2022年9月29日木曜日

次回10月2日・聖霊降臨後第17主日礼拝の御案内。

次週2022年10月2日(日)は聖霊降臨後第17主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「愛がなければ」

 と題して、
松本教会では主日礼拝として、
長野教会では信徒礼拝として、
両教会10時半から行われます。

牧師は松本教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

──ルカによる福音書17章5-10節

2022年9月28日水曜日

今週の黙想文(2コリ12:9)

「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
——コリントの信徒への手紙 二 12章9節


† † †

オウムや旧統一協会などカルト問題に取り組まれた平岡正幸牧師が、世間一般で言われているスピリチュアルと、キリスト教会における霊性についての本質的な違いは「人間の内なる力に頼っているかどうか」にあると仰っていました。
つまりスピリチュアルは何らかのアイテムの未知なる力によって、私たちの内なるエネルギーを引き出すものですが、キリスト教会はむしろ私たちが無力であることを知り、そこに神の力が働くことを信じているのです。
私たちの力には限界があり、その限界を信仰の弱さだとして金銭を巻き上げていく手法は、宗教改革時代のカトリック教会や現代のカルトが用いる常套手段です。
むしろ私たちの無力さを明け渡すことによって、キリストは私たちを通して働く神様の導きが充分に発揮されるとパウロは証しています。
今やキリスト教が世界三大宗教と呼ばれるほどに信じられているのは、当時の宣教を担ったパウロ個人の力によるものではなく、人の力を越えた神様の働きに他ならないからです。
私たちの歩みを神様に委ねる時、そこには私たちの思いを越えた、恵み深い道へと神様は導いてくださるのです。

(20220925週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2コリ12:9_20220925

2022年9月22日木曜日

次回25日・聖霊降臨後第16主日礼拝のご案内。

次週2022年9月25日(日)は聖霊降臨後第16主日の礼拝です。

栗原茂牧師の説教
「メメント・モリ」

と題して、
松本教会では主日礼拝として、
長野教会では通信礼拝として、
両教会10時半から行われます。
野口牧師は夏季休暇となります。
どうぞご自由にお越しください。
なお、今週の礼拝動画はありません。ご了承ください。

† † †

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

──ルカによる福音書16章19-31節

2022年9月21日水曜日

今週の黙想文(エフェソ1:16)

祈りの度に、
あなたがたのことを思い起こし、
絶えず感謝しています。
──エフェソの信徒への手紙1章16節


† † †

福音書が書かれる前の時代には、パウロがそれぞれの教会に宛てた手紙が聖書の説き明かし、つまり説教の代わりとして読まれていました。
それは、パウロがキリストの宣教者として偉大な人であったから、というだけではありません。
手紙によってはパウロ自身の怒りや悲しみが赤裸々に表されているものもあります。
それらすべてを神様に帰しているその信仰が、キリスト者として倣うべき在り方であるからです。
彼はここで、キリストを通してエフェソの教会の人々に与えられた神様の恵みと救いについて思い返し、人々が今もその救いに与かっていることを神に感謝しています。
人々への手紙の内実が福音のメッセージと祈りになっているということは、キリスト者の信仰が本来、人々との関わりと日常に深く結びついていることを証しています。
他の人々との関わりのうちに起こされる怒りや悲しみ、喜びや平安を、キリストへの信仰を通して受け止めていったパウロの姿に私たちも倣い、そのすべて感謝と祈りをもって神様に委ねる信仰生活を歩みたいものです。
(20220918週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年9月18日日曜日

聖霊降臨後第15主日礼拝。【礼拝動画】

本日9月18日は、聖霊降臨後第15主日の礼拝でした。

松本教会は主日礼拝として、長野教会は家庭礼拝として、礼拝が守られました。
松本教会では敬老のお祝いの時を持ちました。一人ひとりからコメントをいただきました。
神様に守られて今日まで生かされてきたことに改めて感謝をする日になりました。


このブログをご覧の皆様も、日々健康が守られますように。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
アモス書8章4-7節〈旧p1439〉
テモテへの手紙 一 2章1-7節〈新p385〉
ルカによる福音書16章1-13節〈新p140〉


