2019年5月9日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。


──ルカ福音書24章36-43節

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1.恐れに満たされているとき

先週の箇所、エマオから二人の弟子たちがエルサレムへと帰ってきたところから、今日の箇所は続いています。ここでイエス様は二人の弟子たちやペトロだけではなく、全ての弟子たちの前に姿を現されました。
ルカ福音書におけるキリストの復活物語の中で、婦人たちとは違い、弟子たちは十字架の過去に囚われ続け、復活を受け止めきれない姿が繰り返し描かれています。
十字架を前にして逃げ出してしまったという裏切りと罪の意識、そして自分もまたイエスの弟子として十字架にかけられてしまうかもしれないという恐れが、彼らの目を遮り、心を閉ざしていたのです。
だからこそ、復活のイエス様が現れたとき、弟子たちは恐れのあまり「亡霊を見ているのだと思った」のです。

2.キリストによって立たされる

使徒言行録には、キリスト者を迫害していたサウロという人が復活のキリストに出会い、彼もキリスト者として起こされていく、回心の出来事についての物語があります(使徒9:1-20)。
「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで(使徒9:1)」いる迫害者であったことは誰もが知っていることでした。
しかし目の見えなくされたサウロのもとに主の弟子アナニアを遣わしたキリストは、彼に言うのです。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」
復活のキリストによって、キリストの迫害者サウロが、福音宣教者パウロとして新しく立たされていったという出来事がここに起こっています。
今日の福音書の箇所との共通点はここです。復活の主が弟子たちの前に現れてくださることによって、彼らもまた福音を宣べ伝えるための証人として再び立たされていったのです。

3.平和のために

キリストは弟子たちに向けてこのように言われました。
「あなたがたに平和があるように」。
キリストは生前、弟子たちを送り出す時にも、迎え入れてくれた人々に対してこの言葉を言うようにと教えていました。ですからこの言葉は祈りの言葉であるのだと思います。
そして、閉じこもっていた弟子たちを福音の証人として送り出す言葉であり、敵対者をも回心させたキリストが語ってくださった言葉であるのです。
だからこそ復活のイエス様ご自身が「彼らの真ん中に立ち」、「平和があるように」と祈られたのは、敵対者たちとの間に、疑いと不安の中にいる人々の間に、そしてすべての人と人との間にある関係に、「平和があるように」と、真ん中に立って祈ってくださった、ということだったのだと思います。

4.平和へ向かって

令和、という元号と共に、また一つ、新しい時代が始まりました。
万葉集第5巻から取られたこの言葉には、「和の始まり(令)」という意味を持っているのだそうです。私たちがこの言葉をキリスト者として受け止めようとするとき、わたしたちはキリストが祈ってくださった「あなたがたに平和があるように」という祈りを重ね合わせてまいりたいと思います。
私たちの間に来られた復活のキリストが、私たちの平和を祈ってくださっている。
迫害者であったサウロにすら語り掛けてくださった神様だからこそ、今や最も神様から離れているとさえ思える世界のありようにおいても、神様は確かに生きておられるのだということを、私たちは信じていきたいと思います。
そしてこの祈りのゆえに立たされていった主の弟子たちのように、私たちもまた、キリストの平和を携えて、キリスト者として立たされてまいりたいと思います。