2018年6月27日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」

──マルコによる福音書2章23-28節

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旧約聖書の申命記には安息日についての律法規定が定められています。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。(申5:14)」そしてなぜ仕事をしてはならないのか、という理由が2つ、続けて書かれています。1つは、奴隷や家畜も含めたイスラエルの全ての生きとし生けるものが、「休むため」です。そしてもう1つは、出エジプトの出来事──かつてエジプトで奴隷として休みなく働かされていたイスラエルの人々を、神様が解放された、その出来事を思い起こすためです。

けれどもキリストが生きた時代、人々は再び奴隷のように心を縛られていた時代であったのかもしれません。律法を守れないがために差別と苦しみのなかに落とされた人々。律法を文字通り守ることに一生懸命になりすぎて、誰かを裁くことばかりしてしまう律法学者たち。皆が、ただ律法の字面の決まりに縛られて、本当の安息を忘れてしまっていたのだと思います。
だからこそキリストはそこに問いかけていったのです。神様が与えてくださった安息日は、「休まねばならない」と私たちを縛るためのものであったのか、と。

このことは私たちにも問いかけを与えてくれます。私たちの日々の中で、人と関わる中で「~しなければならない」「~すべき」という言葉が溢れているのではないでしょうか。
ルールとして定められたものは守らなければならないものです。けれどもすべてのルールには、なぜそれを決めなければならなかったのかという理由があるはずです。私たちは時にそのことを忘れてしまって、文字通りのルールにばかり目を向けて、生きづらくなってはいないでしょうか。

親が子どもにルールを教えるのはなぜでしょう。きっとわが子の人生の歩みが守られるために、一人で歩いていけるようにルールを教えるのだと思います。神様が私たちに律法を、そしてキリストを通してこの御言葉をお与えになったことも、それと同じなのだと思います。
親が子供を愛するがゆえにルールを作って教えるように、神様が私たちを愛するがゆえに、律法をお与えになったことを、キリストは私たちに語ってくださっているのです。

だからこそ、安息日は単に仕事を休む、という意味以上のものを持っています。安息日は私たちがすべてのルールの向こう側に、私たちを愛する神様がいることを、思い起こす日なのです。「~しなければならない」によって私たちを縛ってくるもの、「仕事」から離れて、私たちの命が安らぎを得る日こそ、安息日であり、日曜日、主日であると言えるのです。

世間的に休みとされている日曜日になぜ私たちは教会に向かい、礼拝を守るのでしょうか。それがキリスト者の義務だからでしょうか?
それは、この安息の日に、日々の苦しみから離れて神様と向き合う静かな時間が、ここにあるからです。キリストの福音が、礼拝に集い御言葉を聞く私たち一人ひとりに与えられているからです。だからこそ、ここから始まる一週間も喜びに満たされて生きていける。そのために、私たちにもまた安息の日を神様は与えてくださっているのだと思います。
「人の子は安息日の主でもある。」とキリストは言われました。だからこそこの安息日に聞くみ言葉のすべてに、私たちへの愛が溢れています。
日曜日は礼拝に。このルールが私たちを縛るものではなく、そこで語られる御言葉が私たちをすべての苦しみから自由にし、喜びに満たすものであることを胸に留め、それを希望として、この一週間の歩みを始めてまいりたいと思います。

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