2024年3月18日月曜日

四旬節第5主日礼拝。

本日3月17日は四旬節第5主日の礼拝でした。

松本教会は主日礼拝として、
長野教会は信徒礼拝として
両教会10時半より礼拝が守られました。

本日松本教会では、野口和音牧師による対面での礼拝は最期となりました。
礼拝後には送別会も開いていただき、教会員の皆様から思い出を語っていただきました。
松本教会の皆様には日々の生活のサポートを含め、大変お世話になりました。
これからの松本教会のお働きが神様の御心に適い、祝福のうちに守られますように。

*最新の説教動画は長野・松本教会Youtubeチャンネルの最新説教動画・再生リストよりご視聴できます。*

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*今週の祈り*

私たちの歩みを導いてくださる主なる神様。
わたしたちの日々の中には、何が起こるかわかりません。
私たちが今日という日の歩みを振り返ることが出来るのは、いつだって過ぎ去った後です。
しかし主よ、何が起こるかわからない明日に向かって歩む私たちの道が、確かにキリストが歩まれた十字架の道に重なっており、それはあなたの栄光を示すための導きのうちにある歩みであることを、信じさせてください。
私たちの歩みのうちに起こる様々な苦難においても、その苦しみに報いがあり、悲しみには慰めが、傷には癒しが、迷いには道が与えられるための歩みへと押し出してください。
今日のギリシャ人のように、あなたを求めても出会えない、今この時には意味が読み取れないような出来事が、私たちの人生には起きるかもしれません。
そのような中にあっても、キリストが歩まれたように祈りと悔い改めのうちに、あなたのみ名と御心に適った明日へと踏み出すことが出来るよう、私たちを支えてください。
松本教会の牧師として、4月からは秋久潤牧師が新しく赴任されます。
新しい出会いと、新しい教会の歩みとが始まります。
変わっていくことや、これまでとは違うことが起こってくることでしょう。
しかし主よ、どのような時にあっても、主は一つ、信仰は一つとパウロが言うように、私たちを一つにしてください。
私たちが心を一つにし、神様の栄光を表すために一人一人が用いられるよう、たがいに配慮しあい、支えあうことができますように。そしてどうか、新しく赴任される牧師を支え、共にみ言葉を分かち合い、喜びと笑顔に満ちた宣教の働きを担っていくことが出来るように、お互いを結びあわせてください。






2024年3月14日木曜日

次回17日・四旬節第5主日礼拝のご案内。

次週2024年3月17日(日)は四旬節第5主日の礼拝です。

松本教会、長野教会は

野口和音牧師の説教
「神の栄光に生かされて」


と題して、
10時半より、
松本教会は主日礼拝として、
長野教会は信徒礼拝として行われます。


どうぞご自由にお越しください。

説教動画をご覧になりたい方は、週報記載のQRコードか、長野・松本教会Youtubeチャンネルの最新説教動画・再生リストをご覧ください。

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さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

──ヨハネ福音書12章20-33節

2024年3月10日日曜日

四旬節第4主日礼拝・野口牧師異動のお知らせ

本日3月10日は四旬節第4主日の礼拝でした。

松本教会は通信礼拝として、
長野教会は主日礼拝として
両教会10時半より礼拝が守られました。

野口和音牧師は今月3月末をもって、松本教会・長野教会を異動いたします。
4月からは熊本の九州ルーテル学院中高のチャプレンとしての働きへと召されることとなりました。

そのため、野口牧師に最後にお会いできるのは、松本教会では来週17日、長野教会では24日が最後となります。
31日の復活祭(イースター)は両教会、巡回説教者の先生による聖餐礼拝となります。
4月7日から、秋久潤牧師が松本教会・長野教会に赴任されます。
どうぞよろしくお願いします。


