2018年5月30日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。

──ヨハネによる福音書3章1-12節

† † †

ニコデモは夜に、こっそりとイエス・キリストのところへやってきます。ファリサイ派で、ユダヤ人たちの議員であるという彼の肩書は、当時においてイエスに会うということを妨げるものでしかなかったのかもしれません。それでもニコデモがイエスのところにやってきたのは、それでも晴らしたい疑問があったからではないかと思います。
キリストはニコデモが問う前にその答えを明らかにしています。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

当時のユダヤ教の人々にとって、神様から与えられた教えをどれだけ正確に理解し、守れているかということに全力を注いでいた人々がいました。ファリサイ派の人々もその一つです。イエス・キリストも当時はユダヤ教徒の一人として、革新的な理解としるし(奇跡)を起こすことから、人々から注目を浴びていた人でした。特にファリサイ派などの人々からは敵視されていたのです。それでもニコデモは、自分の立場を危うくしてまで、イエス・キリストのもとへとやってきたのです。
ニコデモにとって、律法を理解することこそが神様を理解し信じるために必要なことだと思っていたのかもしれません。けれどもキリストはそのようなニコデモへの言葉を通して、理解することが信じることの全てではないことを語っているのではないでしょうか。

聖書を開いてみると、ところどころで矛盾したように感じる箇所が見つかるかもしれません。イエスやニコデモが生きていた時代、聖書は旧約だけでしたが、それでも順々に読んでいくとそのように思うところも少なくないかもしれません。
けれども視点を変えてみれば、私たちもまたそうではないでしょうか。
私たちが誰かに言葉を伝えようとするとき、その人の今に最もふさわしい言葉を選びたいと願うことでしょうし、その人の状況や気持ちを知っているのならばなおのこと、整合性よりもその人への配慮が優先されるのではないでしょうか。
私たちがそのような存在であるならば、神様もまた、そのような私たちに合わせて語ってくださっているのではないかと思います。だからこそ、神様が言葉の整合性よりも、私たちを愛し、私たちに最も必要な言葉を選んで語ってくださっている、そのことをそのまま受け取っていくことが、御言葉としての、聖書の読み方なのかもしれません。

キリストは聖書がそのような神様の愛から出た言葉であることを人々に伝えようとしていたのではないでしょうか。私たちの理解が及ばないほど深い、愛と救いがあることを、私たちが神様の全てを理解できなくとも、信じていくことによって、神様の国は見えてくるものなのだと語ってくださっているのではないかと思います。

神様によってこの世に命を受け、キリストを通して御言葉が説き明かされ、そして先日の聖霊降臨によって聞いたように、私たち一人ひとりが、聖霊を受けて、力と導きを与えられて生きています。
私たちが理解できる神様の業はほんのわずかかもしれない。それでも聖書という揺るがない神様の愛が詰まったものが私たちに与えられています。いつでも私たちを新しくする道へと招いてくださっています。
そのような神様の言葉に、「どうして、そんなことがありえましょうか」ではなく「アーメン(そのとおりです)」と答えていく日々を過ごしていきたいと思います。