2018年9月12日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

 ──マルコ福音書7章24-30節

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1.異邦人に冷たいキリスト?


シリア・フェニキアという土地には、バアル神やアシェラ神という異教の神々を信仰する人々が住んでいました。アシェラ神は女神の名前であり、ギリシャではアフロディーテと呼ばれる神様です。美と豊穣の神様であり、裏を返せば不道徳な性の神様として知られていました。旧約聖書では信仰してはならない神様として登場しています。
それゆえ、悪霊を追い出してほしいという願いをもってキリストのもとへとやってきたフェニキアの女性に、キリストは冷たい言葉を返しています。
この「まず、子供たちに」という表現から、まずイスラエルの人々が救われるまでは、異邦人であるあなたに救いを与えるわけにはいかないのだ、とキリストが言っているように聞こえてしまうのではないでしょうか。
私たちもまた、異邦人であります。弟子たちが異邦人伝道をしていくなかで、なぜマルコはわざわざ異邦人に厳しく当たるキリストの姿を福音書に残したのでしょうか。

2.フェニキアの女性の信仰と祈り


これまで弟子たちや律法学者たちの誰も、イエス様を主よ、と呼ぶ人はいませんでした。しかしイスラエルの神を信じていないとされる異邦人の女性が初めて、イエス様を、主よ、と呼んだのです。
さらに彼女は、自らが子犬と呼ばれたことを否定せず、子どもが落としたパンくずのようにわずかな恵みでも私には充分であるのだと、なおも救いを願い求めていったのです。
私たちはこの彼女の言葉に、神様との格闘を見ることが出来るのではないでしょうか。
神様の厳しい言葉をまっすぐに受け取りつつ、それでもきっと神様は求める者に必要な救いを与えてくださるはずだという強い信仰と、イエス様の姿を通して神様、と呼びかける力強い祈りを聞き取ることが出来るのではないでしょうか。
だからこそキリストは彼女の願いを聞き届けられたのであります。

3.祈りは神様との対話


以前に何度か信徒の方からこういう言葉を聞いたことがあります。
「祈っても、具体的な返答が返ってくるわけじゃない。だから祈るたびにむなしくなっていって、祈ることをやめてしまうんです」と。
しかし今日の箇所でキリストが彼女の祈りを聞き届け、救いをお与えになったのは、祈りもまた、ただ一方的に私たちが願い求めるだけではない、神様との対話/格闘であるのだということを教えるためではないかと思うのです。
私たちの祈りの対話は、祈り終わってなお続いているのです。なぜなら祈りを確かに聞き届けてくださるキリストは言われているからです。
「それほどいうなら、よろしい。家に帰りなさい」と。
この言葉を原典から直訳すると、「その言葉のゆえに、行きなさい」となります。彼女が家に帰ると悪霊が追い出されていたように、神様からの答えは、祈りの中だけでなく、祈り終わって、日々の中を歩む中において返されていくものでもあるのです。

4.救いに順番待ちはありません


私たちの祈りは、私たちの救いは、順番待ちなんかじゃありません。
神様は確かに、すべての人の祈りを聞き届けてくださっていて、日々のあらゆることを通して応えてくださっています。
キリストがフェニキアの女性の祈りを通して救いをお与えになったように、神様は私たちの祈りに必ず答えてくださるのだと信じる、その信仰を通して、日々の中に共に働いておられる神様を見つける一週間を過ごしてまいりたいと思います。