2018年9月5日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」


──マルコ福音書7章1-15節


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1.聖書に書いてない”律法”


ファリサイ派の人々や律法学者たちは、聖書に記された律法を守ることはもちろん、「昔の人の言い伝え」をも守っていました。
聖書には汚れた手で食事をしてはならない、とは書いてありませんが、これは「昔の人の言い伝え」のほうに含まれているルールでした。彼らにとってそれは聖書の律法と同じくらい権威のあるものとして扱われており、だからこそ弟子たちを見て律法学者たちは言うのです。なぜ、あなたの弟子たちは昔の言い伝えに従っていないのか、と。

2.解釈することのあやうさ


いつの時代においても、聖書は解釈を通して受け取られていきました。キリストの時代よりも「昔の人」の時代においても、生活の中で起こりうる課題に対して、聖書から解釈をした様々なルールを新たに付け加えていったのです。
そのような働きを担っていたのが、律法学者たちでした。彼らは日常のあらゆることに聖書の律法を適応させるため、聖書の律法はもちろん、聖書から解釈され生み出されたルールを守ることも大事であると考えていました。
しかしキリストは彼らに対して「あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。」と言われるのです。
キリストはこのことを通して、日々の中から聖書を読み、解釈をしていくことのなかにある危うさを、私たちに教えてくれているのではないでしょうか。

3.律法を超えるキリスト


現代においてもまた、聖書の正しい読み方というものがはっきりと決められているわけではありません。時には自分の考えを正当化したり、権威付けをするために、その根拠として聖書のみ言葉を用いてしまう、ということが起こりうるのです。律法学者たちが聖書の律法ではなく人が作り出したルールに「聖書に書いてあることから考えた」という権威付けをして、弟子たちに「何故従わないのか」と言ったように。
キリストもまた、聖書を正しく読む、ということについては触れていません。
ファリサイ派の人々や律法学者たちにはただ、「神の言葉を無にしている」という現実だけを語られただけで、これが正しい聖書の解釈だ、ということは言われませんでした。「古い人の言い伝え」ではなく聖書の律法こそが守るべきものであるのだ、とも明言されていません。それどころか、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく」という言葉によって、旧約聖書を文字通りに受け取る律法学者たち、律法そのものを乗り越えていくのです。

4.神様の御心はどこにあるか


私たちが聖書を解釈するとき、そこには一人ひとりが聞き取っていくメッセージが生まれていきます。同じ箇所であっても、時に慰め癒し、時に叱咤し、時には背中を押してくれる言葉になるかもしれません。聖書は、その時々で私たちに違うものを語り掛けてくるものなのだと思います。
だからこそキリストは、聖書の言葉だけではなく、自ら解釈し生み出したものによって他者を縛ろうとした律法学者たちに対して、それは神様の御心にかなったものであるのかと、イザヤの預言を引きながら問いかけていかれたのです。
「この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。」

5.聖書は神様からのラブレター


私たちが聖書を解釈するとき、私たちはその心を神様から離してはならないのだと思います。なぜなら私たちをどうにかして救いたい、その一心で語られた御言葉が、聖書のどこを開いても溢れているからです。
聖書は、私たちに送られた神様からのラブレターなのです。私たちが神様に心を向けることができるのは、神様が私たちに愛している、心を向けてくださっている、そのことを知るからなのです。
私たちはその神様の愛を通して、すべての御言葉を受け取ってまいりましょう。そこにこそ、私たち一人ひとりに与えられる救いが、語られているのですから。