2018年8月15日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

──マルコ福音書6章6b-13節

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キリストは人々の病をいやし、悪霊を追い出す奇跡を人々にもたらしていきましたが、その働きを弟子にも担うようにと言われます。この箇所では汚れた霊を追い払うための力を12人の弟子たちにも授け、宣教のために送り出していくのです。
しかしキリストは弟子たちに不思議な制限をつけています。二人ずつ組にすること、そして杖以外には食料もお金を入れる袋も持っていってはならない、とするのです。
一人より二人のほうが悪霊を追い出す力が強まるということはないでしょうし、食料やお金があれば、自分が食べる以上に誰かに分け与えるということもできたかもしれません。効率を考えるのであれば、キリストが弟子たちを送り出したそのやりかたは、逆効果に感じられるのではないでしょうか。

しかしそれは、キリストが私たち人間という存在をよく知っておられたからこそなのだと思います。
私たちは本来、このからだ、このいのちの他に何一つ持たずに生まれてきます。けれども私たちは成長するにしたがって、いろんなものを自分のものにして着飾っていきます。それゆえ、私たちは普段、誰かを「なにができるか」「なにをもっているか」という目で見てしまいがちではないでしょうか。
キリストが生きた時代、人々もそうでありました。人々にとってキリストは「病を治してくれる人」「悪霊を追い出す力を持っている人」として見られてしまっていたことでしょう。キリストが人々に奇跡を言いふらさないようにと繰り返し戒め、奇跡の与え主なる神様がおられることを根気強く語っていかれたのもそのためです。
だからこそ私たちがキリストから力を受けて送り出される時、私たち自身が「何を持っているのか」を思い起こすのではなく、「神様とわたし」「神様と私たち」との関係を思い起こすことから、その一歩は始まっていくのではないかと思います。なぜなら宣教に用いられるその力は、私たちの力ではなく、神様から与えられた力であるからです。

教会の中だけで使われる言葉の中に、「導き」というものがあります。偶然とも思えるようなきっかけが与えられたり、思いもよらない形で人と人とのつながりが起きるときなど、私たちは人知を超えた者の存在を感じることがあると思います。教会ではそれを、神様が導いてくださったのだ、と言います。

教会に普段来られていない新しい人が来たとき、たとえば昔キリスト教の幼稚園に通っていたのだとか、一度だけキャンプでお世話になったりといったつながりがあることが分かった時、私たちは神様によって再会を与えられたのだと思い、その導きを感謝し喜びます。初めて教会に来られたのだという方にはよりいっそうの喜びがあります。

だからこそキリストは弟子たちを決して一人では送り出しはしなかったのだと思います。私たちを宣教の働きへと押し出していく力は、互いに私たちが神様との間に起こった喜びを分かち合うことから生まれてくるものではないかと思います。私たちが神様から与えられた恵みや導きを互いに分かち合い、そこに湧き出る喜びをまた他の誰かと分かち合っていくときにこそ、教会の宣教とは初めの一歩を踏み出すことが出来るのではないでしょうか。

私たちは決して一人ではありません。教会に集うすべての人を、神の家族として、兄弟姉妹と呼びます。私たちはここで御言葉と共に喜びを分かち合い、そしてまたこの新しい一週間を歩みだしていくのです。
教会を出れば、隣には誰もいないのだと思うかもしれません。しかしそれは違うのです。キリストは御言葉を通して、いつでも私たちと共におられます。私たちと兄弟姉妹、そして私たちとキリストとが、二人組とされて送り出されているのです。
私たちといつも共にある御言葉によって、今週一週間もまた、誰かと喜びを分かち合うために、歩みだしてい参りたいと思います。