2018年10月10日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

 ──マルコ福音書9章38-50節 

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1.弟子たちの嫉妬


弟子たちはキリストによって選ばれ、キリストによって悪霊を追い出す力を与えられました。しかしこの箇所の少し前に、弟子たちは悪霊を追い出すことができなかった場面が記されています。それにもかかわらず、弟子として選ばれてもおらず、イエス・キリストに従ってもいない人々が、その名を使って悪霊を追い出しているのを弟子たちは見つけたのでしょう。自分たちこそ、イエス様の弟子であるのに。弟子たちの心には苦々しい思いと共に、妬む心が生まれていったことを、ヨハネの言葉からは聞き取ることが出来るのではないでしょうか。

2.逆らわない者は味方


弟子たちはいつしか神様から与えられた力を自分のものとして振るい、イエスの弟子であると言う地位によって他の者よりも優位にふるまおうとしていたのです。それは直前にある先週のみ言葉「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。(マルコ9:37)」がまったく弟子たちに理解されていなかったということでもありました。それゆえキリストは弟子たちに厳しく諭されるのです。

3.躓かせてはならない


悪霊を追い出す力、つまりこの世の力を持っているかどうかの優位性にばかり目を向け、嫉妬に駆られている弟子たちに対して、他の者の信仰を躓かせないようにと言われます。そればかりでなく、弟子たち自身をもその思いによって、自らの信仰を躓かせてはならないのだと言われるのです。
私たちは神様が造られたこの世界を、目で見て、手で触れ、そして足で歩んでいきます。そしてそこには同じように神様に作られた他者との関わりもあります。その中において、弟子ではないにせよ悪霊を追い出している人々は、少なくとも神様の御業のために用いられている人々であります。たとえイエスの弟子であろうとも、嫉妬や優越感によって彼らを躓かせることはしてはならないのだと諭しておられるのです。

4.罪を見つめる


ルター神学を語る時、そこには赦しや恵みの強調があります。しかしそのことを語る時、その前提である罪についてもまた、はっきりと語られなければなりません。ここでキリストは弟子たちに対して、非常に厳しい言葉で自分自身の罪をしっかりと見つめ、それを自ら切り落とすようにと促しておられます。この御言葉を聞く私たちも、愛や赦しだけではなく、自らの罪に目を向けさせるキリストの言葉を受け取っていきたいのです。
どんなに長く教会に通っていたって、聖書に触れていたって、私たちが御言葉を通してキリストに向き合う時、そこには誰かを愛することや受け入れることのできない自分が見つかるのではないでしょうか。
時には嫉妬に駆られ、他者に対して優越感を振りかざすこともあるかもしれません。誰かと関わりあう中で、傷つけあったり、受け入れることのできない人に出会うこともあるかもしれません。そのような自分がいることを受け止めることは、とてもつらいことです。
しかしだからこそ、そのような自分の姿を、キリストの十字架に向けてお捧げしていく、それこそがキリストが歩まれていった十字架の意味ではないかと思います。

5.十字架の道へ歩みだす


キリストはすべての人の罪を背負って、十字架にかかっていかれました。それによって私たちの全ての罪を赦してくださった。その十字架に、私たちもまた、自らの罪を、キリストに従っていけない私たち自身を、捧げていきたいのです。
私たちが深い罪の中に沈むとき、その罪のために死んで、復活してくださったキリストが語り掛けてくださいます。「片手になっても」「片足になっても」「ひとつの目になっても」「神の国に入るほうがよい」のだと。
そうしてキリストに罪を赦されたことを知って初めて、私たちもまた、誰かを愛することが出来ない、受け入れることのできない私たちから、キリストの愛、キリストの平和に満たされた歩みを始めることが出来るのです。
「互いに平和に過ごしなさい」、この御言葉と共に、どのような私たちをも受け止めてくださる神様がいることを覚え、祈りを捧げてまいりたいと思います。