底的に文化の調査を進めつつ、この作品を作っていきました。
初稿では主人公ミゲルが死者の国で亡くなった母と再会し、ミゲル自身が母の死を受け入れて母と別れを告げる、というストーリーでした。
しかし深く調べていくうちに、この儀式は死者との別れ、死者を忘れるための儀式ではなく、死者を迎え入れることによって、死者を決して忘れないための儀式であるということに気が付いたのだそうです。
それゆえ、完成版は初稿とは真逆の脚本となったことを明かしています。

教会では毎年この季節、イエス・キリストが死者の中から復活されたというイースターが祝われます。
キリストが復活されたのは、キリストを信じる者がこの世の罪をすべて赦されるだけではなく、永遠のいのちを与えられるためでありました。
それは、この世における私たちの関わりが、死によって断ち切られることがなく、神の国において永遠に保たれるということでもあるのです。
地上の別れが決して悲しみに終わらないという福音が私たちに与えられていることを、復活の主の御言葉から受け取ってまいりたいと思います。


2022年4月3日日曜日

四旬節第5主日礼拝【礼拝動画】20220403

本日4月3日は、四旬節第5主日の礼拝でした。
10時半より、松本教会は主日礼拝として、長野教会は信徒礼拝として守られました。
それぞれの場所において祈りを合わせてくださった方々に感謝いたします。


今週は、松本教会の庭に植わっているあんずの樹に花が咲きました。
いよいよ春がやってきたという風情ですが、日曜日も冷え込み、まだまだ寒い日が続きそうです。
寒暖の差に気をつけつつお過ごしください。
このブログをご覧の皆さまの健康が守られますように。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
イザヤ書43章16-21節〈旧p1131〉
フィリピの信徒への手紙3章4b-14節〈新p364〉
ヨハネによる福音書12章1-8節〈新p191〉


説教「そこにキリストは立っているか」

*祈り*

関わりの中に生きておられる主なる神様。
あなたはイエス・キリストとしてこの世にお生まれになり、私たちの間で人として生きてくださいました。
その中で、私たちが神様の御心に適って歩むために、最も大切な愛の心を、お示しになりました。
どうか私たちの生きた歩みのすべてが、あなたの栄光を表すものとして用いてください。
そしてそのために、私たち一人ひとりが今日も生きて働かれるあなたの御手のうちにあって導かれていること、全てのことがあなたの愛のうちにあることを思い起こさせてください。
あなたを信じ、あなたに従って生きようとする私たちが、形だけの愛のわざに陥ることがありませんように。

主よ、マリアがあなたの足に香油を注ぎかけた時、その香りで部屋がいっぱいになったと聖書は語ります。
パウロもまた、私たちの信仰は神にささげられるかぐわしい香りであると証しています。
私たちがあなたと共に歩み、あなたの愛によって捧げられるその関わりによって、主の御心を表す香りを放つ者として、私たちを立たせてください。

県内では新型コロナウイルスの感染がぶり返してきています。
昨年、一昨年では考えられない陽性者数を記録する中で、その数字の向こう側に一人ひとりが病にかかり、苦しみと不便を強いられている人々がいることに、心を寄せることが出来ますように。
病の苦しみの中にある人々を、あなたがどうぞ癒してください。
あなたがそうされたように、私たち一人ひとりもまた、これ以上感染を広げることのないように、他者を省みながら日々を過ごしていくことが出来ますように。

世界中で暴力に訴える人々のニュースが相次いで報道されています。
あなたが願われたこの世界の在り方は、力によって誰かを屈服させる世界ではなく、愛によって誰かを支え、赦しによって包み込む世界であったことを、イエス・キリストの言葉から私たちは聞きます。
主よ、どうか私たち一人ひとりの手は小さくとも、あなたの御手の働きのために、用いてください。
今こうして祈りを捧げているように、全ての人々が手と手を合わせることができる愛に満ちた主の御国を、一日も早く来たらせてくださいますように。