──ルカ福音書6章27-36節
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1.人と人との関係の中で
弟子たちに向けて語られた先週の箇所では、信仰を前提とした神様と自分との関係において語られた勧めであることに対して、今日の箇所は、人と人との関係の中において響いてくる御言葉であると言えます。
それは私たちが生きていく中で、誰もが人との関わりを避けることが出来ないからです。だからこそ今日の箇所において、キリストはその言葉を聞くすべての人に対して語り始められるのです。
2.無抵抗であれ?
敵から与えられる暴言、侮辱、暴力、理不尽な搾取といった傷つける行為に対して、私たちは普通、どのように反応するでしょうか。
私たちがもし暴力に暴力を、侮辱に侮辱を返せば、より一層その敵との対立が深まることは目に見えています。しかしだからといって傷つけられる行為に無抵抗であれという勧めとしてこのみ言葉を受け取るのであれば、私たちは堪えられなくなってしまうだろうと思います。
3.積極的な勧め
だからこそ私たちはむしろ、全く逆の視点でこのみ言葉を捉えていく必要があります。愛すること、祈ること、むしろ相手により一層傷つけることを勧めること。奪おうとする人にはむしろ与えていくこと。それは、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」という言葉で勧めが結ばれているように、私たちは無抵抗によって敵との関わりを絶とうとするのではなく、より一層関わっていきなさい、という積極的な勧めであるのです。
なぜなら私たちが私たちを愛し、良くしてくれる人々との関わりにのみ留まってしまうことが続けて言われているからです。
しかしなぜ、それではいけないのでしょうか。
それは、神様がすべての人の体と心から、悲しみと痛みを取り去ることを願っておられるからなのだと思います。
4.傷が癒されるためには
私たちが敵を愛することができないのはなぜでしょうか。私たちが敵によって傷つけられ、その傷を赦すことができないからです。私たちと同じ空間に敵がいるとき、私たちの心は休まることはありません。傷は疼き、より一層赦せない思いが再び私たちを傷つけていきます。
その時、私たちは敵との関わりを避け、今愛してくれる人々のうちにあって平安に満たされようとするでしょう。そのことを、キリストは否定してはいません。
しかしそれ以上に恵み深いものを私たちに与えるために、重ねて勧めておられるのです。
この勧めは、私たちの敵を取り除くだけではありません。その人との関係が新しく変えられていくなかで、私たちのうちにある傷もまた、癒されていくからです。敵であるその人によって私たちが受けた傷は、その人との友としての関わりの中でしか、完全に癒されることがないからです。
5.誰一人悲しむことのないように
私たちはそれでも、きっと敵を愛するという行為に踏み出すことをためらうことだと思います。赦せないからこそ、難しいのです。
しかし、私たちがその一歩を踏み出すこの箇所において、キリストは「まず敵を赦しなさい」とは続けておられません。ただ、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」と言っておられるのです。
わたしたちの父なる神様は、「恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」方であります。そのような方に、私たちの赦せない心を預けてみませんか。
私たちの思いよりも神様の思いを私たちの胸に満たしてみませんか。
私たちの痛みだけではない、敵となっている誰かをも救おうとされる神様であるからこそ、私たちがこのみ言葉によって踏み出した一歩は、確かに和解への一歩となることを約束してくださっています。そこには和解という「報いがあり」、共々に憐れみ深い「いと高き方の子」とされるからです。それは、誰一人悲しむことのないようにと願う神様の、救いへの招きであるのです。