2018年4月25日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~


食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

──ヨハネによる福音書21章15-19節

† † †

「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。
ペトロの返答は彼らしくない表現に聞こえます。彼はキリストに対していつだって素直で、まっすぐな弟子であったように見えます。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません(マルコ14:29)」「あなたのためなら命を捨てます。(ヨハネ13:38)」と言い切る言葉からも、キリストに対する愛が伝わってくるように思います。
けれどもそんなペトロが、キリストが十字架にかけられていくとき、三度もキリストを知らないと言いました。
その裏切りは、誰よりも深い悲しみをもって彼自身を縛り続けていたのかもしれません。
だからこそ彼は、素直に愛していますだなんて言えなかったのだと思います。

キリストは問いかけます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
原典ではこのキリストとペトロがそれぞれ使う「愛する」という単語が違うことがよく取り上げられます。
ペトロの「愛する」は友愛を示す単語フィレオーが使われており、キリストは二度目の問いかけまでは神の愛を示すアガペーが使われています。けれども三度目の問いかけだけは、キリストはペトロと同じフィレオーを使って、「私を愛しているか」と問いかけているのです。
この言葉の変化の中にこそ、裏切りという痛みの中にいたペトロに寄り添い、再びその愛によって立ち上がらせてくださるキリストが見えてくるのではないでしょうか。

キリストがアガペーの愛を問いかけても、ペトロは終始、フィレオーで答えています。けれども三度目に、キリストからフィレオーで問いかけられた言葉によって、ペトロは気づかされていったのではないでしょうか。
キリストはわたしの愛の限界と苦しみを確かに知っておられるのだ。アガペーではなく、友を愛するフィレオーの愛しか持ちえない、その限界の中にこそ、キリストが降りてきてくださって、ともにその痛みを分かち合ってくださっているのだと。

あなたが私を裏切ったことを知ってるよ。
それでも私は、あなたを愛しているんだ。
あなたのその苦しみを分かち合うために、私は十字架から復活して、あなたのところにやってきたんだよって。
そのような慰めに満ちた御言葉を持って、キリストは三度、言葉を変えながら問いかけてくださっているのです。

そしてそのことに気付かされたとき、ペトロは縛られていたものから全く自由になって、キリストの問いかけに応えることが出来たのではないでしょうか。
「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
もはやそこにいるのは、”私が”キリストを愛する、”私は”裏切らない、と言っていたペトロではないのだと思います。
愛は自分から生み出すものじゃない、キリストの愛が私に満ちているから、私も誰かを愛することができるようになるのだと、そのように変えられたペトロがいることを、今日の聖書は語っているのではないでしょうか。

私たちもまた、誰かを愛そうとするとき、その難しさに挫折してしまうことがあるかもしれません。私達の愛は有限だからです。
自分で誰かを愛そうとすればするほど、それはすぐに枯れ果ててしまって、自分だって愛されたいという欲求が強くなるばかりなのだと思います。
けれどもキリストはそのような私たち一人ひとりに寄り添ってくださっています。私達の枯れ果てた心を、キリストの愛で満たしてくださっているのです。キリストの愛があるから、私達はすべての人に、愛をもって関わっていくことが出来るのではないでしょうか。

キリストはそのようなペトロに、私たちに、続けて言われます。
「私の羊を飼いなさい」そして「わたしに従いなさい」と。
私達の前をいつだって歩いてくださるキリストがおられます。今週も、尽きることのないキリストの愛を、この御言葉とともに、一人でも多くの人と分かち合っていきましょう。愛が枯れ果ててしまって一歩も動けない人のために、キリストはその働きを、私達一人ひとりに、任せてくださっているのですから。