2022年11月30日水曜日

今週の黙想文(2テサ3:9)

援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、
あなたがたがわたしたちに倣うように、
身をもって模範を示すためでした。
──テサロニケの信徒への手紙 二 3章9節


† † †

パウロが手紙を書いているテサロニケの教会の人々は、すっかり怠惰になってしまっている、と記されています。
当時の教会は自分の財産を教会全体の共有財産として捧げ、富める者と貧しい者が等しく分かち合っていたとされています。
しかし、そこに「怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいる」ことによって、教会全体に、捧げることなく受けるだけの人々が増えていく、そのような雰囲気が広まっていったのかもしれません。
パウロはそのようなテサロニケの人々に、食べるための対価として働くではなく、労せず自分が生かされているからこそ、喜んでそれ以上に働きを担うようにと、身をもって勧めたのです。
パウロがここで勧めている働きとは、必ずしも金銭を稼ぐ働きばかりではありません。
キリストの教えによって立たされ、絶えず他者への愛と祈りによって関わろうとする、そこからすべての働きは生まれます。
たとえば今日あなたを傷つけた人をゆるすことや、毎日、誰かのことをおぼえて祈るだけでも、それは立派な働きなのです。

(20221127週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年11月27日日曜日

待降節第1主日礼拝。【礼拝動画】


本日11月27日は、待降節第1主日の礼拝でした。

野口和音牧師の説教により、
松本教会は通信礼拝として、長野教会は聖餐礼拝として守られました。
松本・長野教会に加え、飯田教会の皆さまがライブ配信礼拝に参加してくださいました。
また、礼拝後、長野教会員の方の納骨式を執り行いました。
新型コロナウイルスが再び猛威を振るう中ではありますが、どうぞ皆様の健康が守られますように。

**本日の礼拝動画**

※[▶]を押すと再生できます。
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
イザヤ書2章1-5節〈旧p1063〉
ローマの信徒への手紙13章11-14節〈新p293〉
マタイによる福音書24章36-44節〈新p48〉


説教「キリストを身にまとって生きる」

*祈り*

永遠の救い主なる神様。
あなたが私たちにお与えになった地上の生涯は、いつかは終わりを迎えます。
しかし主よ、だからこそキリストは私たちと同じ人間として歩んでくださり、あらゆる導きと共に、そこに起こる喜びも悲しみも分かち合ってくださる御方として、遣わしてくださいました。
神でありながら人として生きたイエス・キリストという御方は、私たちに今日も語り掛けておられます。
私たちのいのちがいったい誰によって与えられ、誰によって支えられ、誰と共に生きているのかに、目を向けることが出来るようにと、呼びかけておられます。
主なる神様、また私たちと共に生きる隣人たちに目を注ぎ、関わりの中に、あなたの御心を見出すことが出来ますよう、私たちを祈りへと押し出してください。

主よ、今年に入って、私たちは、大きな方々を天へと見送りました。
教会を支えてくださった一人ひとりの魂が確かにあなたによって受け止められ、完全なものとされ、救いに満たされていることを信じます。
また、地上に遺されたわたしたちの心の内にある悲しみと寂しさに、どうかあなたが寄り添ってくださり、慰めと癒しをもって、私たちを支えてください。
あなたがキリストを通して私たちに示してくださった救いの福音が揺らぐことのないように、それを信じる私たちの信仰をも、揺らぐことがありませんように。

主よ、あなたが用意しておられる終末の時が、いつ来るかはだれにもわかりません。
しかしその時、キリストが私たちのもとへとやってこられ、私たちに最もふさわしい御言葉と導きをもって、天の国の救いへと入れてくださることを信じます。
あらゆる手立てを尽くしてあなたが私たちに語り掛け、誰一人滅ぼすことのないようにと尽力しておられる、その御心を、み言葉を通して一人でも多くの人が受け取ることが出来ますように。
今日ここに集うことのできなかった人々も、あなたへの祈りのうちに整えられ、御心のままに、救いへと続く道を歩んでいくことができますように。
この一週間もまた、あなたがわたしたちを悔い改めさせ、清め、用い、愛へと送り出してください。






2022年11月24日木曜日

次回27日・待降節第1主日礼拝のご案内

次週2022年11月27日(日)は待降節(アドベント)第1主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「キリストを身にまとって生きる」