説教「不正を勧めるその心は」

*祈り*

わたしたちのうちにある深い罪を見つめたもう主なる神様。
あなたはいつでも、私たちを他者との関係性のうちに送り出してくださいます。
それは、あなたがお与えになった一人ひとりのいのちが、関わりの中にこそ恵み深く生かされるようになるためです。
しかし主よ、あなたは私たちを隣人のもとへと送り出される前に、先んじてご自分との関わりを持つように呼びかけておられます。
それは悔い改めへの呼びかけであり、これからの歩みへの導きでもあります。
私たちが他者への関係へと送り出されていくその前に、私たちが静かな祈りの時をもって、自分自身と、そしてあなたとの関係を振り返ることが出来るようにしてください。
私たち一人ひとりがこれまでの歩みの中で犯してきた罪の深さと、それをあなたが赦してくださった果てしない恵みをもって、悔い改めへと導かれる時を、まず初めにお与えくださいますように。

主よ、世界中が混乱のさなかにあって、様々な場所で、人と人とが争いあい、共に生きることのできない現実が私たちの目の前にあります。
誰かを傷つけ、誰かに傷つけられ、癒されることのない痛みを積み重ねていく、そのような関係性の中に留められている人々がいます。
今日ここに御言葉を聞き、祈りを合わせているわたしたちのうちにも、そのような痛みを抱えている人がいるかもしれません。
主よ、今日あなたが、わたしたちの命を取り去られるなら、私たちの歩みが今日一日だけでも御心に適った歩みとなるように、わたしたちの全てをあなたに委ねることが出来るようにしてください。
キリストにおいて全てを赦されたあなたの御心によって、私たちも誰かを赦し、誰かを愛し、配慮しあい、ささやかな幸せと恵みを分かち合う、そのような関係性へと生かしてください。
そしてそのために、主よ、あなたに向き合う祈りの時から、始めることができますように。





2022年9月15日木曜日

次回18日・聖霊降臨後第15主日礼拝のご案内。

次週2022年9月18日(日)は聖霊降臨後第15主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「不正を勧めるその心は」

と題して、
松本教会では主日礼拝として、
長野教会では信徒礼拝として、
両教会10時半から行われます。
牧師は松本教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

──ルカによる福音書16章1-13節

2022年9月14日水曜日

今週の黙想文(申命記11:26)

見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。
──申命記11章26節


† † †

聖書の中で、祝福の対義語は呪いです。
旧約聖書の律法において、祝福とは神様の戒め、つまり御心に従って生きることであると言われます。
私たちがそうしないことを選ぶ時、神様の祝福を自ら捨ててしまうことによって、神様は私たちを守ることも導くことも出来なくなってしまう、それこそが呪いを受けることだと言われるのです。
神様は決して、自分の思い通りにならない者を切り捨て、従う者だけを贔屓するお方ではなく、私たちが一人残らず神様の祝福のうちに生きてほしいと願っておられるからです。
そのような神様の御心に私たちが生きることが祝福であるように、私たちが誰かを祝福するということは、その相手に善い言葉をかけることから始まります。
ある牧師は聖書は神様からのラブレターだと表現しました。
私たちが祝福のうちに生きること、そして誰かに神様の祝福を祈ることは、私たちが神様から受けた愛の言葉を、また私たちが他の誰かに伝えていくことなのです。

(20220911週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年9月11日日曜日

聖霊降臨後第14主日礼拝【礼拝動画】

本日9月11日は、聖霊降臨後第14主日の礼拝でした。

松本教会は通信礼拝として、長野教会は主日礼拝として、両教会10時半から礼拝が守られました。
一時おさまったように見えた暑さもぶり返し、残暑の厳しい日になりました。
コロナと共に、早く落ち着いてほしいですね。

この夏は松本・長野どちらも召天者の多い年となりました。
松本教会では10月にキリスト教葬儀についての学びも行う予定です。是非ご参加ください。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
出エジプト記32章7-14節〈旧p147〉
テモテへの手紙 一 1章12-17節〈新p384〉
ルカによる福音書15章1-10節〈新p138〉


