2018年5月23日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

──使徒言行録2章1-21節

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教会の三大祝日のひとつ、ペンテコステを説明するとき、私たちはどのように表現するでしょうか。今日の聖書に記されているように、弟子たちの上に聖霊が降ったという出来事よりも、「教会の誕生日」というほうが簡単であるように思います。
けれどもそこには、聖霊とは何かよくわからない、という現実があるのではないでしょうか。

もともと旧約聖書で霊という言葉は、「様々な空気の移動」を指す言葉です。それが転じて新約聖書では「風や息吹」という意味を持つ単語から派生した単語で表されています。
このようなわけで、聖書が霊、と言うとき、それは人格的な存在というより、「動かす力そのもの」を表していると言えるのではないかと思います。だからこそ、弟子たちは聖霊に満たされた時、その「動かす力」に満たされて、「霊が語らせるままに」、‟語らずにはいられなかった”のです。

神学生としての学びをしているときにも、牧師になってからも、「どうして牧師になったんですか」とよく聞かれます。そのたびに「神様にはかなわないなと思ったから」と答えていますが、未だに一番しっくりくる表現が見つけられていません。
別に奇跡的な何かがあったわけではありません。信仰の挫折から神様が信じられなくなって、聖書が古臭くて分厚い紙束に見える日々を過ごしたこともありました。
けれどもそこに、いろんな人から与えられた言葉と、不思議な出会い、巡り合わせによってルーテル教会に戻ってくることが出来たとき、私自身の意志をこえて全てを支配されている神様の業を感じざるを得なかったのです。

私たちの人生の中で起こる全てのことには、ひとつ残らず意味があるのだと思います。簡単に奇跡なんて起こらないかもしれない。神様なんていないんだと言ってしまう日だってあるかもしれない。
けれどもそんな時にですら、私たち一人ひとりのことを、神様は絶対に見捨てたりなんかしていない。この世を歩むいのちのただ中で、そしてその先にある永遠の命に向かって、神様は私たち一人ひとりを、確かに導いてくれている。
牧師として御言葉を通して語る務めを担うたびに、私はそのことを語らずにはいられないんです。

キリストの福音は今日まで、語り続けられてきました。そこには語らずにはいられない福音があるからではないでしょうか。私たち一人ひとりが生きていくときに、私たちを他者との関係へと押し出していき、そしてつなげていくその力──聖霊を与えてくださった神様がおられることを、今日の御言葉から聞くのではないでしょうか。

今日という日だからこそ、私たちを導いてくれる聖霊について、考える日にしませんか。
私たちの人生の中で、喜びに満ちたとき、悲しみに暮れたとき。不思議な縁に恵まれた瞬間。感動に出会って打ち震えたあの日。その一つひとつを思い起こしてみませんか。
そのすべてに、きっと神様が働いてくださっています。聖霊を送り、私たちを明日へと押し出してくださっています。今日から始まる新しい一週間が、聖霊の力と共にあることを覚えて、また今週も、歩みだしていきましょう。