2018年6月6日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。
しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。


──マルコによる福音書2章1-12節


† † †

信仰って何ですか、という問いに、どのように答えればよいでしょうか。
宗教改革以前のカトリック教会において、信仰は「教会の教えに従うこと」でした。けれどもルターは、信仰とは「神様と私の関係のこと」だという本来的なところに戻っていきました。それが人々の共感を呼び、宗教改革という大きな動きへと成長していったのです。
それ以後の信仰の理解において、神様と私、という個人の関係が強調されてきたように思います。けれどもいつしか私たちは、信仰をあまりにも個人的なものにしてしまってはいないでしょうか。
信仰とは、そんな小さなところにおさまるようなものではないということを、今日の御言葉は語ってくれているのではないでしょうか。

今日の聖書の箇所の中で、注目したいのは次の二つのことです。
一つは、中風の人の信仰によってではなく、その人を運んできた4人の男の信仰によってキリストによる癒しが与えられているということ。
そしてもう一つは、キリストは初め、癒しではなく罪の赦しをその人に与えている、ということです。

罪の赦しの宣言と病の癒しのどちらが簡単であろうか、とキリストは言います。民衆たちは癒された中風の人を見て初めて讃美の声を上げていますし、律法学者たちはイエスに罪を赦す権威があるかどうかというところにばかり気を取られています。

罪が赦されていく場面では周りの誰一人として、喜びの声も讃美も上がらず、あまつさえ疑問を抱く者すらいる。その状況こそが、人の中にある罪というものを浮き彫りにしているのではないでしょうか。
私たちがいかに目に見えているものばかりに囚われてしまっているということ。誰かが救われた喜びを共に分かち合うこともできない、自分のことばかりに目が向いてしまう私たちこそ、罪という病に侵されていると言えるのではないでしょうか。

けれどもだからこそ、キリストは言うのです。
「子よ、あなたの罪は赦される」と。
この言葉は全ての病から私たちを解放する言葉ではないかと思います。病によって一歩も動けない。神様に喜ばれることなんて何一つできない。そんな絶望の中にあった中風の人に向かってかけられたキリストの言葉は、身体的な病を超えて、その人の全てを癒していったのではないでしょうか。

罪の赦しの救いは、中風の人の信仰によってではなく、4人の男の信仰によって与えられています。
彼らは、中風の人を助けずにはいられなかったのだと思います。キリストなら絶対にこの人を癒してくださる──ひたむきにその人を愛する心、家の屋根をぶち破ってでも、その人の救いを願うまっすぐな彼らの姿に、私たちの救いの為に十字架にかかられたキリストの姿を、私たちは重ねて見ることが出来るのではないでしょうか。

私たちも、あなたの隣にいる誰かのために、何が出来るか、考えてみませんか。
この一週間を、ひたむきに誰かのことを想う、そういう日々にしませんか。
きっとそのような交わりが起こるところにこそ、教会と呼べる場所が生まれるのだと思います。
誰かのために祈り、関わり、寄り添い、分かち合う。その交わりによって互いに、私たちの信仰もまた新たに立てられていく。教会とはそのような場所であると思います。
私たちは誰も、決してひとりではありません。キリストが「子よ」と呼びかけてくださっているように、神様の子どもとして共に生きる、その喜びと交わりのうちに、日々を過ごしてまいりましょう。