2018年4月11日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~


〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

──マルコによる福音書16章9-18節

† † †

私たちはどのようにして、神様を信じるようになるのでしょうか。
きっと誰一人として同じ答えはないのだと思います。なぜなら私たちは一人ひとりが全く違う生活の中で生きていて、そのなかで神様に出会う体験も一人ひとりが違うからです。
聖書を読んだだけで、牧師の説教を聞くだけで、神様を信じることが出来ればそれが一番いいのですが、なかなか難しいかもしれません。
けれども自分自身の生活の中で、実際に神様が働いてくださったのだという出来事が起こった時。その確信が得られた時、私たちはそこでやっと、神様はいるのだ、私に顕れて、私に関わってくださったのだと語ることが出来るのではないかと思うのです。

今週の聖書個所ではそのような人間の姿を描き出しています。
マグダラのマリアから知らせを受けた人々、エマオでの途上に向かう人々、そして弟子たちはすべて、他の誰かからキリストの復活を聞いても信じることが出来ません。けれどもその人自身が実際にキリストに出会う時に、キリストを信じ、語る者とされていくのです。

キリストに出会うこと、神様の働きに出会うことは、もっと身近に、けれども私たちに大きな喜びを与えてくれるものです。
たとえば思いもかけない場所で昔に知り合った人と再会したり、あるいは誰にも言えないつらさを抱えている中で、自分を慰めたり癒したりする言葉が目に留まったり、誰かから与えられたりした経験はありませんか。
そのような瞬間が、私たちを喜びに満たしたり、立ち止まってしまった足を前に進めてくれたりしているのではないでしょうか。

教会もまた、そのような場所ではないかと思うのです。
喜びも痛みも共にわかちあえる友がいるということ。日々のなかで乱れた心が整えられていく時間が与えられるということ。思いもよらない人と人とのつながりが与えられて、新しい人と巡り合えるということ。週の初めの朝早くに、キリストがマグダラのマリアに現れてくださったように、この週の初めの日に、神様が私たちの間においてもまた、働いてくださっていることを、知るのではないでしょうか。

私たちが日々の中で確かに神様が働いておられる、そのことに気付くために、私たちは毎週、あるいは日々の中で、聖書の御言葉に触れるのだと思います。
聖書に記された人々が、復活のキリストが本当にいたのだという知らせを初めに受けていたように、私たちもまた、まず御言葉に触れることで、神様の働きを日々の中に見つけることができるようになるのではないでしょうか。
そうしてやっぱり神様の言葉は本当だったのだと、喜びにあふれて、また御言葉へと返っていくのではないでしょうか。そしてその繰り返しの中で、神様への信じる心が与えられるのだと思います。

復活されたイエス・キリストは言いました。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
福音とは「GoodNews」、あなたと、すべての人にとっての”良い知らせ”のことです。神様の働きによって喜びに満たされるそのことを言います。
日々の中で、神様の働きを見つけることは簡単ではないかもしれません。けれどもだからこそ、この週の初めごとにキリストは私たちに語り掛けてくださっているのだと思います。
あなたの信仰の旅路の中に、いつでも私が共にいるのだと。辛く苦しいとき、キリストが見えないときにも、その苦しみを共に担い、喜びを分かち合う友を引き合わせてくださる、そのような神様が、いつでも共にいて働いてくださっているのだと。
だからあなたも、誰かにこの喜びを分かち合うために、ここから歩みだして行きなさい、と言ってくださっているのです。