と題して、
松本教会では通信礼拝として、
長野教会では聖餐礼拝として、
両教会10時半から行われます。

野口牧師は長野教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

──マタイによる福音書24章36-44節

2022年11月23日水曜日

今週の黙想文(エフェソ5:10)

なにが主に喜ばれるかを吟味しなさい。
 ──エフェソの信徒への手紙5章10節


† † †

わたしたちはついつい「何をすればよいか」ではなく「何をしてはいけないか」という言葉を使ってはいないでしょうか。
誤ったことをしている人に対して、それが正しい指摘や戒めであったとしても、なかなか聞き入れてもらえない経験が、誰しもあると思います。
パウロ当時のエフェソの教会の人々の間でも、貪欲や下品、愚かさなど、不道徳なことが多くみられていたと言います。
しかしパウロは彼らを厳しく戒め罰するのではなく、何が神様に喜ばれることかを考えるようにと促すのです。
それは「(あなたがたは)以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」とパウロが言っている通り、彼らがキリストを信じたことによって、既に神様から「光の子」とされているからです。
人はいくら誰かから言われたとしても、自分から悔い改めようとしなければ変わることはできません。
ですからパウロも彼らの過ちを指摘し正しくしようとするのではなく、人々の肯定的で前向きな部分を明るみに出すことによって、自ら悔い改めへと押し出していくのです。
このような「主に喜ばれる」関わり方を私たちも学びたいものです。

(20221120週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年11月20日日曜日

聖霊降臨後最終主日礼拝。【礼拝動画】

本日11月20日は、聖霊降臨後最終主日の礼拝でした。

野口和音牧師の説教により、
松本教会は主日礼拝として、長野教会は信徒礼拝として守られました。
また、松本教会では小児祝福の祈りを行いました。
教会に連なる子どもたちが、神様に守られて成長できますように。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
エレミヤ書23章1-6節〈旧p1218〉
コロサイの信徒への手紙1章11-20節〈新p368〉
ルカによる福音書23章33-43節〈新p158〉


説教「決して奪い取られないもの」

*祈り*

永遠の主なる神様。
あなたは信仰者イエスの生涯を、祈りによって支えてくださいました。
キリストとして御心に適うための道のりは、誰の目にも従うことの難しい歩みに見えます。
しかしキリストがそうであったように、どのような苦難が待ち受けていようとも、あなたへの祈りが必ず聞かれていること、決して誰にも奪い取られることのない平安を与えてくれる最後の砦であることを、あなたは教えて下さいました。

あなたが備えてくださっている終末と、御国の到来の時は、いつ起こるかわかりません。
また、私たちの地上の命がいつまで保たれるかは、あなただけがご存知です。
だからこそ主よ、私たちが今日、あなたに心を向け、自らの罪を省み、そのすべてを告白することが出来ますように。
喜びも悲しみも、後悔も願いも、あなたが受け取ってくださり、御前において聞き届けてくださることを信じます。
どうかあなたが絶えず私たちの祈りを聞くために、隣にあってすべてのことを分かち合ってくださっていることを信じ、励ましと慰めを受け取ることが出来ますように。
今日はこども祝福式を行いました。どうかあなたが子どもたち一人ひとりを祝福で満たしてください。また、あなたがお与えになった子どもたちの姿を通して、私たち一人ひとりのいのちもまた、祝福のうちにあることをおぼえさせてくださいますように。

私たちの目の前にある現実には、罪から起こるあらゆる痛みと苦しみが満ちています。
不安は尽きることがなく、明日の歩みすらも不透明で、私たちのいのちを守ることで精いっぱいです。
しかしその中にあって、あなたが2000年も前から私たちの先に立って下さっています。そして私たちを祈りによって立たせ、信仰を通して手を引いてくださっていることをおぼえます。
どうかわたしたちを祈りによって一つにし、その心を新しくし、平安と喜びに満たしてください。
今日一日を生きるその日が、あなたの御心に適ったものになるように、キリストの祈りに満ちた歩みへと、私たちを押し出してください。





2022年11月17日木曜日

次回20日・聖霊降臨後最終主日礼拝の御案内。

次週2022年11月20日(日)は聖霊降臨後最終主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「決して奪い取られないもの」

