──マルコ福音書10章13-16節
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1.憤るキリスト
ペトロがイエス様に「あなたはメシアです(マルコ8:29)」と告白したとき、弟子たちはイエス様のことを、旧約聖書におけるダビデのような、この世の王として権威を持った王様としてのメシアだと考えていました。それゆえ弟子たちは、子どもたちと共にイエス様に近づいてきた人々を阻み、叱っています。まるで王様への謁見を許可しない官僚たちのようなふるまいです。
これに対してキリストは「憤って」います。それはキリストを求めてやってきた人々を、人の手によって妨げているからです。
2.弟子たちの挫折
「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」とキリストは語られました。神の国とはどのようなものかと語られたことはあっても、神の国に入るのはどのような人であるのかということを語られたのは、初めてのことでありました。この言葉を聞いた弟子たちはきっと、イエス様が理解できない、その言葉に従っていけない、という大きな挫折感を味わったのではないでしょうか。
3.理性の限界を超えるもの
聖書の御言葉は、単なる道徳ではありません。それゆえ全く道理に反するように聞こえてしまうものもたくさんあります。十字架という極刑の道具であった十字架こそ神様の救いが示されている、というものはその極みと言えます。
私たちが頭で全てを理解をすることには限界があります。しかし「神学は哲学のはしためである」という言葉にも表されているように、理性の限界である哲学を乗り越えるものこそ、信仰であるのです。
弟子たちは懸命にキリストに従い、キリストを理解しようとしてきました。けれども頭で理解するだけではついていけなくなってしまった。神様の言葉に出会う私たち一人ひとりもまた、そのようなことがあるのではないでしょうか。
4.御言葉を受け止める
十字架のキリストが、私たち一人ひとりを心から愛し、この世にある命だけではなく、死の先においてもまた、復活と永遠の命という救いを与えてくださっている。聖書はそのように語ります。
私たちにとってそれは、夢物語にしか思えない、きれいごとのように聞こえるかもしれません。けれどもキリストはその救いを確かに与えてくださるのだと、私たち一人ひとりがそのままそれを受け止めていく、“信じる”時、それは私たちに与えられる現実となるのです。
5.神の国の入国審査官
弟子たちは、キリストの救いは現世的な権威と結びついていると考えていました。それゆえに、弟子として従っていくことこそ、その救いを与えられる条件であるのだと弟子たちは考えていました。だからこそ弟子でもない人々が子どもたちをキリストのところに連れてきたとき、それを阻んだのです。
しかしキリストはそのような弟子たちの考えを打ち壊していかれました。
私たちが神の国に入る為に、弟子たちがそうしたように、教会の信徒のお墨付きもいりません。神の国の入国審査官は、イエス様たったお一人であります。
そしてキリストは私たちに、たった一つだけ、質問されるのです。
わたしの言葉を信じるか、と。
その質問に、私たちはただ一言、子どものように答えてまいりましょう。
はい、信じます、と。それだけでいいのです。
この御言葉を通して、私たちも、神様、あなたを信じますと告白してまいりましょう。わたしたちの罪を十字架に捧げていくとともに、その罪を愛と救いへと変えてくださる神様を信じて、神の国へと向かう一歩を踏み出してまいりたいと思います。
~ お知らせ ~
来週の「今週のみことば」は、牧師休暇のためお休みになります。
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