説教「誰一人取り残されないように」

*祈り*

憐れみと愛に満ちておられる主なる神様。
あなたは誰一人として滅びゆくことのないようにと、イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。
しかしこの世には、まだあなたの御言葉を聞いたことがない人々、あなたの御言葉を聞き入れることが出来ない人々、さらには、あなたの御言葉を都合の良い形で改変し、他の誰かを支配しようとする人々さえいます。
あなたが生前注意するようにと言われた偽預言者や偽キリストを標榜し、世の終わりを告げることで人々に不安だけを届けようとする人々がいます。
不安定な世の中にあって、世界中でますますその勢いが増していることを、主よ、あなたは見過ごしてはおられないと信じます。
主よ、どうか全ての人々が、悔い改めをもってあなたの御言葉に聴き、共に喜びと平安を分かち合うことができるような関係へと生かされるように導いてください。

今、不安と恐怖、痛みと思い煩いを抱えている人々には、どうかあなたが慰めの御手を伸ばしてください。
今日ここに来たくても来られなかった人々、それぞれの場所で祈りを捧げている一人ひとりにも、あなたの恵みと祝福が豊かに注がれますように。
私たち一人ひとりがあなたの御名によって神の家族の一員とされており、あなたの愛に満ちた関係性のうちに、永遠の命を与えられている幸いをおぼえます。
どうか地上の生涯においても、私たちの罪を拭い去り、神の国における関係性をもって関わりあうことが出来るように、導いてください。

昨日、またお一人の魂が天に召されたと聞きました。
主よ、この世においてあなたの御言葉に聞く機会が与えられず、しかし地上の生涯を歩み通した魂に、どうか救いの御手を差し伸べてください。
どうか天の御国の門の前において、キリストの御言葉を聞き入れる機会を与えてください。
誰一人滅びることを望まれないあなたの憐れみにより頼み、その魂があなたの家族として迎えられることを願います。





2022年9月8日木曜日

次回11日・聖霊降臨後第14主日礼拝のご案内。

次週2022年9月11日(日)は聖霊降臨後第14主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「誰一人取り残されないように」

と題して、
松本教会では通信礼拝として、
長野教会では主日礼拝として、
両教会10時半から行われます。
牧師は長野教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 そこで、イエスは次のたとえを話された。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

──ルカによる福音書15章1-10節

2022年9月7日水曜日

今週の黙想文(箴24:16)

神に従う人は七度倒れても起き上がる。 ──進言24章16節

† † †

箴言は知恵を得ることを勧めていますが、その知恵とは「神を畏れること(9:10)」から始まると繰り返し述べています。
たとえば心理学では私たちの悩みのほとんどは人間関係によるものと言われますが、悩みの原因である相手にばかり目を注いでいては、いつまでもそれは解決しません。
そこに第三者である神様からの言葉に聞くことによって、思い煩いから抜け出す道が与えられていくのです。
それゆえ、私たちは誰でも「神に逆らう者は……つまずき(同16節)」、神の言葉に耳を傾ける人には、何度でも立ち上がることのできる励ましと支えが与えられると、箴言は私たちに教えるのです。
私たちの日々の中に思い煩いや躓きが与えられるときには、神様から見て自分は、この状況はいったいどのように見えているのかと、祈りのうちに問いかけてみましょう。
「神は愛です(1ヨハネ4:16)」と証された神様は、時に憐れみ深く、時に厳しく、今私たちが最も必要とするものを気付かせてくださる、愛に満ちた知恵なのです。
 
(20220904週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年9月5日月曜日

牧師エッセイ(2022年9月)

娘が使っている哺乳瓶に「Your smile makes every day full of love.(あなたの笑顔が愛に満ちた毎日をつくる)」というメッセージが刻まれていました。
調べてみると、製造元のPigeon社は企業理念に「愛」を掲げており、次のような創業者の言葉が続けられていました。

「『愛のこもった製品・サービスを生むのは、愛の心のみ』──これが私たちピジョングループの社是です。これからの世界人類にとって究極的に何が最も大切かと問われれば、それは、「人が人を大切にする心」、すなわち「愛」だと思います。」

