2022年8月17日水曜日

今週の黙想文(マルコ7:37)

この方のなさったことはすべて、すばらしい。
──マルコによる福音書7章37節


† † †

耳が聞こえず、舌の回らない人が、「開け」というキリストの言葉によって癒されたとき、この人はキリストの癒しのすばらしさを人々に語って聞かせています。
キリストがこの人を止めようとしたのは、ご自分が奇跡行為者であるという部分だけに注目されることを避けようとしたからです。
ですから、なお止まることのなかった彼の賛美は、神様から受けた福音を語らずにはいられなくなるということの表れと見るべきでしょう。
そのような彼に起こったのは単なる癒しだけではなく、キリストの癒しのみ言葉を受け入れるように、まず心に「開け」と言ってくださったキリストがおられるのです。
彼が賛美した「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」という言葉は、身体的な制限だけではなく、心の制限をも打ち砕いてくださったことを顕しているのです。
私たちは日々どれだけの言葉を聴かないようにし、言葉を飲み込んでいるでしょうか。
神様はそのすべてを受け止めてくださるお方です。
私たちの心の声に、いつでも神様は耳を傾けてくださっている。それを信じるところに、私たちの心もまた開かれていくのです。
(20220814週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

マルコ7:37_20220814

2022年8月14日日曜日

聖霊降臨後第10主日礼拝。【礼拝動画】

本日8月14日は、聖霊降臨後第10主日の礼拝でした。



松本教会は通信礼拝として、長野教会は聖餐礼拝として、両教会10時半から礼拝が守られました。
長野教会では毎年恒例のプチ修養会を行いました。
今年のテーマは「説教のつくりかた-みことばの読み方講座-」でした。
牧師が説教をどのように準備をしているかダイジェストに紹介しつつ、学びの時を過ごしました。
毎日の日々の中でも、皆様一人ひとりが豊かに聖書のみ言葉を深めることが出来ますように。


**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
エレミヤ書23章23-29節〈旧p1221〉
ヘブライ人への手紙11章29節-12章2節〈新p416〉
ルカによる福音書12章49-56節〈新p133〉

説教「分裂の先にある平和へ」

*祈り*

わたしたちの唯一の救い主なる神様。
あなたはキリストの身をもって、人々がいかに深い罪の中にあるかを顕わにされました。
あなたの御言葉に耳を傾けず、悔い改めることをしない人々の間で生き、その苦しみの全てに心を寄せてくださいました。
だからこそ主よ、あなたはみ言葉を通して、私たちに理想とやさしさに満ちた導きだけをお与えになるのではありません。私たちに現実を見つめる試練を与え、避けられない分裂を耐え忍ぶようにと十字架の主をお示しになりました。
あなたの御言葉は私たちが日々生きる現実の中にこそ、私たちを生かす使信となることを信じさせ、またいつでもあなたに従って生きることが出来るように、私たちを支えてください。
あなたが全ての人を救いへと導こうとしておられる、その御心と愛を私たちに注ぎ、あなたの救いを宣べ伝えるための働きを担わせてください。
私たちのすべてを通して、あなたが一人でも多くの人を救いへと導くように、用いてくださいますように。

人を傷つけ、破滅させるあらゆる新興宗教が世間を騒がせている中で、私たちは改めて真の宗教、真のキリスト教とは何かを、御言葉から聞きます。
主よ、あなたこそが最も誠実な方であり、それゆえに最も私たちの罪深い現実に心を寄せてくださっている方であることを、キリストの姿において示してくださいました。
キリストの言葉を決して理想や幻ではなく、私たちの生きる現実に根付いた御言葉として、私たちが受け取ることが出来ますように。





2022年8月12日金曜日

次回14日・聖霊降臨後第10主日礼拝のご案内。

次週2022年8月14日(日)は聖霊降臨後第10主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「分裂の先へ歩み出す」

と題して、
松本教会では通信礼拝として、 長野教会では聖餐礼拝として、両教会10時半から行われます。
牧師は長野教会におります。
どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」

──ルカによる福音書12章49-56節

2022年8月10日水曜日

今週の黙想文(ルカ1:36)

あなたの親類のエリサベトも、
年をとっているが、男の子を身ごもっている。
──ルカによる福音書1章36節


† † †

マリアが天使から受胎告知を受けたことは、当時のユダヤ社会では「夫ではない人の子どもを身ごもった」重罪とされてしまいかねないことでした。
しかし、それでもマリアが「お言葉どおり、この身に成りますように」と言えたのは、親類のエリサベトもまた神様の同じご計画によって身ごもっているという知らせがあったからではないでしょうか。
自分と神様の同じ計画のうちにあるエリサベトの存在によって、マリアは孤独の暗闇から抜け出したのです。
私たちがひとりで悩み苦しみを抱える時、神様はそれを確かにご存知です。
だからこそ神様は、わたしたちと同じ立場で寄り添ってくださる方として、人であり神であるイエス・キリストを、わたしたち一人ひとりのためにお遣わしになりました。
そして、マリアとエリサベトの間に生まれた共感と支え合いの心は、のちにキリストが人々との間で保ったものでもあったのです。
わたしたちもマリアとエリサベトとの関係のように、共感と祝福の祈りを分かち合う関係へと向かってまいりたいものです。

(20220807週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年8月8日月曜日

牧師エッセイ(2022年8月)

第一子が生まれて2ヶ月が経ちました。
赤ちゃんはお腹が減った、オムツを替えてほしい、暑い、寒い、眠い……いろいろな必要を言葉で伝えられないので、「泣く」の一択で知らせてきます。
夜中でも早朝でも3時間毎に泣くので睡眠不足になり、特に最初の1か月は、夫婦二人とも心身共に疲れ果てていました。

ある日のことです。
赤ちゃんのオムツは水分を吸収すると外側の模様の色が変わり、替え時がわかるようになっています。ふとそれを見てみると、色が変わったところに「ありがとう」というメッセージが浮かび上がっていたのです。
その一言だけで、つらかった心が軽くなり、救われたような気がしました。
育児の大変さに囚われていた心が、子どもへの愛情へと立ち返らされる出来事でした。

私たちが過ごしている日々の中には、私たちの心を疲れさせ、気持ちを暗くしてしまうようなことが溢れています。
しかしそのような暗闇の中にあって、たった一言の、何気ない言葉が誰かを救うということも起きるのです。

「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い(コヘレト4:9)」とコヘレトは語ります。
そして、そのように支えあう私たちのいのちの交わりの中に、神様もまた加わってくださっているからこそ、より私たちが力強く支えられ、救われることを「三つよりの糸は切れにくい(同12節)」と続けるのです。

私たちが誰かを気遣う一言が、誰かを救う一言になる。
その一言の中にこそ、神様の働きがあります。
わたしたち一人ひとりの「ありがとう」という言葉を、誰かの心を救うために、神様が用いてくださる。
そのような「三つよりの糸」の関係性を、私たちも保ってまいりたいものです。


フランシスコ・デ・ゴヤ 「聖家族」