イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
──マルコ福音書7章31-37節
† † †
1.キリストは寄り添い祈る
人々はキリストのところへと耳が聞こえず舌の回らない人を連れてきて、癒してくださるようにと願っています。しかしキリストは人々の前では癒されませんでした。その人を「群衆から連れ出し」、キリストと二人きりの場所で癒しを与えられています。
そしてまた、キリストは「天を仰いで深く息を」ついています。この「深く息をつく」という言葉は、他の箇所では「うめく」と訳されています。それゆえキリストが「天を仰いで」「深く息をつく」──「うめいて」「祈られた」のは、キリストが耳の聞こえない人の苦しみを共にし、祈りをもってその癒しを神様に求められたということなのです。
2.神様とあなたの一対一
だからこそキリストは口止めをされたのです。癒されたと言う事実だけ救いなのではなく、一対一の関係の中で苦しみに寄り添い、癒しを与えられる神様がおられるということ、それこそが救いであるからです。
3.あなたのための救い
耳が聞こえず、舌の回らない人の言葉は最後まで取り上げられていません。なぜならそこに起こった彼の救いは、彼とキリストにしかわからないことであり、唯一無二の体験であるからです。
私たちもまた彼と同じです。神様が私たちにどのように出会い、働いてくださったのか、ということは、一人ひとりが生きた歩みの中に深く根付いているものだと思います。
何かがうまくいった、誰かと出会えた、欲しい言葉がもらえた、そんな言葉では表現しきれない何かがある。その時、私たちはそこに、神様の姿を見るのではないでしょうか。かけがえのない神様の導きをそこに感じるのではないでしょうか。
私たちもまた彼と同じです。神様が私たちにどのように出会い、働いてくださったのか、ということは、一人ひとりが生きた歩みの中に深く根付いているものだと思います。
何かがうまくいった、誰かと出会えた、欲しい言葉がもらえた、そんな言葉では表現しきれない何かがある。その時、私たちはそこに、神様の姿を見るのではないでしょうか。かけがえのない神様の導きをそこに感じるのではないでしょうか。
4.耳が開かれるとき
牧師を目指して神学校の4年間を過ごす中で、何度も問いかけられた質問の一つに「どうして牧師になりたいのですか」というものがありました。その問いかけによって、「あなたと神様との関係はどうなっていますか」と考えさせられる機会が何度も与えられていたのだと思います。
私たちの生きているそのただ中で、私たちの思いを超えた何かが働いている。そのことを、私たちは常日頃から意識することはできないかもしれません。
だからこそキリストは絶えず私たちに御言葉を通して語り掛けておられます。
神様は、あなたに、どのように関わってくださいましたか。
そして今、どのように関わってくださっていますか。
私たち一人ひとりがキリストに出会う時、そしてそれを思い返す時、私たちはエッファタ(開け)という御声を聞くのです。
私たち一人ひとりがその御声によって耳を開かれ、日々の全てのことから神様の御業を聴き取ってゆく、その歩みを、いつでもここから始めてまいりたいと思います。