聖書が初めて日本語に訳されたとき、「愛(アガペー)」は「御大切」と訳されたそうです。
キリストが伝えた神様の愛の実態は、日本語でいえば「人が人を大切にする心」であると表現されたのです。
Pigeon社創業者の仲田洋一氏はこのような愛の本質に気付いていたのかもしれません。

私たちが誰かを愛していること、大切していることを伝えるための最もシンプルな方法は「笑顔」を向けることであると、この哺乳瓶のメッセージは教えてくれます。
そして聖書は「神は愛です(1ヨハネ4:16)」と語ります。
その目に見える証として、神様はイエス・キリストを私たちのもとへと送ってくださいました。
私たちが愛と笑顔に満ちた関係性に生きることが出来るようにと、誰よりも神様が願い、私たち一人ひとりを愛へと押し出しておられることを、キリストは私たちに教えているのです。

私たち一人ひとりの笑顔が誰かを愛で満たし、落ち込んでいる心を励ますものとなるように祈りつつ、笑顔を絶やさない毎日を過ごしたいものです。


レオナルド・ダ・ヴィンチ
《サルバトール・ムンディ(救世主)》


2022年9月4日日曜日

聖霊降臨後第13主日礼拝。【礼拝動画】

本日9月4日は、聖霊降臨後第13主日の礼拝でした。


松本教会は主日礼拝として、長野教会は信徒礼拝として、両教会10時半から礼拝が守られました。
昨日は雨が降り、かなり涼しかったのですが、今朝はからりと晴れて暑い日となりました。
久しぶりに来られた方もあり、共に教会で集っての礼拝が守られることの喜びを分かち合いました。

今月第3日曜日、9月18日は、松本教会では敬老祝賀会が行われます。
皆様それぞれに神様の導きと守りのうちに歩みが守られていることに感謝をしつつ、お言葉をいただきたいと思います。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
申命記30章15-20節〈旧p329〉
フィレモンへの手紙1章1-21節〈新p399〉
ルカによる福音書14章25-33節〈新p137〉


説教「キリストの弟子に破門なし」

*祈り*

赦しと励ましの主なる神様。
あなたは私たち一人ひとりを、弟子として招いておられます。
あなたが示された弟子の条件は、私たちにとって大変難しいものですが、それを全ての人が成し遂げられた時、そこにこそあなたの御心、あなたの救い、あなたの御国が実現することをおぼえます。
どうか私たちが、絶えず悔い改めのうちにあって自らの過ちを省み、愛に満たされて関わり合い、そして小さなキリストとして、あなたの救いのわざのために用いられますように。
パウロが、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」と言ったように、私たちもまた告白をすることが出来るようにしてください。
私たちのうちにある罪を赦し、あなたの御心にかなう者として、私たちの全てを清めてくださいますように。

家族や友人との関わりに問題を抱えているなら、主よ、そこに和解をもたらしてください。
私たち自身のうちにある罪に向き合う時、私たちがその十字架の重さに押しつぶされそうになるなら、あなたが一緒に十字架を背負ってくださっていることを思い起こさせてください。
そして私たちが日々の中で誰かに欠ける言葉や振る舞いが、相手への深い共感の上に為されていきますように。
私たち一人ひとりがあなたの子どもとして祝福され、兄弟姉妹としての深い関係の中に導かれていることを、私たちが心に留めて、関わりを持っていくことが出来ますように。

この世には私たちから愛と余裕を奪っていく多くのもので満ちています。
余裕をなくし、不安と恐怖の中にある人は、周りの人にもその重荷を振りまいてしまいます。
しかし、だからこそあなたが十字架においてされたように、私たちがその人と共に重荷を担い、祈りをもって思い煩いを分かち合い、慰めをもって関わりあうことが出来るように、私たちの間にあって支えてください。
わたしたちがどこにいても、何をしていても、あなたへの祈りと愛を中心に置いて、あなたの弟子としての歩みが守られますように。





2022年9月1日木曜日

次回9月4日・聖霊降臨後第13主日礼拝のご案内。

次週2022年9月4日(日)は聖霊降臨後第13主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「キリストの弟子に破門なし」

と題して、
松本教会では主日礼拝として、
長野教会では信徒礼拝として、
両教会10時半から行われます。

牧師は松本教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

──ルカによる福音書14章25-33節