これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
──ヨハネ福音書15章1-17節
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1.信仰からくる愛
ルーテル教会では、11月の1週目の日曜日は毎年、天に召された方々を思い起こす「全聖徒主日」として礼拝が守られています。当教会でも昨年、一昨年と天に召された方々がおられ、その方々を思い起こしました。
そのお一人お一人が笑顔と愛にあふれた方であり、それはまさに信仰からくる愛の姿であったと思います。
今日の聖書箇所はまさにこの信仰からくる愛のわざについてイエス様が語っておられる箇所です。
「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語り始められたイエス様は「わたしにつながっていなさい」「わたしの愛にとどまっていなさい」と言葉を変えて繰り返されます。
イエス様につながり、愛に留まること、そのために私たちに与えられた掟こそ「互いに愛し合いなさい」というものでした。
2.常に愛し合えない
もし私たちが条件のように「常に互いに愛し合わなければならない」とイエス様の言葉を読むのであれば、それは挫折になってしまうでしょう。時には笑顔ではいられない、耐え難い苦しみから愛に生きることのできないことが誰しもあるのではないでしょうか。
そのような自分は、洗礼を受け、クリスチャンになっても劇的に変わることはほとんどありません。
そうであるなら一体だれが、イエス様の言葉の通りに生きることができるでしょうか。
3.友が救われる喜び
イエス様は「喜び」に満ちて今日の言葉を語っておられます。福音書の中で語られている通り、イエス様はこの後すべての弟子たちから裏切られ、たった一人で十字架にかかっていかれました。
その未来をイエス様が知っておられなかったはずがありません。
それでもイエス様がこのように語られたのは「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」とまで言ってくださった愛のゆえであるのだと思います。
キリストの十字架は私たちの罪を代わりに償うものであったとパウロは手紙の中で繰り返し語っています。
イエス様は決して、私たちの愛せない罪を見過ごしておられたのではありません。
私達がその罪から解放されて愛に生きる未来まで見据えておられたからこそ、十字架にかかることも厭わず、喜びに満ちて「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と言われるのです。
4.ともなるイエス
イエス様は十字架の先に、復活されました。パウロも言います。「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。(ローマ6:5)」
キリストは十字架によって私達の罪を赦されただけではなく、永遠の命をも注いでくださいました。
私達の愛がどれだけ不完全で、罪に満ちた存在であっても、十字架と復活を通していつでも私達と共に歩んでくださり、そして友として愛してくださっているイエス・キリストがおられます。
それは、天に召された方々にとっても、今を生きる私たちにとっても、同じです。
そのことを信じ、思い起こすたびに私たちの愛は新しくされ、清くされ、まことに信仰からくる愛として用いられていくのです。
私達を「友」として愛し、いつでも「共」におられる。
この二重の意味で「ともなる」イエス様のゆえに、罪ゆるされ、日々新しくされながら、愛に満ちた日々を歩み続けてまいりたいと思います。