さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
──使徒言行録1:6-11
† † †
今日の聖書では復活の主が天に昇っていき、弟子たちの目には見えなくなったということが語られています。
私たちはこの出来事を聞くとき、天に昇っていくキリストに対して、せっかく復活したのだからずっと一緒に居てくれればいいのにと思うかもしれません。
けれども私たちがこの復活節の御言葉から聞いてきたように、神様の御心は、そのような私たちの願いとは全く逆であったことを思い返すことが出来るのではないでしょうか。
私たちはどうしても目に見えるモノ、手に触れられるモノに頼ってしまう、そんな弱さを抱えています。
それは時に、人に対してもそうであるかもしれません。この人についていけば安心だ、この人がすることにすべて従っていればいい。弟子たちもまた、どこかでキリストをそのように見ていたのかもしれません。
けれどもキリストは、私たちを従わせるためではなく、私たちをほかの誰かのところへと遣わすために来られたのではなかったでしょうか。
御言葉を通して、いつだってキリストは、自分ではなく他の誰かに目を向け、愛を注ぐために歩み出していきなさいと私たちを送り出してくださっている。そのために私たち自身をも愛に満たしてくださる。
なによりキリストご自身がそうであったように、隣人のために自ら愛をもって仕えていく、そのように私たちを導いてくださる神様であることを、私たちは御言葉から聞いてきたのではないでしょうか。
そしてその喜びに満ちた知らせを、福音と呼ぶのだと思います。
だからこそ、キリストは弟子たちと離れ、天へと昇って行かれたのです。
あなたの目には見えなくなってしまうけれども、いつだってあなたと共にいる、そのためにあなたを導く聖霊を送るのだ、という約束を残して、キリストは弟子たちに別れを告げるのです。
復活節を終えると、聖霊降臨祭がやってきます。約束された聖霊を受け、キリストの福音を証する者として歩み出した弟子たちの姿が聖書には記されています。
つまり昇天の出来事とは、地上のキリストによる宣教のゴールであり、同時に私たちがキリストからその宣教のバトンを受けて歩みだすスタートラインであると言えるのではないでしょうか。
ルカ福音書の昇天の記事のなかで、キリストは「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。(ルカ24:51)」と記されています。
またルカの著した第二巻である使徒言行録の初めには、「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と弟子たちに語られています。
天に上げられたキリストは今もなお、御言葉を聞き、キリストに遣わされて歩む私たちを、天で祝福してくださっているのです。
再び来られるその日まで、わたしたちの日々を絶えず祝福の中に入れてくださっている。その福音とともに、このキリストから渡された宣教のバトンを受け取っていきましょう。
私たちがキリストの福音を証する者として歩みだすスタートラインは、今、ここにあるのです。
私たちはこの出来事を聞くとき、天に昇っていくキリストに対して、せっかく復活したのだからずっと一緒に居てくれればいいのにと思うかもしれません。
けれども私たちがこの復活節の御言葉から聞いてきたように、神様の御心は、そのような私たちの願いとは全く逆であったことを思い返すことが出来るのではないでしょうか。
私たちはどうしても目に見えるモノ、手に触れられるモノに頼ってしまう、そんな弱さを抱えています。
それは時に、人に対してもそうであるかもしれません。この人についていけば安心だ、この人がすることにすべて従っていればいい。弟子たちもまた、どこかでキリストをそのように見ていたのかもしれません。
けれどもキリストは、私たちを従わせるためではなく、私たちをほかの誰かのところへと遣わすために来られたのではなかったでしょうか。
御言葉を通して、いつだってキリストは、自分ではなく他の誰かに目を向け、愛を注ぐために歩み出していきなさいと私たちを送り出してくださっている。そのために私たち自身をも愛に満たしてくださる。
なによりキリストご自身がそうであったように、隣人のために自ら愛をもって仕えていく、そのように私たちを導いてくださる神様であることを、私たちは御言葉から聞いてきたのではないでしょうか。
そしてその喜びに満ちた知らせを、福音と呼ぶのだと思います。
だからこそ、キリストは弟子たちと離れ、天へと昇って行かれたのです。
あなたの目には見えなくなってしまうけれども、いつだってあなたと共にいる、そのためにあなたを導く聖霊を送るのだ、という約束を残して、キリストは弟子たちに別れを告げるのです。
復活節を終えると、聖霊降臨祭がやってきます。約束された聖霊を受け、キリストの福音を証する者として歩み出した弟子たちの姿が聖書には記されています。
つまり昇天の出来事とは、地上のキリストによる宣教のゴールであり、同時に私たちがキリストからその宣教のバトンを受けて歩みだすスタートラインであると言えるのではないでしょうか。
ルカ福音書の昇天の記事のなかで、キリストは「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。(ルカ24:51)」と記されています。
またルカの著した第二巻である使徒言行録の初めには、「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と弟子たちに語られています。
天に上げられたキリストは今もなお、御言葉を聞き、キリストに遣わされて歩む私たちを、天で祝福してくださっているのです。
再び来られるその日まで、わたしたちの日々を絶えず祝福の中に入れてくださっている。その福音とともに、このキリストから渡された宣教のバトンを受け取っていきましょう。
私たちがキリストの福音を証する者として歩みだすスタートラインは、今、ここにあるのです。