2018年6月20日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

──マルコによる福音書2章18-22節

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現在でも多くの宗教が断食を行っていますが、宗教的儀式としての断食には、神様に心を向けるためのものという共通点があるように思います。生前のイエス・キリストもユダヤ教徒でありましたし、ユダヤ教では、旧約聖書の時代にイスラエルが陥落し、神殿が破壊されたことを神様に罪を犯した罰として捉え、そのような日を覚えて罪の懺悔と赦しを求める行為として断食を行っていました。
けれどもファリサイ派の人々は本来神様に心を向ける断食の最中に、神様からわき目を振って、断食をしていないイエスの弟子たちを裁くかように問いかけています。もはやファリサイ派の人々にとって断食、それが定められた律法は、神様に心を向けるためのものから、それを守れない人々を裁くために使われてしまっているのです。

私たちも現代において、キリストの教えを聞いています。人を愛し、人に仕え、共に生きる。素晴らしく理想的な教えであると思うでしょう。けれども実際の生活の中で、私たちはその教えはどれだけ守れているでしょうか。その教えが正しいものであることをどんなに理解していようとも、誰かに愛をもって接してあげたいと私たちがどんなに願っていても、実際には、いつもそうあることはできないという現実もあるのではないでしょうか。
そんなとき、私たちにとって、キリストの教えが重荷となる、そんな時もあるかもしれません。あるいは自分よりも愛にあふれた人を見て妬んだり、キリストの教えを守れない人に理想的な生き方を押し付けようとしてしまう、そんな私たちがいるかもしれません。

だからこそ、キリストは今は断食をする時ではなく、婚宴の時のように喜びなさいと言ってくださっています。
キリストの教えを守ることのできない私たちだからこそ、弱く神様の前に罪深い私たちだからこそ。だから私はあなたと一緒にいるんだと言ってくださる。だからあなたを愛しているんだと言ってくださる。そのようなキリストが共にいることを知るとき、私たちの中からたくさんの祈りの言葉があふれ出てくるのではないでしょうか。
つらかった。くるしかった。この一週間、あなたの御言葉に従って生きることができませんでしたという祈りをもって神様の前に立つとき、それを確かに受け止めてくださるキリストが、今、私たちと共に生きておられる。それは耐え難い喜びではないでしょうか。
神様によって私たちの全てが受け止められている、その喜びが私たちにあって初めて、またこの一週間もキリストの教えを守って生きようと、新しく歩みだすことが出来るのだと思います。

キリストは断食に新しい意味を持たせました。断食をするとき、それは花嫁が奪い去られる時──キリストが十字架にかかっていく時、そして私たちと共におられる神様が見えなくなる時であるのだと。
けれどもそのようなときにこそ、キリストの十字架を見上げなさいとキリストは言われるのです。そこには罪の赦しがあります。今や断食は、罪の懺悔のためにではなく、キリストの十字架によって私たちが新しくされていくことを表すものとなったのです。
そこには祈りという言葉では表現しきれない意味があります。神様に心を向けていくその時に、私たちの日々、私たち自身の全てが十字架によって新しくされていく。だからこそ、それを断食という言葉をもってキリストは語られたのです。
どのようなときにも、こうしてキリストの十字架を思い起こし、キリストが私たちを新しくされていること、そしていつでも共におられることを覚えて、歩んでいきたいと思います。