2018年6月13日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

──マルコによる福音書2章13-17節

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宗教改革ということを思い起こすとき、人々の魂の救いについて真摯に向き合った面もあれば、宗教改革をきっかけにして引き起こされた権力争いや農民戦争、ユダヤ人追放という現実もそこにはありました。カトリックだから。ルター派だから。ユダヤ人だから。そこには個人にレッテルを貼りつけ、ひとまとめに他者を理解してゆくということが起こっていたのではないかと思います。

レビもまた、徴税人という職業というレッテルを貼られていました。その職業はローマから委託され、イスラエルの人々から税を取り立てる仕事でありました。それだけでなく余分に取り立てた額が彼らの給料になるため、私腹を肥やそうと思えばいくらでもできる。実際にはそうではなかったにせよ、レビもまた、そのような職業についている者として見られていました。
けれどもここで、レビ自身がどのような人であったのかということについては語られていません。このような職業についているから。人々は職業のレッテルでレビを見て、レビ自身には目を向けていなかったのではないでしょうか。

キリストは収税所に座っていたレビに自ら声をかけられます。従うということは、職も捨ててついてゆくということです。漁師であったペトロたちの他に召命の記事が記されているのはレビのみです。徴税人の仕事は一度辞めれば復帰はほどんど絶望的でありました。けれどもマルコはそんなレビを「彼は立ち上がってイエスに従った。」と簡潔に記しています。レビのことを職業というレッテルを通して見る人々しかいない、その現実の中で、キリストだけは職業ではなくレビ自身を求めて、招いてくださった。そのことが、レビにとってキリストに従う理由として充分であったと言えるのではないでしょうか。

キリストはレビの家で食卓を囲んでいました。そこには大勢の人がいたのだと記されています。律法を遵守するファリサイ派の人々は律法を守れない人々を罪人と呼んで差別をしていました。それゆえ様々な差別とレッテルに苦しめられて、自分自身を見てもらえなかった人がそれだけ多くいたのではないかと思います。

私たちはどれだけ、あなたの隣にいるその人自身と、関わることが出来ているでしょうか。この御言葉を胸に、この一週間を過ごしていく中で、もしかしたら多くの人にレッテルを貼りつけてしまう自分を見つけてしまうかもしれません。あるいはほかの人からそのように見られていると感じることがあるかもしれません。

けれどもどのようなときにも神様は私たちのありのままの姿を見ていてくださっています。キリストはそのような私たちを導き出し、そんなあなただからこそ、わたしのところへおいで、と招いてくださっているのではないでしょうか。

キリストは罪人と共に食卓を囲んでくださった。その言葉は、単なる相席ということではありません。仲間として認めると意味があるのです。神様に招かれ、仲間とされた、神様の家族の一員として、私たちはその恵みをありのままに、受け取ってまいりたいと思います。