2018年7月18日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

──マルコ福音書4章26-34節

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今回の箇所では神の国についてのたとえが二つ記されています。神の国とは、神様の支配がすべてに及んでいる世界のことです。キリストが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1:14)」と言って始められたとおり、今も教会は神の国の実現のために、福音である聖書の言葉を伝えるという宣教の働きを担っています。

宣教は種まきである、とよく表現されます。この種は、神様の言葉のことです。その種が芽吹き、蒔かれた人の中に信仰の実をつけていくというように捉えている言葉です。その中で、私たちが誰かに信仰を持たせたりすることはできません。その人に信仰が与えられるのは、すべて神様がなさる業であることが、ひとつのめのたとえに示されているのです。

その反面で、種まきにばかり一生懸命になるあまりに、あとは神様にまかせっきりにしてしまう私たちも時にはいるのではないでしょうか。
確かに蒔かれた種が芽吹き成長するために、私たちの力は必要ないかもしれません。けれども私たちもまた、種を蒔いた農夫として、その芽がよりよく育ってほしいと願い、草取りだって水やりだってやってあげたいと思うのではないでしょうか。
宣教も同じだと思います。私たちは種を蒔くだけではない、その芽吹いた人々を大切に思い、その人のために愛をもって関わり続けていく、そのような私たちの業をも、神様は用いてくださるのです。

それでは私たち自身に蒔かれた種は今、どのような状態なのでしょうか。一度でも教会に足を踏み入れた人々は誰しも、何らかの形で種まきをされています。信仰の実が豊かに実っているでしょうか。あるいは何年も実をつけることができずに、静かに私たちの中に佇んでいるでしょうか。

牧師になって最近よく思うことは、どんな本を読むよりも、教会の信徒の方からのお話を聞くほうが、何倍も信仰の助けになるということです。慰めになり、力になり、喜びになります。
そのように、私たちが互いに信仰を共に分かち合う、その友がいるからこそ、一人ひとりの信仰の実は、より豊かにされていくのだと思います。

だからこそ、ふたつめのたとえは語ります。神の国はからし種のようなものであると。
私たちの中に芽吹いた種が、様々なことで思い悩み、信仰の実をつけることのできない時にも、互いにそれを分かち合うことを通して、私たちの信仰の実は再び豊かに与えられていくのです。私たちは時に思いもかけないかたちで他のキリスト者に出会い、その出会いから再び教会へと導かれたりします。そのような不思議なめぐりあわせを神様が与えてくださることによって、私たちの予想を超えて、神様は神の国を大きくされるのです。

今週一週間、私たちの中にある、神様から与えられた種に心を寄せてみませんか。私たちが神様を知ったのは、いつのことだったでしょうか。どうして出会って、そして信じたのでしょう。
そして今、神様を信じているということは、自分にとってどのようなことであるでしょうか。そのことを少しでも、思い返す時を持ってみませんか。
きっとその時にこそ、私たちが新たな種を神様から手渡される時になるのではないかと思います。なぜなら私たちの宣教の力は、私たち自身が神様と関わるところにこそ生まれるからです。

キリストはすべての人の救いのために、私たちにも、御言葉の種を差し出しておられます。その種を手に取ってまいりましょう。私たちのすべての働きを、神様は宣教の働きとして用いてくださることを信じて、これからの一週間を過ごしてまいりたいと思います。