と題して、
松本教会では主日礼拝として、
長野教会では信徒礼拝として、
両教会10時半から行われます。

野口牧師は松本教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

──ルカによる福音書23章33-43節

2022年11月16日水曜日

今週の黙想文(エフェソ4:26)

怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。
日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。
──エフェソの信徒への手紙4章26節


† † †

キリスト教の信者というと、多くの人からはまじめで優しい人ばかりだと思われがちです。
その一方で、ある人が「神様を信じた私は、怒ることもやめなければなりませんか?」と悩んでいるのを見たことがあります。
キリストは確かに神様が私たちに諍いや争いを望んではおられないと教えますが、聖書を読むとキリストの宣教者であるパウロですら怒ることがあったことを書き残しています。
わたしたちがキリストを信じても、怒りを消し去ることはできません。
そこで大事なのは「罪を犯さないこと」なのです。
怒ることは私たちにとって自然なことだと認めた上で、その怒りを誰かにぶつけたり、誰かを傷つけるために用いてはいけない、と勧めているのです。
心理学では怒りの感情のピークはたった6秒間と言われています。
それでも持続しているように感じるのは、その怒りを私たちが反芻しているからです。
怒りに駆られるとき、踏みとどまることが出来るように、この御言葉を心に刻みたいと思います。
(20221113週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年11月13日日曜日

聖霊降臨後第23主日礼拝。【礼拝動画】

本日11月13日は、聖霊降臨後第23主日の礼拝でした。


野口和音牧師の説教により、
松本教会は通信礼拝として、
長野教会は主日礼拝として守られました。

いよいよ今月末からはクリスマスを待ち望むアドベント(待降節)が始まりますね。
同時に、教会暦の最後は終末についての箇所が選ばれています。
聖書が語る終末の福音、その希望について、聖書から聞きました。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
マラキ書3章19-20a節〈旧p1501〉
テサロニケの信徒への手紙 二 3章6-13節〈新p382〉
ルカによる福音書21章5-19節〈新p151〉


説教「終末、本当に来ると思ってますか」

*祈り*

唯一の義なる神様。
あなただけが、正しさを持っておられます。
キリストが語り、パウロが宣べ伝え、ルターが再発見したあなたの正しさは、私たちを断罪し、滅ぼしてしまうためのものではありませんでした。
あなたの果てしない愛によってキリストは十字架に捧げられ、私たちの罪が赦されることによって、すべての人をあなたの御国へと招いてくださいました。
神は愛であると聖書は語ります。
しかし私たちの目に見える現実の中では、聖書のみ言葉を利用してあなたの福音と御心を捻じ曲げ、多くの人々を迷わせ、不幸にすることによって、利を得ている人々がいます。
そのようなことをする人々がキリストの時代から変わらず存在していたことを、あなたは私たちに教えて下さいました。
主よ、あなたはいつの時代にも呼びかけ続けてこられました。
「惑わされないように気を付けなさい」「ついて行ってはならない。」「おびえてはならない」。
それは私たちが傷つけられることのないように、奪われ、不幸にさせられることのないように、2000年も前から私たちを踏みとどまらせるみ言葉でした。

主よ、どうか私たちに、あなたの正しさを教えて下さい。
正しいものと誤っているものを見分ける目を与えてください。
そしてどうかそのような罠にかかり、それを福音だと思いこんでいる人々がいるとしたら、どうかその人を救い出すために心を寄せ、その人のために祈り、私たち一人ひとりに何が出来るかを考えることが出来ますように。
あなたの御心のうちに私たちを御手の働きとして用いてください。

私たちは、終末を待ち望みます。
あなたの御国と、復活と、永遠の命への約束が成就され、天に召された全ての人々と再び顔と顔とを合わせることができる日を、待ち望みます。
すべての人が愛に満ちて、争いも悲しみもない関わりのうちに生かされるようになることを、待ち望んでいます。
どうか今日あらゆるところで苦難を背負って生きている一人ひとりに、御国の約束と慰め、支えと導きが豊かにありますように。
すべてのことをあなたにお委ねいたします。





2022年11月10日木曜日

次回13日・聖霊降臨後23主日礼拝の御案内

次週11月13日(日)は聖霊降臨後23主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「終末、本当に来ると思ってますか」

