2018年8月29日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。


──マルコ福音書6章45-52節


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1.いるのに見えない神様


キリストは弟子たちを「強いて舟に乗せ」、先に行くようにと指示しています。弟子たちはそう指示をされたものの、キリストが舟に同乗しないことに不安を覚えたのかもしれません。
以前ガリラヤ湖を船で渡った時(マルコ4:35)には、眠っておられたにせよ、キリストは弟子たちと共に舟に乗っておられましたが、今回は違います。キリストは祈る為に山に登られています。それゆえ弟子たちから遠く離れたところにおり、弟子たちは自分たちだけで進んでいかなければならなかったのです。

キリストはこののち逮捕され、十字架にかけられていきます。弟子たちはすべて逃げ去っていきます。キリストが復活したのちも、弟子たちと永遠に共に生きたわけではなく、天に昇っていかれました。
キリストは確かにいてくださる、しかし私たちの現実の中で、目に見える姿ではいてくださらない。そのなかで私たちは神様を信じて日々を過ごしていかなければならない。その難しさと不安は、弟子たちが逆風の中を漕ぎ悩んでいる姿に現れているのではないでしょうか。


2.「通り過ぎる」イエス


漕ぎ悩む弟子たちのもとに、キリストはやってきます。しかしここで「そばを通り過ぎようとされた」とあるのはなぜでしょうか。
キリストは漕ぎ悩む弟子たちを助けようとしたのではないのか、という疑問が起こるかもしれません。この「通り過ぎる」という表現は、旧約聖書において神様が人々の前に姿を現す時に使われる表現です。
手を触れなくとも、言葉を交わさなくとも、神様はあなたがたと共にいるのだということを弟子たちに伝えるために、キリストはこのように“通り過ぎ”ようとされたのです。


3.自分のことで精いっぱい


聖書を読み、主日のたび教会に集う私たちは、一人ひとりがみ言葉からキリストに倣うようにと聞き、そのように生きようと思うことであると思います。けれども実際にはそう上手くいかないことも知っているのではないでしょうか。
キリストのようにすべての人を愛することはできないし、御言葉に触れるたびに、自分のことだけで精いっぱいだった自分を見つけるのではないかと思います。
弟子たちもまたそうでありました。神様があなた方と共におられる、その顕れがすぐそこで起きているのに、逆風の中を自分たちの力だけで進もうとするあまり、それを幽霊だと思ってしまうのです。


4.寄り添う神様、解放する神様


私たちは主日以外の時間に、どれだけ聖書を開くことがあるでしょうか。
聖書は勝手に開いて私たちに読めと声をあげたりはしません。けれども自分のことだけで精いっぱいになっている私たちにそっと寄り添っているのです。
しかしそれでは私たちの世界が狭まってしまって、なおも自分のことばかり考え、逆風の中で苦しみ続けることを、キリストは知っておられました。
だからこそキリストはもう一歩私たちに向かって踏み出し、私たちをその苦しみから解放する言葉を語ってくださっているのです。

「安心しなさい、恐れることは何もない。わたしが、あなたと共にいる」。


5.私たちと共におられる神様


私たちは神様を見ることはできないかもしれません。けれども神様に出会うことはできます。
聖書を通して、神様は私たちに寄り添い、いつでも語り掛けてくださっているからです。
私たちが聖書を開くとき、そこには私たちの主、イエス・キリストがはっきりと顕されていること、そしてそのキリストが私たちと共におられて、自分のことで精いっぱいになってしまう私たちが決して一人ではないことを語ってくださっています。
迷う時。神様が見えなくなる時。自分のことばかりに目が行ってしまう時に、聖書を開きましょう。神様に会いに行きましょう。
御言葉に聞く私たちと共に、いつだって神様がそばにいて、共に歩んでくださっていることに力づけられて、一日一日を、歩んでまいりましょう。