2018年4月18日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

──ヨハネによる福音書21章1節-14節

† † †

弟子ペトロは「わたしは漁に行く」と言います。彼はイエス・キリストの弟子となる前は漁師として生計を立てていました。いわば漁のプロでした。そのペトロが、明け方までかかって、他の弟子たちと共に漁をして一匹も魚がとれなかったというのは不可解な話のように聞こえます。
けれどもそこに復活のキリストが現れて「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」という言葉に弟子たちが従うと、網を引き揚げることのできないくらい多くの魚がとれたというのです。

先週、キリストと出会った私たちを「全世界に福音を宣べ伝えなさい(マルコ16:15)」と送り出してくださることを御言葉から聞きました。
けれども今日の箇所で、福音を語るために送り出されたはずの弟子たちは、なぜか漁をしているのです。
この謎を読み解く鍵は、ペトロがキリストの一番弟子となった時に言われた言葉にあると思います。キリストはこうペトロに言ったのです。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう(マルコ1:17)」。

このことから、ペトロの「わたしは漁に行く」という言葉から、ペトロが弟子たちに呼びかけたもう一つの言葉が聞こえてきます。
ペトロは言うのです。「さあ、これから私たちは、福音を宣べ伝えにいこう」。

確かに弟子たちは福音宣教に意気揚々と送り出されていったのだと思います。
けれどもその結果は、漁の結果と同じように、誰も信じてはくれなかったのかもしれません。そのような絶望の中にいる弟子たちをキリストの言葉が導き、多くの実りを得るというのが、今日の聖書が語っていることなのです。

弟子たちはそれがキリストの言葉だったから従ったのではありませんでした。
もう何もなすすべもないと自分の無力さを自覚したとき与えられた言葉に聞き従っただけでした。
私たちもそうではないでしょうか。
私たちは自分が出来ることをわざわざ他者に頼ったりはしません。そうしていつしか、何もかも自分の力だけで成し遂げられると思ってしまってはいないでしょうか。
そのように強く考えていればいるほど、どうしても自分には無理だと思うようなことに出会ってしまったとき、弟子たちと同じように疲れ果て、無力さの中に沈んでしまうのではないでしょうか。

けれどもその無力さの中にこそ、キリストの言葉は響き渡るのではないかと思います。
苦しみ、迷い、疲れ、目を伏せて立ち止まってしまった私たちを再び立ち上がらせる一言を、キリストは必ず与えてくださることを今日の御言葉から聞くことが出来るのではないでしょうか。

ペトロが「わたしは漁に行く」というと、他の弟子たちは「わたしたちも一緒にいこう」と言いました。彼らは誰も漁のプロではありませんでした。それでも弟子たちは皆で船に乗り込み、皆で網を打ったのです。そしてキリストの業によってとれた多くの魚を、キリストと共に分かち合っていきました。
私たちも漁師ではありません。教会に人を集める技術なんて誰も持ち合わせていません。けれども力強くペトロの言葉は私たちにも響いています。わたしは漁に行くのだと。だからこそ私たちと共に人々を招いてくださるキリストが確かにおられることを信じて、私たちもその声に応えるのです。「わたしたちも一緒にいこう」と。

この一週間も、この教会という名の船を皆で漕ぎ出していきましょう。苦しみ迷う誰かに寄り添い、疲れ果てた誰かを癒すために、愛を分かち合っていきましょう。一歩も動けない誰かにキリストの言葉を届けるため、私たちはここから歩みだしていくのです。そのために私たち自身もまた、いつでも聖書の言葉に聞き従うものでありたいと、そう思います。