2018年11月8日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
──コリントの信徒への手紙一15章51-55節

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。
──ヨハネによる福音書16章33節

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1.全聖徒主日


キリスト教にもお盆のように、全聖徒主日といって、既に天に召された方々をおぼえる日があります。
聖書は洗礼によって永遠の命が約束される、と記していますし、宗教改革者ルターも、「死は洗礼において約束された救いの完成である」と言っています。
しかしそれでも私たちが天に召された方々を思い起こす時、この地上の生のうちには会うことのできない悲しみに囚われるのではないでしょうか。
聖書が語る永遠の命があるのだと私たちがどれだけ信じていても、その悲しみが取り除かれることはきっと簡単なことではないのだと思います。
私たちがそのようなこころの痛みや苦しみのなかにあるとき、この聖書の箇所は力強い響きをもって私たちに与えられているのだと思います。
十字架にかかっていかれる前の晩、キリストは告別説教のなかで弟子たちに言われるのです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

2.死は最大の苦難


地上の生を歩む私たちに降りかかってくる最大の苦難とは、死ではないでしょうか。愛する人が私たちの目の前から失われてしまうこと。そして私たち一人ひとりもまた、いつかは地上の生を生きるすべての人に別れを告げなければならないということ。
その苦難に満ちた世に、キリストは打ち勝たれました。キリストは十字架における死を打ち壊し、その復活によって、永遠の命への道を私たちに開いてくださったからです。

3.復活とは


復活とはどのようなことであるのか、パウロは手紙の中で語っています。それは、死なない者となられたキリストを「着る」ことである、という言葉によって表現されているのです。
また、ガラテヤの信徒への手紙の中には、同じように「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです(ガラ3:27)」といっています。
このことから、キリストを信じ、キリストに結ばれたすべての人は、キリストを着る者であるのです。そして、今は天に召され、復活の命に与っている人々もそれは同様であると言えます。

4.永遠の命を受け取っていくために


キリストはわたしたちから死を取り除くのではありません。
確かにキリストは十字架上で死なれました。弟子たちとの別れや、悲しみの中にその死を受け止めていかれました。
それゆえにわたしたちが親しい者との別れと悲しみの中にある時にも、キリストは十字架の死の痛みをもって私たちに寄り添ってくださるのです。
そして十字架の死を超え、復活されたキリストを私たちが着る時、私たちの痛みや苦しみ、その苦難をまるのまま包み込んでくださって、永遠の命へと導いてくださるキリストがおられることを、わたしたちはこの聖書の箇所から聞くことが出来るのではないでしょうか。

5.共にキリストを着る


だからこそ私たちはキリストの言葉を繰り返し聞いていきたいと思います。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
悲しみのなかに沈む私たちを包み込み、その中から一歩を踏み出す勇気を与えてくださるキリストが、私たちと共におられます。天に召されたすべての人々と共に、私たちもまたキリストを着る者としての歩みを、最後の日まで続けてまいりたいと思います。