と題して、
松本教会では通信礼拝として、
長野教会では主日礼拝として、
両教会10時半から行われます。

野口牧師は長野教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

──ルカによる福音書21章5-19節

2022年11月9日水曜日

今週の黙想文(エフェソ1:4)

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、
……キリストにおいてお選びになりました。
──エフェソの信徒への手紙1章4節


† † †

信仰とは私たちが神様と出会うことによって与えられるものですが、それでは私たちはいつから信仰者としての歩みを始めたのでしょうか。
洗礼を受けたときか、それとも、自分にとって最も思い出深い御言葉に出会ったときでしょうか?
私たちは生涯の中で様々な迷いや苦難を背負い、そこで神様に出会うことで初めて信仰者に変えられた、と考えるかもしれません。
しかしパウロは、私たちが神様と出会い、信仰者と定められたのは「天地創造の前」、私たちが生まれるずっと前に、それは決まっていたと言うのです。
私たちは生涯の途中で自ら信仰者となることを選んだのではなく、むしろ初めから神様からの選びのうちに私たちのいのちは与えられ、どのようなときにも愛をもって見守られてきたのです。
キリストは信仰のわざとして隣人を愛することを教えますが、それは文字通り全ての人が神様によって愛され、救いと信仰に生かされるべくして命を与えられた存在だからなのです。

(20221106週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年11月7日月曜日

牧師エッセイ(2022年11月)

キリスト教会では11月に「全聖徒の日」として、亡くなった方々を思い起こす礼拝を持ちます。
日本ではお盆のお参りにあたる行事かもしれませんが、そもそも先祖の霊が現世に帰ってくる、という考え方がキリスト教にはありません。
というのも日本の伝統と聖書とでは「霊」の捉え方に違いがあるからです。

聖書における霊とは、魂に近いものではありますが、その言葉が意味するものは広く「風」「息」ともとれる言葉としても使われています。
つまり霊という言葉には「わたしたちを内側から動かす力」という意味合いが込められています。
それゆえ聖書では悪霊が人々を奇行に走らせたり、「キリストの霊持たない者は…(ロマ8:9)」や「聖霊を受けなさい(ヨハ12:36)」とパウロやイエスは言うのです。

それでは天上において既に救われて永遠の命を約束されている召天者の方々が地上に帰ることも、供養する必要もないとするなら、キリスト教のお盆──全聖徒の日に何をするのでしょうか。
それは彼らの信仰の歩みを思い起こし、その歩みの中にキリストの霊、聖霊の働きを見出すことに他なりません。
召天者の方々が確かに神様が送られた霊によってその生涯を支えられ、人との関わりにおいては小さなキリストとして生きていかれたということを思い起こし、私たちもまた慰めと励ましを得る機会であるのです。
一層キリストの愛に生かそうとする神の霊によって、召天者の方々と私たちは今日も生きた関わりの中にあるのです。


レアンドロ・バッサーノ 「最後の審判」 


2022年11月6日日曜日

全聖徒主日礼拝【礼拝動画】

本日11月6日は、全聖徒主日の礼拝でした。


松本教会は野口和音牧師の説教により、
長野教会では鷲見達也牧師の礼拝奉仕により、両教会主日礼拝として守られました。
ご奉仕いただいた鷲見達也牧師に感謝申し上げます。

天に召された方々を思い起こし、祈りの時を共に持ちました。
今なお天上において永遠の命を与えられている信仰の先達者の方々によって励まされつつ、私たちもこの世の旅路を歩んでまいりましょう。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
ダニエル書7章1-3,15-18節〈旧p1392〉
エフェソの信徒への手紙1章11-23節〈新p352〉
ルカによる福音書6章20-31節〈新p112〉


説教「信仰の先達者たちに学ぶ」

*祈り*

祝福と救いに満たしてくださる神様。
あなたは神でありながら人として生まれて下さり、イエス・キリストという姿を取って、わたしたちと同じ生涯に生きてくださいました。
人生の酸いも甘いも味わい、その上で私たちと神様とを結びつけるために、全身全霊をかけて生きてくださいました。
そして今は天において、一人ひとりの信仰者の姿を通して、あなたはその姿を顕してくださいます。

