2019年10月3日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

──ルカ福音書16章19-31節

† † †

1.金持ちとラザロ

ある金持ちと、ラザロと言う貧しい人が登場しています。
金持ちは、衣服やその振舞いからも裕福さがはっきりと表れています。
それに対してラザロは、金持ちの家の門前に横たわり、食卓から落ちる物でお腹を満たしたいと願うほどに貧しさの極みにありました。
ラザロと金持ちの境遇は、死を境目にして逆転していきます。
金持ちは最も苦しい陰府の炎に苛まれ、ラザロは至福の場所だと考えられていたアブラハムのふところに迎え入れられるのです。
そして二人の間は深い淵によってさえぎられ、もはやアブラハムでさえも彼を救うことが出来なくなってしまうのです。

2.欠けた隣人愛

金持ちはなぜ、陰府の炎に焼かれなければならなかったのでしょうか。
ラザロに施しをしていれば、彼は助かったのでしょうか。
きっとそうではありません。ラザロがそうであったように、善い行いが救いの条件になっているわけではないからです。
彼の心は、死してなお彼の語る言葉に現れています。──「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」。
金持ちは、死してなおラザロのことを、自分の必要のために自由に動かせる召使くらいにしか思っていないのです。
アブラハムは金持ちとその兄弟たちに「モーセと預言者に聞け」と言われました。それはモーセが「貧しい同胞に対して心を頑なにせず、物惜しみをするな(申命記15:7)」と言っているからです。
モーセが語っている心とは、イエス様において拡張されていった「隣人愛」の心です。
金持ちはすぐ近くに横たわっているラザロを自分の隣人として見ることなく、関わることもしませんでした。
隣人愛の欠けた彼の心こそが、彼を陰府の炎の苦しみ、淵の向こう側へと追いやってしまったのです。

3.信仰の友を作るために

私たちにとって、隣人とは──ラザロとはいったい誰のことでしょうか。
ラザロに必要であったのは、ひとかけらのパンであったかもしれません。
その身を温める毛布も、雨風をしのぐ家も、できものを治す医者も必要だったかもしれません。
私たちはそのすべてを与えることはできません。しかし私たちは、私たちと彼の間にある門を越えることができるのではないでしょうか。
直前のたとえのなかで、イエス様は言われました。「不正にまみれた富で友達を作りなさい(ルカ16:9)」
この世で私たちに与えられたものを分かち合うことで信仰の友を作ること、それは隣人愛と結びついているのです。

4.分かち合う

私たちが彼と分かち合えるものは、わずかなものかもしれません。
それはひとかけらのパンだけ、一枚の毛布だけかもしれません。
しかし何も与えることができなくとも、そばにいて、共にいる時間を分かち合うことができます。
金持ちが陰府に落とされていったのは、溢れんばかりの恵みと富を神様から与えられながら、それを分かち合う愛がなかったからです。
私たちも考え続けていきたいのです。
私たちは、神様からどれだけのものを受けているのでしょうか。
神様のためにどれだけのものを、誰かと分かち合えるでしょうか。
その人を愛し、神様のもとへと招くために、私たちはいったい何ができるのでしょうか。
たとえ私たちが何もできなくとも、何も持っていなくても、分かち合えるものはきっとあります。それを生み出すものは、アブラハムが、イエスが聖書において語ったように「隣人愛」であるのです。
私たちとすべての隣人との間にある門が淵に変わる前に、その境目を越えて、この愛と、恵みと、この福音とを、分かち合ってまいりたいと思うのです。