2018年7月25日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。


──マルコ福音書4章35-41節

† † †

「向こう岸に渡ろう」とキリストは弟子たちに言われます。
弟子たちは言われるままにキリストと共に船に乗り、ガリラヤ湖を渡ろうとしました。しかし弟子たちは悲痛な叫び声をあげています。
「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」!

これまで数々の奇跡を起こし、数々の人を救ってきた、この人についていけば何も心配はないと信じて、今回も弟子たちはキリストに従っていったはずでした。けれども突然吹き荒れる風と波によって、弟子たちの乗る船は水浸しになり、転覆しかけています。しかも肝心のキリストは眠っておられる。
弟子たちは思ったことでしょう。どうして主は眠っておられるのだ、私たちをお見捨てになったのだろうかと、キリストを疑ってしまうのです。

私たちもまた、キリストの弟子として、教会と言う船に乗っている一人ひとりであります。キリストのみ言葉によって導かれ、キリストと共に船に乗っています。
私たちが生きる中で、本当にここに神様はいるのかと思うようなことはたくさん起きます。人間関係の中で。災害のように避けられない痛みと困難の中で。
目の前に起こる理不尽な出来事・不条理は、神様を信じていればいるほどに、私たちの信仰をかき乱していくかもしれません。
神様はなんで私を守ってくれないのだろう、こんなに信じているのに、と。

しかしキリストは、信仰が揺れて荒波のようになっている私たちの信仰に「沈まれ」と、「怖がることはない、神様を信じなさい」と、力強く言ってくださっているのです。
この御言葉を聞いた私たちが、信仰をもって神様にすべてを委ねるとき、不条理と不安に揺れる私たちの心をも、凪のように、平安に満たしてくださるのです。

東日本大震災について書かれた、山浦玄嗣著『「なぜ」と問わない』という本があります。その中で、被災した東北の人々について、「なぜ、自分たちはこんな目に遭わなくてはならないのか、などと言う人は、ひとりもいなかった」と紹介しています。
そしてなぜ、と問わなかったのは、神様を道具として見ていなかったからだ、と書いておられます。

私たちは神様を救いの道具にしてしまってはいないでしょうか。信仰と救いを神様と交換するために信じているのでしょうか。いざという時のために、神様が助けてくれることを期待して祈るのでしょうか。
キリストは眠っておられました。それを「見捨てた」と思ってしまうのは私たちの信仰がリターンを求めているからではないでしょうか。それは人の罪と呼ばれるものです。不条理の中に、神様はどこにもおられない、そう感じるときにこそ、私たちの信仰が罪の荒波に飲み込まれそうになっているのです。

だからこそキリストはそのような私たちに言われます。「黙れ、沈まれ」と。その御言葉によって、私たちの罪の荒波を凪にし、神様の平安で満たしてくださるキリストが、いつも共におられます。
日々の生活の中でおこる荒波、人間関係の苦しみや病、避けられない不条理の中にあってなお、私たちと共に船に乗っておられるキリストが、神様を信じなさいと言ってくださっている。私たち一人ひとりも、その御言葉に、すべてを委ねてまいりたいと思います。