わたしたちは信仰の先達者たる、召天者の方々をおぼえます。
私たちはその一人ひとりの姿にあなたへの信仰を見出し、あなたの愛の教えに立つ生き方を教えられてきました。
天に召されてなおあなたとの繋がりが断たれることなく、そして私たちを通してさらに未来へと繋げられていく、この信仰の絆を、どうかあなたが強く保ってください。
わたしたちのすべてにおける慰めと救いの御言葉が、一人でも多くの人に届けられるように、どうか私たち一人ひとりを信仰の先達者として支え、用いてくださいますように。

主よ、あなたは御言葉をもって、今日も変わらず御国における救いの約束と、大いなる祝福の言葉を私たちに届けてくださいました。
それは、どれだけ時代が進もうとも変わることのない真理と愛で私たちを満たしてくださるためです。
今なお世界には、争いと暴力、身勝手な思いが人々を蝕み、互いを傷つけあう罪で満ちています。
あなたが愛し造られた一人ひとりの命が失われ、世界は悲しみで満ちています。
しかしあなたは人として生まれ、私たちの心に寄り添ってくださいました。
悲しみを慰め、涙を拭い去り、さらには十字架によって、死の絶望を御国における救いへと逆転してくださいました。
いま、祈りに覚えた信仰の先達者の方々だけでなく、これまであなたの御許に召された私たちの全ての家族、友人たちをも、どうか天上においてもあなたの導きの中にあって、救いの御手を差し伸べてください。
あなたは幸いであるという揺らぐことのない福音に、一人ひとりの魂を満たしてください。
そして、今日ここで再び寂しさと悲しみのうちにある私たちの心を慰めてくださいますように。
愛する人との死が私たちを分かつだけでなく、私たちの未来への希望と道しるべとして用いられるように、あなたの御心に全てをお委ね致します。





2022年11月3日木曜日

次回11月6日・全聖徒主日礼拝のご案内。

次週2022年11月6日(日)は全聖徒主日の礼拝です。
キリスト教会では年に1回、天に召された方々を思い起こす礼拝を行っています。
ご遺族の方々もどうぞお越しください。

松本教会は野口和音牧師の説教
「信仰の先達者に学ぶ」

長野教会は鷲見達也牧師の説教
「聖徒とされる者への祝福」

と題して、
松本教会では聖餐礼拝として、
長野教会では主日礼拝として、
両教会10時半から行われます。

野口牧師は松本教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。

──ルカによる福音書6章20-31節

2022年11月2日水曜日

今週の黙想文(ガラテヤ5:6)

キリスト・イエスに結ばれていれば、
割礼の有無は問題ではなく、
愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
──ガラテヤの信徒への手紙5章6節


† † †

パウロはここで割礼の有無について「問題ではない」と簡単に言っていますが、当時においては大変な事でした。
割礼がなければユダヤ人として認められなかったことを考えれば、キリストの福音はパウロにとって「ユダヤ人であることよりも大事なこと」だと言い切っているのです。
そしてそれは「愛の実践を伴う信仰」だと続けるのです。
ルターは宗教改革において16世紀のカトリック教会が正しい福音信仰に立ち戻ることを聖書から訴えました。
人は行為によって神に義とされるのではなく、神の恵みにより、信仰のみによって救われるのだとルターは言いますが、決して行為自体を否定したのではありません。
ここでパウロの言う「愛の実践」を、信仰に先んじるのではなく、むしろ信仰から生まれるものであるとルターは捉えているのです。
「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」は私たちに愛の実践を奪うのではありません。
むしろキリストを通して私たちに示された愛の実践へと信仰によって押し出されていくことこそ、キリストが語り、パウロが伝え、ルターが再発見した、信仰の原点なのです。

(20221030週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年11月1日火曜日

【再掲】松本教会ミニバザー2022のお知らせ【今週です!】

今年も、松本教会ではミニバザーを開催します!


今年は豊作だった教会のあんず、おいしいあんずジャムにしました!
他にも物品販売やクラフト製作等、ちょっとホッとできる憩いの場としても教会を開放しております。


※教会の駐車場に車をお停めいただけます。
※よろしければマイバッグをご持参ください


11月3日(木・祝)13時~15時に、
松本教会にてお待ちしております!


†会場の松本教会はこちらです†