*最新の説教動画は長野・松本教会Youtubeチャンネルの最新説教動画・再生リストよりご視聴できます。*

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*今週の祈り*

救いと愛の源である主なる神さま。
東日本大震災と、県北部地震から11年が経ちました。
また、熊本地震や豪雨災害、北海道の胆振東部地震、今年に入っては能登半島の地震が大きな影響を残しています。
度重なる自然災害によって被害を受けた方々への支援は、時間と共に少なくなり、10年の時を経ても癒されない傷をかかえ、未だ生活を元の形には取り戻せない人々、支援がなければ日々を過ごすことのできない方々がいます。
様々な災害によって苦しみ悩む人々のために、祈りを合わせます。
各地で起こり続けるあらゆる自然災害の被害を受けた人々が、今なお助けを必要としていることを思い起こし、一人一人に必要な助けが届けられますように。
彼らの大変さをおぼえ、私たち一人一人に出来る支援を続けていくことができますように。そしてなによりも、私たちの隣に生きて関わりあう人々に対して、慰めと祈り、愛と慈しみをもって関わりあっていくことができるよう、あなたの愛に私たちを立たせてください。
あなたは愛のゆえに、私たちが誰一人滅びることを望まれません。
そしていつでもあなたは私たちに十分な恵みを与えてくださっています。
どうかいつでも私たちが感謝をもってすべてのことを受け取り、日々の中に起こる出来事を通して気づきが与えられますように。
悔い改めをもってあなたからの語り掛けを聞きいれ、私たちが自分と隣人の命を大切にし、互いに愛し合い、祈りをもって支えあう関係へと生かしてください。
今日ここに集うことのできなかった方々、遠くで祈りを合わせておられるすべての人々の上に、あなたが豊かな恵みを与え、明日からの歩みを導いてください。
病を抱え、療養しておられる方々に、あなたが癒しをお与えください。私たち一人一人の祈りを力にし、あなたが届けてくださいますように。
わたしたちの祈りと、願いを、あなたの御心に委ねます。





2024年3月7日木曜日

次回10日・四旬節第4主日礼拝のご案内。

次週2024年3月10日(日)は四旬節第4主日の礼拝です。

松本教会、長野教会は
野口和音牧師の説教
「神は救いを取引しない」

と題して、
10時半より、
松本教会は通信礼拝として、
長野教会は主日礼拝として行われます。


どうぞご自由にお越しください。

説教動画をご覧になりたい方は、週報記載のQRコードか、長野・松本教会Youtubeチャンネルの最新説教動画・再生リストをご覧ください。

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そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

──ヨハネ福音書3章14-21節

2024年3月4日月曜日

牧師エッセイ 2024年3月

松本教会・長野教会の牧師としての働きを締めくくる時を過ごしています。

赴任して6年、過ごしてみるとあっという間でした。
この長野に赴任してまず初めに驚いたことは、お茶請けに野沢菜の漬物を出されたことです。
信徒の方の訪問で出される野沢菜は、ご家庭それぞれで味が違い、しっかり塩気の強いものから、甘じょっぱいものまで様々でした。

お茶請けというのは元々お茶の味を引き立てるものとして出されるものでした。
いわば、お茶の仲立ちをする存在と言えるでしょう。
ご訪問の際には教会では話せない個人的な信仰の話をしてくださる方もいらっしゃいました。
牧師としても、信仰者としてもまだまだ未熟な私にとって、お一人お一人の長い人生の道のりに神様が共にいて働いてくださっていることを深く知らされる時間でもありました。
このような中で、ふとお茶とお茶請けの関係は、神様が私たちを通して働かれる形と似ているなと思わされます。
神様は私たちの体と言葉、信仰を用いて神様の慰めや働きをこの世に示されることがあります。
それは、様々な味のお茶請け(私たち一人一人)によって引き立てられるお茶(神様の働き)のようであり、お茶請けがあるからこそ、お茶がよりおいしく感じられることにも通ずるようにも思うのです。

皆様が迎え入れてくださり、ここまで支えてくださったことで、今日の私は牧師として立たされることができています。
そのことを皆様に感謝しつつ、教会に連なるお一人お一人が、これからも様々な賜物を生かした神様の善き手足として働く、信仰の旅路を歩んでいけるようにと祈っています。